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春の賃金交渉を面白くする――全国的に話し合いを

奥井禮喜

「逆境の資本主義」論

 日経新聞が年明けから「逆境の資本主義」という企画を開始した。これについては週刊RO通信no1284(2019.1.7)、no1337(2020.1.13)も参照してほしい。資本主義下で企業が利潤第一主義に狂奔し、圧倒的多数の人々が日々の暮らしを楽しむどころではなく、「格差社会」で困っているのだから、正しくは「資本主義下の逆境」、「矛盾山積の資本主義をどう変えていくか」と題するのが正しい。日経に、そのセンスがあるかどうか。

 しかし、資本主義体制を神の声のごとくに信奉して、さらにコストカット策に走るというごとき方向に傾斜するのではお話にならない。フォイエルバッハ(1804~1872)は、「神の人格性は、人間の外化され対象化された人格性に他ならない」として「人間が作った神に従属させられることは疎外である」と喝破した。これを援用すれば、現代資本主義社会における人間疎外が問題の核心である。さらにいえば、人間が資本主義を作ったのであり、作られたもの(制度)が永遠に人間を支配することがあってはならない。その無理な支配を解決していくために、われわれは現状をよく考えねばならない。

 それはともかく、問題意識を共有している経営者もいるであろう。それにただお任せするのでは能がない。ここでは、いわゆる「逆境」で働く人がいかに考え行動するべきか。おりから春季賃金交渉なので、賃金を中心に、「逆境」の労働者・組合について考えてみたい。

自由放任させないためのバラスト

 企業活動を自由放任に放置すれば、社会的富の偏在が拡大して、一部の富める者と圧倒的多数の貧しい者の格差が拡大する。これ、260年前のイギリスで資本主義が本格化したときから、すでに体験済みである。そこから苦難の道を歩いて、社会改善勢力としての組合運動が世界中に広がった。

 つまり、「逆境」が、経営者にとってなのか、労働者にとってなのか。いずれに視点を取るかによって、行く末は大きく変わる。たとえば経営者は社会保障の負担がありがたくない。十分な福祉といえないまでも、社会保障制度は資本主義(企業)を暴走させないためのバラストであったし、これからもそれは変わらない。社会保障の未熟自体が資本主義の自由放任の証明である。

 目下の「逆境」の大きな側面は、社会的格差が拡大したことにある。100年前の社会と比較すれば、世界ははるかに豊かになったはずである。しかし、果たして現在の人々が豊かになったと感じているであろうか。平均的数字でみれば豊かになっていても、社会的富が極端に偏在しており、富める者はごく少数であるから、圧倒的多数の人々は豊かさと無縁である。

逆境の元凶

 フィナンシャルタイムズの名コラムニスト、M・ウルフは「レンティア資本主義」だと批判する。すなわち、一部特権階級がレント(超過剰利潤)の大部分を搾取しているのが、「逆境」の元凶だとする。ために健全な競争が減少し、生産性が伸び悩み、格差が拡大した。その結果は、世界中で衆愚政治が氾濫して、民主主義が破壊されつつある。競争の衰退は、一部巨大企業への集中が進む。ほとんどの経営者が守りに入って、積極的な投資をしない。米国を筆頭に大企業の利益率は異常に高い。ウルフ説は説得力がある。

 残念ながら、資本主義経済における最高権力者である大部分の経営者は、企業が社会的公器だということを無視している。企業が社会において権力を維持し、経営者自身が権力の座を固守するのみだ。オーナー企業では、「会社はわしのものだ」「わしが会社だ」という意識の経営者は極めて多い。この程度の見識だから、「逆境の資本主義」というような危機感を持ち合わせていないであろう。

 19世紀半ば、産業革命に沸くイギリスのマンチェスターを訪問したF・エンゲルス(1820~1895)が、あまりにも町が不潔で荒れていることを、1人の英国紳士に指摘した。紳士は平然として、「でも、ここではおカネが稼げますよ。では、さようなら」と応じたと書き残した。いまの世界の「紳士方」が、当時から進化していると考えられないのが遺憾至極である。

健全な企業・健全な働き方

 企業の目的は、もちろん利益を上げなければならないが、企業活動が健全な社会において展開されているのかどうか程度の認識は確保してほしい。企業自体が社会に問題を発生させながら利益を上げるのであれば、反社会的行為である。ワーク・ライフ・バランスにせよ、「働き方改革」にせよ、方向性としては多少の前進といえなくもないが、本当に問題の本質が認識されていない。

