週刊RO通信

政治家がギャンブラーになる時

NO.1345

 スペイン風邪が大流行したのは、1918~19年である。世界人口20億人に対して感染者が5億人、死亡が1億人近くになった。発生源は米カンザス州にあった陸軍基地であるが、第一次世界大戦中であり、中立国であったスペインで発生して世界に報じられた。ところで、A型インフルエンザH1N1亜型と確定されたのは1997年であった。

 M・ウェーバー(1864~1920)が、有名な『職業としての政治』と題する講演をしたのは1919年1月、スペイン風邪が世界中を荒らし回っていた。M・ウェーバーの講演から考えたことを書く。

 政治家(選挙で選ばれる)は、権力をめざして活動する。とりわけ政治家個人としての最大課題は、常在戦場であり、1に選挙、2に選挙、何がなんでも木から落ちない猿、いや、落選してただの人にならぬように奔走する。選挙戦こそ、皇国の興廃この一戦にありで、知恵を絞り、動員できるものは何でも使う。まことに不惜身命で闘うのである。

 実弾射撃は相変わらず効果的である。資本主義は、概しておカネこそが信仰の対象であるから、たまたまおカネが融通できれば法律を破ってでも投入する。選挙におカネがかかるから汚職がなくならない。だから政党交付金を作ったはずであるが、他者に先んずるためには、相変わらず危ない橋を渡る人が跡を絶たない。本人にすれば止むにやまれぬ、というつもりだろう。

 いくら使ってもしょっ引かれないのが言葉である。もともと口から先に生まれたような御仁が政治家をめざす。政治家たるもの、「言葉によって人間を治める」(ディズレーリ)のであるから、ひたすら当選をめざしてわが身の売り込みに尽力する。自分が信ずるものを信ずるための理屈を編み出そうとするとき、人はおおいに天才を発揮する。

 誇大妄想、誇大宣伝、傲岸不遜と謗るならそしれ、いかに謙遜謙虚が美徳であろうとも、わが身が矮小に見られてなるものか。一般人の不可能を可能にすると信じ込ませねばならない。という次第で、大方の政治家はカリスマ的スタイルの創造に向かって驀進する。大きな公約ほどよろしい。はたまた公約が実現しなくても腹を切る必要はない。責任政治家と政治家が語るとき、その責任は、最悪の場合で辞職すればお終いである。

 政治家がかかる心構えであっても政治家たり得るのはなぜか? 政治家の公約なるものを具体的に実践する実働部隊としての職業政治家=官僚が仕事をこなしてくれるからである。官僚(公務員)は、俸給と人々のために働くという誇り=名誉心によって活動する。煎じ詰めれば、上級であろうが下級であろうが、官僚もまた労働者の1つの形態である。

 かくして、政治家としての専門性は選挙政治家ではなく、職業政治家である官僚に属している。ここで、誇り高き官僚であるか、俗物根性の官僚であるかの分かれ道に直面する。そこで、M・ウェーバーは、官僚たるものは選挙政治家の党派性や、思想信条に縛られず、生粋の仕事師として行政に当たれと語った。これが職業政治家=官僚の矜持である。

 ところが、わが国の上級官僚には概して奇妙な選民意識が依然として巣くっている。かつては天皇の官吏であった。選挙政治家何するものぞ、われわれこそが真の政治家であるという気風である。国家主義的国粋主義や官尊民卑の気風は戦後75年を経ても、いまだ残存しているみたいである。

 いまは天皇の官僚でなく、国民の公僕であるが、官尊から公僕へのコペルニクス的転回ができない。そこで、かつて心中少なからず優越感をもっていたはずの職業政治家の僕になってしまった。いわく、人事を握られていて身分保障が心細い。官尊民卑の外面の中では、選挙政治家の顔色をうかがうヒラメ官僚と化した次第である。その本質は、職業能力を矜持とした官僚が、それを失っているのではないかという危惧が沸く。

 それがために、職業能力に「?」がつく政治家が、「私が責任を持って」とか、「果断に政治的判断をする」と大見得を切るようになったみたいである。これは絶対に好ましい傾向ではない。政治家の果断な決断はギャンブルである。「Help us, Heavenly Father」である。

 M・ウェーバーはスペイン風邪で亡くなった。