週刊RO通信

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NO.1346

 人間の歴史を絞り込めば、世界を呪術的な束縛から解放してきたと言えるのではなかろうか。しかし、目下はなんとなく居心地がよろしくない。芥川龍之介(1892~1927)は「僕の将来に対するぼんやりとした不安」と書き残した。その含意とは違うが、いま、世界中の人が不安という言葉を身近に感じているであろう。

 ギリシャ神話に登場するPan(パン 牧畜の神)は、下半身が羊の半獣神で、昼間は木陰などで眠っている。眠りが妨げられると怒って暴れ回る。そこからパニック、恐怖にかられての狼狽、恐慌状態という言葉になった。不安の心理に点火すればパニックになるが、それではいかにも面白くない。

 自分の考えたことがすべて実現できるとか、あるいは自分の意に沿わぬ事態が発生するとパニックになるのでは、いかにも人間さまの名にふさわしくない。思ったことが現実だという思い込みは、主観的なのではなく、妄想的なのであり、アニミズム的(呪術・宗教の原始的形態)なのであって、歴史を逆に歩んでいるのと変わらない。幼稚である。

 こんなときは高邁な精神の本がよろしい。『啓蒙の思想』(1944)を半醒半睡で味わう。というのは、浅学非才にとってはなかなか食らいつきにくくて、ともすれば瞼が閉じてしまうのである。

 著者は、ドイツの哲学者アドルノ(1903~1969)とホルクハイマー(1895~1973)である。2人とも1933年に祖国を追われて各地を転々とした後、ようやくニューヨークで再会し、共同して、『啓蒙の思想』を書き上げた。

 問題意識のポイントは、人間はなぜ真に人間的な状態に踏み入らず、一種の野蛮状態に落ち込んでいくのか。これは本当に奇妙なことである。第一次世界大戦が終わって、誰もがほとほと人間の馬鹿さ加減に愛想が尽きたはずだったが、その反省からわずか20年後には第二次世界大戦に突入する。

 科学や技術が進み、道徳倫理観も時代と共に進歩するはずであるが、個々の人間は、個別に育ち、長くても100年で消えていく。新たに生まれた各個人が、人類が到達した科学・技術・道徳倫理観をマスターできないからではあるが、たとえば人々によって選ばれる政治家が、並みの人々よりも優れていないことを考えれば、そんなものだと達観するわけにもいかない。

 同書によれば、人間は、啓蒙されたといいつつ、実はつねに神話的なるものの支配を脱し切れないのだとする。神話的なるものというのは、神話そのものではない。啓蒙の成果たるものが、神話的になってしまうという。たとえば、権威の形(たとえば法律)をとって現れる。

 改正インフルエンザ対策特別措置法が3月13日に成立した。国民の生命や健康への重大な被害のおそれや、国民生活と経済に甚大な影響がある場合に、首相が「緊急事態宣言」を発令できるとする。

 要するに、これは、国民が一糸乱れず「緊急事態宣言」によって公布される措置に従えという。わたしは、これによって私権が制限されるとか、ひいては民主主義の全体主義化につながるという批判がしたいのではない。

 ウイルスへの対抗措置をとらねばならないが、ただし、人間さまの法律がウイルスを従わせないことを指摘したいのである。感染拡大のスピードを遅らせるというが、遅らせる期間をどのように判断しているのか。

 目下の感染増大は1日平均して30数人である。感染がなくならない限り、いまの不安定な生活・経済活動を続けねばならない。欧米の知見では、ワクチン開発は早くても1年半程度だという。当局や専門家会議に対する国民の期待は大きいが、日々にいかなる知見が作られているのか。

 科学的なデータに基づいた公正な知見を積極的に公開して、現状理解を国民的に共有することこそ最重要の活動ではないのか。いままでのところ、政府は「仕事しています」というポーズばかりで、国民の不安をほぐして、しっかりした社会的意志を固めることに貢献していない。

 自身の思索に頼らず、権威や伝統、あるいは法律に頼ろうとするのも1つのidola(偏見)である。それに依拠した政治もまた、啓蒙を神話的にしてしまう。つまり、せっかくの文明を使いこなせないことに通ずる。ウイルス防御の最大の力は、確かな知見を広めることにある。