 労働生産性の向上や、働く人の士気向上については、1日8時間・週40時間労働において検討されるべきであって、労働生産性を前提として労働時間を考えるのは本末転倒である。しかも、これは、明治近代化以来の日本産業界の悪しき伝統である。にもかかわらず、本末転倒だという認識を持つ人があまりにも少ない。ものごとを論理的に模索しないのだから、まともな経営管理がなされるわけがない。その結果は、相変わらずの精神主義である。

 80年ほど前、東条英機が陸軍航空部隊で青年士官に講演した話がある。東条が「敵の戦闘機を何で撃墜するか?」問うた。士官は「ハイ、機関銃で撃ち落とします」。さすがは東条である。「馬鹿、精神で落とすのだ」。笑いごとではすまない。一皮むけばいまもこの調子である。大企業において、パワハラがなくならないのは、要するに、いずこも同じ秋の夕暮れで、精神主義をありがたく掲げて竹槍戦法を繰り返しているからだ。

なめられた国民

 「一億総活躍」だという。カゴに乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人であって、カゴに乗る経営者はいくつになっても働きたいであろう。しかし、担いだり、草鞋を作る、労働者はできることなら早々にリタイヤしたい。各種調査で高齢者の働く意欲が高いというが、仕事を楽しむために働く人は決して多くはない。現実は、働かなければやっていけないからであって、働く意欲が強いのではない。政治に人々の気持ちが届いていない。

 安倍氏が、「一億総活躍社会」を打ち出し、今度は、「諦めの壁」を完全に打ち破ったなどと言う。「諦めの壁」なるものは何か。いずれも二流の広告代理店的コピーで、核心を突いているとはとても言えない。しかし、働く人が「諦めの壁」状態にあると見抜いたとすれば、さすが広告代理店的政府である。

 国民を侮っているとしか言えない施政方針演説であるが、立腹する国民は少ない。施政方針演説も、議会の在り様も別世界だと国民が見ているのであれば、これぞまさしく「諦めの壁」である。壊れてもいない「諦めの壁」を打ち破ったとのたまう厚かましさには、破壊されているとしか言えない日本的民主主義が見えるというものだ。

春季賃金交渉を面白くする視点

 多くの組合が参加する春季賃金交渉の目的はもちろん賃金引上げにある。連合がベースアップを強く主張するのは正しい。事実、労働者の生活はほとんど改善されていない。そこで、「春季賃金交渉を面白くする」工夫を関係者のみなさんにお願いしたい。面白いから盛り上がる。どうせやるなら交渉を盛り上げたいであろう。

 ここで、注目したいのは、組合員の意識である。わたしの取材によれば、大方の組合員の気持ちは、①賃金が安い、②労働時間が長い、③有給休暇が取れないという3点セットである。

 そうであるならば、賃金交渉が盛り上がって当然であるが、昨年までは組合員段階の盛り上がりがほとんど感じられない。客観的には「諦めの壁」にみえる。名目ではざっと1000万人が賃上げ交渉に参加する。これが盛り上がりを見せないのは、連合・産別が提起する要求と①②③の認識が不一致なのであろうか。いや、盛り上がらなくても、みんなが冷静に事態を注視していて、経営側に対する暗黙の圧力ができていると考えるべきなのだろうか。

 ①②③は、1人ひとりの認識としては大方がそうであろう。しかし、それが働く人全体の認識として共有されていないのである。①安いから、②長く、③休みが取れなくても働く。これが、いまの働く人が陥っている循環である。長い労働時間(②③)によって、一定の収入を維持する。②③を改善することは収入①が減ることになる。長時間労働、残業は麻薬的習慣性がある。その習慣性とは、低賃金と長時間労働の循環を当然視して「諦めの壁」にあるわけだ。

本当に稼いでいるのか

 稼ぎに追い付く貧乏なしという価値観にとらわれているとしよう。なるほど働かない時間は1円にもならないのだから、働くほうが実入りがある。しかし、働くことによって、働かない自由な自分の時間の価値が失われている。「自分の時間の価値」はいくらなのであろうか。経済学では、自分が本来持っている時間は「財」である。自分の時間の価値がいくらか、一度、じっくりと考えてみてほしい。

 自分の時間の1時間当たりの価値を仮にXとする。3時間働いて3000円稼いだとする。そうすると、本当の「稼ぎ=3000円-3X」である。わたしが若かったころ、終業間際に急に残業を命じられて、予定していたデートができず、がっくり来た仲間がいた。理屈では残業代を稼いだはずだが、彼の気持ちは晴れない。失った時間の価値は戻ってはこない。

