週刊RO通信

世論の1人として考える

NO.1336

 ドラマを地で行くようなゴーン氏の脱出劇で年が暮れた。今度は、イランの国民的英雄ソレイマニ司令官が殺害され、イランの首都テヘランでは怒りの大デモが起こり、最高指導者ハメネイ師は報復を口にした。

 以前から、イスラエルに鼻面を引き回されているトランプ氏が、人気下降中のネタニヤフ氏の権力強化作戦に引き込まれたとの見方を捨てきれない。もちろんトランプ氏自身の大統領再選戦略の一環である。

 いったい、政治家はなぜいつまでも人間として進化しないのか。次から次へと新しい野蛮状態を生産して恬として恥じない。民主的な選挙によってまともな政治家が選ばれるはずなのに、選挙での勝利獲得が、政治家をして無軌道な言動・行動に走らせている。まさにデモクラシーの陥穽である。

 ランケ(1795~1886)が、1854年にマクシミリアン2世に世界史を講義した際、王が「現在は、昔よりもはるかに多く道徳的に優秀な人間が存在しているだろうか?」と質問した。ランケは「そのような主張はほとんどできない。道徳において進歩を仮定することは不可能である」と答えた。

 その理由は、「道徳はあまりにも密接に人格と結びついている」。だから、「後の時代になるほど道徳的に一層高い能力を身につけた人間が増加することは考えられない」。いまだランケの主張を覆せないのが残念至極である。

 シュペングラー(1880~1936)は、「観念の歴史は絶えずその行程を歩んでいくが、精神の歴史はつねに新しく始まる」と書いた。観念だけではない、科学技術は日進月歩であり、後世代になるほど学ぶ知識は進歩する。

 しかし、獲得した知識や技術を好き放題に悪用・濫用する連中が絶えない。ことは極めて深刻である。とてつもない悪を働いた本人に、仮に生命で償わせたとしても悪の作用の償いはできない。すべての悪事は「やり得」である。知識のある連中ほど恐れずに悪事(とりわけ戦争)をなす。

 「政治は最高の道徳である」というのは、現実をいうのではなく、そうあらねばならぬという意義である。手を挙げて政治家を志す人は、少なくとも、並みの人々の尊敬に値する道徳人をめざすべきだ。

 そうでない人間は、天下国家を語り、政策を論議する資格を持たない。現実的には、政治家は憲法や法律を遵守するのが最低限の義務である。わが国においても、この間、極めて乱暴な政治が続いている。

 国会を、自分や取り巻きの不祥事で空転させておきながら、「野党は政策論議に乗ってこない」とか、「憲法を変える」などと語る安倍氏は、デモクラシーの政治家としての資格がない。顔を洗って出直すべし。

 子どもの世界でさえ、ゲームで遊ぶときに、誰かがルール違反をやればお互いに注意する。ルール違反をやる連中にゲームをする資格はない。この程度の弁えすらない政治家と官僚、そして、ご用提灯新聞の堕落ぶりは、問題の性質上、寄ってたかって日本国を食い物にすると批判されても仕方がない。

 日本がようやく近代化の扉を開いた19世紀末の欧米先進国の論調は、正しい行動を促すには、理性があれば大丈夫だという信念が支配していた。その時代に先立つ啓蒙主義思想の時代から人々は新しい光明に感じていた。

 しかし、1914年から欧州で第一次世界大戦が始まった。当時の人々は、まさか5年の長きにわたる戦争の惨禍になるとは考えなかった。それだけに、大戦の衝撃は物理的なものだけではなく、精神において痛烈な反省を呼んだ。

 思想家ヴァレリー(1871~1945)は、『精神の危機』において、「文明も滅びる。ヨーロッパの知性たる私はどうなるのか?」。知性を駆使するのは人間の意志であり、意志、すなわち精神が王道を歩まねばならぬと戒めた。

 第一次世界大戦後、国際連盟を提唱した米国大統領ウィルソン(在1913~1921)は、「人々は、政治家が権力ゲームをやっていることを知っている」から、「人々の理性によって構築される世論に拠って立つならば、馬鹿な事態を避けられる」ことを期待した。

 国際連盟英国代表セシル卿(1864~1958)も、「本当の武器は、経済・軍事的、物理的な力を持つ武器ではなく、世論という名の武器である」と高らかに演説した。しかし、世論もまた誤謬の道を突き進むのが歴史的事実である。世論の1人として「わたし」が問われている。