週刊RO通信

なぜ、社会の活力を感じないか

NO.1661

 社会の活力といっても、見えずつかめず、観念的な問題ではあるが、今の社会に活力がみなぎっていると感じる人は少ないだろう。自分が社会人になってからの体験からすれば、1960年代から70年代の活力がもっとも高く、土地バブルの80年代は際立って浮ついていた。90年代にバブルが崩壊して以来、30年過ぎるが、いまだ活力が蘇った実感がない。まだ調子が出ないのはなぜか。

 新しい「もの・こと」に向けて挑戦しているとき、個人も社会も活気がある。ある明確な課題を解決するために関係者が総力を挙げる。新商品、新技術、製造方法の改善・開発、新しい市場の開拓など、いずれも上司が号令をかけただけでは容易に解決できない。業を煮やした上司が大号令、叱咤激励するがやはりだめだ。そのままうやむやになる事例が多い。泥沼から足抜けできない事情だ。

 ところで、人間の行動は主体と状況の関数である。公式化すると、人間行動B=f(P,S)。fは関数、Pは主体、Sは状況である。人は状況において成長するという意味は、状況を漂うのではなく、自分が主体的に状況に関わることだ。課題に受け身で対応するだけでは主体的ではない。成功しなくても主体的に取り組んだ結果は達成感や次への経験を積むが、主体的でない行動をだらだら繰り返すことによって、ますます状況に背を向け、活力を減退させる。

 人から主体性を奪うのは官僚主義・管理制度である。1980年代に、ほうれんそう(報告・連絡・相談)という言葉が登場した。それをきちんとやることが組織活力向上に有益だという。もちろん、部下の報告・連絡・相談が円滑でないのは具合がわるい。しかし、活力があった時代には、「いちいち上司に報告しない部下たれ」といった。自分で判断できる人に育てというのである。

 そもそも、ほうれんそうごときを組織活力の手段と考えること自体が官僚主義・管理制度の悪弊である。いちいち部下が上司を煩わせるに値することなのか。程度の低い部下のほうれんそうにつきあっているのが上司の仕事ならば、上司のポストなどあってないのと同じだ。上司は上司たる仕事に奔走してこそである。

 これは組織のコミュニケーションが未熟のせいである。日本にコミュニケーションという言葉が浸透し始めたのは戦後であるが、いまだ十分に理解され取り組まれていない。始末がわるいのは、人間関係をよくすることだと誤解している人が圧倒的に多い。だからコミュニケーションが上等だという中身が「仲良しごっこ」になる。コミュニケーションは、メンバーが共通する課題に向かって苦心しているときに成長するものだ。その旗を振るのが上司である。

 官僚主義・管理制度の形式が整っているが、では、その中身はどんなものか。本来、官僚主義・管理制度は、課題達成のいわば後方支援であるが、多くの人々は制度の階段を上ろうとする。ねらい目は一番二番三番が出世、四番が課題達成という調子だろう。課題に挑戦するのはリスクがあるから敬遠される。実際、80年代以降、組織は管理体制の強化にばかり傾倒した。官僚主義・管理体制を強化しても課題達成能力は向上せず、活力をどんどん喪失する。

 社会の主人公は働いている人々である。働く行為は生活を支えるためであるが、それだけでは退屈だ。社会は、お互いの働きかけ、考え方の交換、お互いの刺激、それらの蓄積体験――などによって活力を発揮するものだが、とりわけ働く社会は人の交流の質が高い空間である。果たして、働く空間が人々の活力の空間になっているだろうか。健全な活力空間がなければ社会は発展しない。

 シュンペーター(1883~1950)にはイノベーションの希薄な人は、官僚・政治家・僧侶だという名言もある。そのような個性が社会のリーダーとしてもてはやされるような社会が活力を発揮する可能性は少ない。一人ひとりが活力源だ。