筆者 新妻健治(にいづま・けんじ)
はじめに
前回の論考において、私は、人間いかに生きるべきか、また、どう生きたいのかという本質的動機に根差せば、社会は変えられるとした。そして、これを可能としていくことが、ラディカルな民主主義だという提起をした(*1)
これについて、労働組合におけるラディカルな民主主義の取り組みは、「はたらく」ことの意味・意義を大衆的に拡散し、掘り下げる活動であるとの示唆をいただいた。(*2)
労働組合の運動の基点、そして起点とは、職場における私たちの「はたらく」行為にある。ゆえに、私は、労働組合が、私たちがどう働くことで、雇用を確保し、そして労働条件の維持向上という基本機能を果たすとともに、働く仲間のそれぞれの満足な人生、そしてそれを可能とする社会を創り出していけるのかという、「働き方/生き方」を、労働組合の運動課題として取り組み、学んで来た。
この示唆を、あらためて自分のものとして受け止めるべく論考とした。
「はたらく」とは?―「労働存在論」の観点から
「存在論(ontology)」とは、あらゆる存在者が存在者としてもつ共通の特質や、その根拠を考察する学問である。そこで、「労働存在論」とは、労働、つまりは「はたらく」ことを存在させる、根本規定を明らかにするものだ。
内山節(哲学者、1950生)、竹内静子(社会思想家、1935~2006)は、労働存在を、「本来の人間の労働」とした。「本来の人間の労働」とは、人間のすべての生活過程を指す。そして、「本来の人間の労働」とは、人間の創造の行為であり、人間は、その創造の喜びを感じ、感性や想像力を発揮して活動する。またそれは、人間と人間、人間と自然との相互性・交通を本質とした営みとして為されるものだという。(*3)
人間は、労働によって、感性や想像力、価値観、価値基準、尊厳にもとづく人間関係、モラルや規範を培い、社会を形成する。そして、人間として生かされ、人間として存在した。つまり、「はたらく」こととは、人間として存在すること、人間として生きることそのものなのだ。
「はたらく」とは?―資本主義の観点から
現代社会に生きる私たちにとって、「はたらく」ことは、一般に、職に就いて、仕事をすることと捉えられている。それは、いわゆる賃労働である。賃労働とは、資本主義経済市場における交換価値を生み出す労働(商品生産)に対し、その対価としての賃金が支払われるというものだ。
この、私たちが、「はたらく」こととして捉えている賃労働に対し、前述の「本来の人間の労働」を照射すると、賃労働は極めて狭義であり、狭小な範疇で規定されていることに気づく。
つまり、賃労働とは、人間として生きることそのものである「本来の人間の労働」から、商品生産のみが切り離されたものなのだ。人びとは、資本主義経済社会において、これを生活手段とせざるを得なくなり、それに膨大な時間とエネルギーを傾注することとなった。
ナンシー・フレーザー(政治哲学者1947生)は、資本主義において、この商品生産の労働を可能とするのは、不可視化されている社会的再生産の存在にあるとした。この社会的再生産とは、人間を生み育て、社会的つながりを築き維持するための生活基盤を成立させ、それを営むケア労働というものの相互作用の形を指す。このことが、資本主義経済における商品生産に欠かせない主体を形成しているという。(*4)
この社会的再生産の領域の相当部分は、労働ではないもの、つまり、私たちの認識において、「はたらく」ことではないものとされ、かつ、資本主義に取り込まれ、また、相当部分を公的機関がこれを担うようになる。これにより、私たちが、「はたらく」ことと捉えていることは、「本来の人間の労働」から、さらに狭義で狭小なものとなってしまった。
このことにより、私たち人間は、「本来の人間の労働」で培ってきたことの多くを失い、資本主義および商品生産の論理を内化し、それを精神の習慣とし、また、自然および人間との交通から切り離され、弱い個人として孤立し、人間存在の本質を見失い、さらには、その前提となる環境および社会の持続可能性をも毀損してきた。
「はたらく」こととは?―「人間いかに生きるべきか?」という観点から
「人間いかに生きるべきか?」という問いに対して私は、人間とは、人間存在と、その前提としての持続可能性、そして、人間の生の根源的目的としての尊厳の確立に、自らの保有能力のすべてを発揮することであると考える。