 自分の自由な時間に、自分が好きなことができる。「したいことをする」時間の価値に気づいた人は、麻薬的悪循環を断ち切ることができる。「したいことをする」のであれば、いくら時間を投入しても喪失感がない。喪失感のない時間をたくさん持っている人の人生は元気である。

 職場にはいろんな趣味を持って活動している人がいる。趣味というものは、同好の士でなければ、「なんや、あほらしい」というようなものである。わたしの周辺には、1年中、走り回っているマラソンマンがいる。たいしたものだと感服するけれども、自分が大したものになりたいとはさらさら思わない。もし、わたしが無理してまねれば義務的負荷時間になって、体力増進の前に精神的にへたばると思われる。かたや、自由にして意気揚々たる時間である。この違いはまことに大きい。

健康な働き方の概念

 ある哲学者は、次のような表現を残した。

 ――わたしは、わたしの人生において、わたしの個性と、その独自性とを対象化し、したがって活動の間にわたし自身の生命発現を楽しみ、対象物を観照することによって、わたし自身の喜びを味わう――

 マラソンマンに重ねれば、マラソンが好きでたまらない彼が走る(自分を対象化する)ことによって、走っている間は自分の生命発現を楽しみ、終われば自分が構築した記録や走っていたときの満足感を回顧して、人生の喜びを味わうというわけだ。

 もちろん、仕事が好きで好きでたまらない人もいるはずだ。仕事を通して自分の作物を完成させ、終わればそれを観照して満足感を味わう。もし、そうであれば、その場合、仕事は仕事であるけれども、趣味である。わたしのかつての尊敬するボスは、プラモデルが趣味であった。国産初の人工衛星を制作されたが、「プラモデルも人工衛星も同じだ」と語られた。自分の好きなことに時間を投入するのだから、マイナスのXがない。遊びながら仕事をして充実感を体験し、人工衛星を宇宙へ見送って満足感を味わう。

 働く人の立場で仕事を考えてきたが、「働き方改革」というならば、本来めざすべき働き方とは、誰もがこのような考え方を育てられることだと思う。それは資本主義体制であろうが、社会主義であろうが、働く人が捜し求めている彼方の働き方であろう。

職場に話し合いを

 賃金の話がだいぶ遠くへ来てしまった。春季賃上げ交渉は、日本中の働く人が取り組む一大イベントである。職場で、1人ひとりが、日ごろの生活や仕事について歓談弾めば、ひょっとすると、前述のような話にまで登っていくかもしれない。逆に、日ごろの生活や仕事に対する疑問・悩み、愚痴・不満、あるいは憤りが発せられるかもしれない。そのような、生活や仕事の話の渦が出来上がればこそ、春季賃金交渉が盛り上がる。

 十分にご存知とは思うから失礼があればご容赦いただくとして、春季賃金交渉を盛り上げるために、全国のあらゆる職場で春季賃金交渉を語り合う集会を開催してもらいたい。なんといっても、組合の力は、組合員の参加があってこそである。昼休みでも定時後でもよろしい。職場集会を大々的に開催しよう。

 職場組合委員の①②③の思いを連合に届けたい。待っていても職場集会が自然発生しないから、そこは、連合⇒産別⇒単組から職場のみなさんにお願いしよう。職場集会の内容は、職場⇒単組⇒産別⇒連合への流れで掌握する。

 活力ある組織は、トップと末端の相互コミュニケーションが成立する。昔の軍隊は上意下達・下情上達といって、上が意志を下ろし、下は情(事情・感情)を上へ上げる建前になっていたが、現実は上意下達のみで、その反対はなかった。いまの連合体制が昔の軍隊と等しいなどというつもりはないが、下意上達がほとんどないことは否定できないだろう。

 組合運動は、大衆運動である。連合や産別の関係者には、大衆を動かす仕事をやってもらいたい。大衆が動かなければ大衆運動ではないのである。連合や産別の社会的発信力が弱いという声を聞く。社会的発信力を高めるためには、連合と職場が相互に意思交換する仕掛けが必要である。

 「諦めの壁」(このような意味で話したのかどうかは知らないが)を叩き潰すのは組合運動でありたい。全国津々浦々での職場集会は単純なアイデアであるが、わたしとしては、挑戦する意義が十分にあると確信する。ぜひ、実現していただきたい。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人