週刊RO通信

日経「逆境の資本主義」について

NO.1337

 日経新聞が1月1日から「逆境の資本主義」という企画を連載している。意欲的な企画である。勤め人諸氏におかれても、おおいに勉強の役に立つであろう。ただし、企画タイトル「逆境の資本主義」は刺激的であるが、もう一つ明快さを欠く。逆境というなら、利潤が鍵の資本主義下で、その恩恵どころか日々の暮らしに難儀している人々が逆境にあるのだから、「資本主義下の逆境」、「矛盾山積の資本主義を、どう変えていくか」とするべきだろう。

 本企画の背後には、日経チームの資本主義絶対論がある。「乗り越える課題は山積しているとはいえ、この先も資本主義に代わる選択肢はない」(1/10)というパラグラフが示している。この考え方はいただけない。

 資本主義(capitalism)は、商品生産が支配的な生産形態であり、生産手段を有する資本家階級が、自分の労働以外に売るものを持たない労働者階級から、材料などと同じく労働力を商品として購入し、それを使用して生産した剰余価値を利益として入手する経済体制である。

 「見えざる」仕組みの資本主義がおおいに発達したのは産業革命以降である。英国で産業革命が疾風怒濤となった1760年を起点とすれば、今年は資本主義260年である。森羅万象ことごとく変化して固定しない世界において、「この先も資本主義に代わる選択肢はない」と断言するのでは、見なければならないものが見えないのではないか。老婆心ながら——

 フォイエルバッハ(1804~1872)は『キリスト教の本質』(1841)で、(単純に表現するが)「神の人格性は人間が作った(自分を対象化した)。人間が作った神に人間が従属させられるのは疎外である」。だから、神学よりも、人間学(Anthropology)こそが大切だと喝破した。神でさえ人間が作った。まして人間が作った資本主義を、他に選択肢がないと断言してしまうのであれば、時代逆行、資本主義の神格化になってしまうではないか。

 A・スミス(1723~1790)は、かの『諸国民の富』(諸国民の富の性質及び原因に関する研究 1776)で、経済学という科学を初めて体系化した。いまも、社会科学の古典として尊重されている。

 スミス以降のすべての経済学は、同書が出発点である。スミスの時代には、専制国家による各種の制限、干渉、束縛があったから、彼は自由・放任・解放を主張した。たとえば、重商主義を批判し、関税や植民制度の有害さを説いた。だから、自由・放任の歴史的意味がいまとは異なる。

 『諸国民の富』に先立って、スミスは『道徳情操論』を書いた。この2書はセットで分かちがたい関係にある。『道徳情操論』の狙いは、人間とは何であるか、道徳的人間と非道徳的人間は何によるものかを考察した。

 スミスの(神の)「見えざる手」は誰でも知っている。「企業や個々人の利益追求が結果的に社会全体を豊かにするとして自由競争の効用を説いたが、何かがおかしい」(日経1/1 企画シリーズ冒頭)と書く。それは、スミスの記述がおかしいのではなく、スミスが期待した道徳的人間が社会のリーダーシップを取らず、非道徳的人間が多数派だからである。

 スミスは、「神は人間に利己心を与え、人間はそれによって幸福を求めるが、利己のためには他人の存在、他人の幸福が必要である」とした。なぜなら、人は他人の困苦を見ると憐みを感ずる。人は、他人の運命に関心を持つから、同感(fellow feeling)し同情(sympathy)する。「見えざる手」は、スミスが経済と道徳を調和的関係として考え、彼自身そのように生きたからだ。

 『諸国民の富』で、スミスは社会的分業の効能を説いた。「労働の神聖」という言葉があるが、宗教的面を除いて考えても、社会がなければ生きられない人々1人ひとりの労働こそが、社会基盤を維持し発展させてきた。なるほど、各人は自分と家族のために働いているだろう。にもかかわらず、労働を大切にする人々の活動の総和として現代社会が存在する。

 平等な市民同士のはずだが、資本主義下では、多くの富を獲得した市民が社会的リーダーシップを取っている。スミスは平等対等な人々の経済活動を考察した。問題は経済権力の使われ方である。目下、日経的「逆境の資本主義」は、視点が定まらず内容が拡散している。やがては収斂させねばならない。スミスの原点からお考えいただくのも有益であろう。