そうであれば、賃労働による経済価値獲得を至上とする私たちは、「人間いかに生きるべきか?」の観点からして、極めて狭義に、狭小な範疇で、生きている。つまり、それは、自らの生を根源的目的に向けて全うすることなく生きているのだと、言えるのではないだろうか。
ゆえに、私たちは、「人間いかに生きるべきか?」という観点から、現代の「はたらく」という概念を覆う賃労働を相対化し、「はたらく」ということの、人間にとっての意義と意味を深く追求し、自分の生を全うして生き得るということに、向かわなければならない。
「本来の人間の労働」の回復
ここまでの論理を踏まえると、労働組合におけるラディカルな民主主義の取り組み、「はたらく」ことの意味・意義を大衆的に拡散し、掘り下げる活動であるとの示唆とは、私たちが、「本来の人間の労働」を今日的に回復し、人間存在とその尊厳を取り戻すことに対して、自らの生を全うし得る、持続可能な社会を実現することとだと言えないだろうか。
私は、それに向けて、私たちが、人それぞれの独自の「労働の系」を創造すること、そしてまた、その前提として「時間主権」(後述)を確立することを、運動課題として提起してきた。(*5)
「本来の人間の労働」とは、非経済労働・経済労働・消費を、自然条件を含む共同体をめぐる環境や様々な条件に応じて組合せ、それらとの均衡を図ったものとして、人それぞれの「労働の系」としてあり、人間存在と尊厳、その前提としての社会の持続可能性を可能としてきたからだ。(*3)
ゆえに、私たちは、この「本来の人間の労働」の回復に向けて、人それぞれの「労働の系」を創造することに向かうべきだと考える。そして、そのために必要な前提とは、自分自身が、自分の限られた人生時間をどう配分するのかという「時間主権」(*6)を、社会化することだと考えた。(当面は、労働時間短縮が最重要の課題となる。)
これにより、人びとが、「本来の人間の労働」の視角をもつことになり、現代社会の行き詰まりという深刻な問題に気づきながら、人間としての生き方に行き着いていくのだ。
よって、人間の生き方の総体としての社会は、大きく変わっていくに違いない。
さいごに
日本の労働組合運動の先頭に立つべき連合は、「働くことを軸とする安心社会」をビジョンとして提起し、働くことに最も重要な価値を置く社会の実現を説く。しかし、働くこととは何かの定義は、そこには見当たらない。
そしてそれは、資本主義経済社会における賃労働において、その公正さを保持し、働く人の社会的・経済的な自立を図るという政策制度次元のものに留まっている。日本の労働運動は、敗戦後の混乱期の政治闘争から経済闘争へ、そして経済が行き詰まると、偽りの労資和解から、社会変革の主体であるという存在意義と存在価値を見失ってしまったのだ。
労働組合は、「はたらく」とはなにかの哲学、そして、いかに「はたらくべきか」の思想を追求し、人間の生き方を根本とした運動論を構築し、組合員の参加関与という最も重要な運動資源を、その社会的な拡散・深化の媒介として、大衆を巻き込む運動を展開し、社会変革を担うべきである。それが、労働組合の存在意義であり、存在価値だからだ。
年末にいただいた示唆から、年頭に、自分自身の信念を確かめてみた。
<引用・参考文献>
*1 論考「社会は変えられる!」、新妻健治、ライフビジョン学会HP・論考 2025年12月28日付
*2 ライフビジョン学会を主宰する奥井禮喜氏から、同、ホームページに投稿した私の論考に対して、コメントをいただいた。
*3 「往復書簡 思想としての労働」、内山 節+竹内静子、1997年 農山漁村文化協会
*4 「資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか」、ナンシー・フレイザー著、江口泰子訳、2023年 ちくま新書740
*5 「私の提言-連合運動の座標と運動論の検討」、新妻健治、日本労働組合総連合会(連合)および公益財団法人教育文化協会懸賞論文「私の提言―テーマ: 働くことを軸とする安心社会-まもる・つなぐ・創り出す-の実現に向けて連合・労働組合が今取り組むべきこと。」への応募論文、2021年
*6 佐々木政憲、「オルタナティブ・ソサエティ 時間主権の回復」2003年 現代企画室、「時間主権」とは、時間総体に対する自己決定権をいう。
