論 考

「マイノリティに寄り添う」論の疑問

筆者 小川秀人(おがわ・ひでと)

 「マイノリティに寄り添い多様性を尊重しましょう・・・」。それはとても美しく漂白された表現だ。これを声高に唱えている人は、自分がマジョリティの側にいると思いたいのだろうか。あるいは何等かの隠れた意図があって、戦略的に自身を一旦マジョリティの側に置いているのだろうか。はたまた大きな勘違いをしているのだろうか。

 突き詰めれば、人はみんなマイノリティだ。二人として同じ人間は存在しない。抱えている悩みや、生き辛さのカテゴリーもジャンルにしても、お互い本当のことは何も知らない。一方で、我慢できない個人が声を上げる、主張すること自体は自由であり、その自由は絶対的に尊重されるべきだ。しかし、当事者が望むと望まざるとに関わらず、それを利用して当事者全員がそうであるかのような無理筋を通そうとする活動家たちには辟易する。

 山本七平著『空気の研究(1977年)』をあらためて読んでみた。日本社会は法律やルールよりも「場の空気(今風に言えば同調圧力か?)」が人々の行動を規定する。その空気は誰が作ったか分からないが一定の力を持ち、反対すると「村八分」的な制裁を受ける。

 さらに山本翁は言う。戦時中の海軍が、形をなさない作戦を強行させておいて、後にその最高責任者が何故それを行なったかを一言も説明できない状況を引用し、「空気」はまことに大きな絶対権をもった妖怪であると。同著が世に出て50年を経過した今こそ言い得て妙だ。

 反面「空気を読む」は、自らを抑制したり自制したりすることで周りとの調和を保ちながら無用な対立を避けようとする日本人の間合いであり、一概にネガティブワードとも言えない。考古学的に1000年続いたと言われる縄文時代が、殆ど争いごとのない平和な社会であったことを踏まえれば、「空気を読む」は日本人のDNAに組み込まれた抗いようのない性質ではないか。

 話を戻すと、「マイノリティに寄り添いましょう」にはいくつかの誤謬がある。一つは、空気を読んで自称マジョリティや〇〇活動家に呼応し、マイノリティに寄り添うフリをすれば問題は解決するのだろうか。それは単なるファッションであり、「マイノリティに寄り添う私って結構イケてる」という類のエセ理解者を増産するだけである。ましてや、これが組織ぐるみの取り組みとなると一層タチが悪い。かなり減ってはきたが企業イメージのアップに繋がると本気で考えている経営者すらいる。

 もう一つは、それを強行に推し進めようとする輩に限って、異を唱えようものなら途端に「差別主義者!」などと罵る。いわゆる「ノーディベート」と言われる態度だ。昨今は、右翼も左翼も、保守もリベラルも、その仲間内だけで極論に走っているきらいがある。いやはや、まことに生き辛い世の中になったものだ。万に一つでも、この「生き辛さ」に寄り添ってくれる活動家がいれば、筆者は喜んで共闘したいと希う(笑)。