月刊ライフビジョン | メディア批評

改めて事件報道のあり方が問われる日大事件

高井潔司

 日本大学の前理事長が東京地検特捜部によって、12月20日所得税法違反(脱税)で起訴された。私は先月号で、朝日新聞の報道を「巨額の金を受け取ったが、ごっつぁん体質だから、罪に問えないと言わんばかりのトーンだ」と指摘し、理事長の行為は少なくとも「悪質な所得税法違反であり、通常なら逮捕されてもおかしくない。朝日の記事にはこうした厳しい批判の目が感じられない」と批判した。理事長はその後、逮捕され、辞任し、起訴されたわけだが、この事件をめぐるその後の報道は相変わらず手ぬるく、先月指摘したように、「御用聞き」体質が抜け切れていない。この事件に限らず、御用聞き報道の“副反応”は極めて大きい後遺症をもたらしている。

 起訴内容は、理事長の側近が大学の付属病院の取引で不正に得た利益を理事長に還流させ、理事長が税申告を怠ったというものだ。そこで問われている罪は、いわば泥棒がその利益を税務申告しなかったという程度であり、結果として捜査が十分尽くされたのかどうか、疑問が残る。

 ところが、少々長くなるが、朝日は逮捕時にこう書いて、特捜部を称賛している。

 「両被告(すでに背任で起訴されている井ノ口・元側近理事、藪本元医療法人理事長)は田中理事長には他にも誕生日や理事長再任の祝い金を渡したと供述した。特捜部はこうした『ごっつぁん体質』(検察幹部)を問うために脱税容疑での検討を水面下で進めた。協力を求めたのは脱税事件を専門的に扱う東京国税局査察部(マルサ)。「申告漏れ」と異なり、刑事罰を目的とする「脱税」には意図的に申告しなかった犯意の立証が不可欠だった」

 「マルサと特捜部が着目したのが14年ごろの税務調査だった。田中理事長は当時6千万円を超える申告漏れを指摘され、修正申告に応じていた。現金を受け取れば申告が必要なことは以前の調査で十分に認識したはずだ――。隠した所得も脱税罪の起訴の目安とされる1億円超まで積み上げ、犯意と金額の双方で刑事責任を問えると判断した。『検察の執念を感じた』。国税関係者はそう語った」

 一方、起訴時点での毎日新聞の報道も、「日大前理事長はなぜ『完落ち』?」との見出しで、「田中被告は、当初は東京地検特捜部と全面対決の姿勢を見せていたが、逮捕されると約1週間で容疑を全面的に認める『完落ち』に転じた」と、「完落ち」を連発し、これまた完全に捜査が尽くされたかのような持ち上げ方だった。

 家宅捜査によって、1億をこえる出所不明の現金が出てきたわけだから、脱税は明々白々で、その罪を認めた程度で、「完落ち」などと言えるのだろうか。その出所やその金が不正によるもので、その事情を知っていたことを認めさせて初めて「完落ち」というのではないか。井ノ口被告はアメフト問題でいったん理事を解かれたのに再度理事に復帰したのも見ても、彼らが日大を食い物にしていたことがわかる。

 朝日の記事で言えば、以前にも巨額の脱税の前歴があり、その上での捜査なのだから、脱税で逮捕したくらいで、「検察の執念」というほどの捜査なのだろうか。「現金を受け取れば申告が必要なことは以前の調査で十分に認識したはずだ」などと書いているが、理事長は「不正な金と知っていたから申告しなかった」というのが正確ではないか。逮捕、拘留した上での捜査なのだから、そこを追及しなければ執念の捜査などと言うには値しない。

 毎日の記事によると、「完落ち」に導いたのは、「紙袋の中を見たらたくさん入っていた。お礼が遅くなって、すいません」という理事長の妻が残した留守電という。これを聞かされ、自供しないと妻にも罪が及ぶことを恐れた田中理事長が現金の受領を認めた。何のことはない、妻を不問とする代わりにしぶしぶ無申告の罪を認めただけの取引ではないのか。「完落ち」というには程遠い。

 この事件をめぐる報道を振り返ってみると、逮捕前から理事長は背任の事実を知らず、受領した金の出所も知らず、背任の罪どころか、脱税の罪さえ問うのが難しいといった捜査の見通しに関する報道が続いた。こうした情報は、普段は情報管理が厳しい検察側から得ているのは明らかだ。その結果、検察のメディアを操作を容易にしてしまう。私が御用聞きではないかと批判した逮捕2週間近く前の朝日報道はこうだ。

「『ごっつぁん体質』。検察幹部は相撲部出身の田中氏をこう評し、『現金を受け取っていても全体の構造を知らなければ背任罪の共謀認定は簡単ではない』と語った」と書いている。

検察幹部の話は、一般論であり当然のことを言っているだけで、ニュースでも何でもない。だが、それを報じる結果、それが捜査の見通し報道と受け止められる。その結果、脱税を本人が認めただけなのに、報道自身も執念の結果の完落ち捜査という過大な評価になってしまう。読者の感覚を忘れ、検察側の立場から報道しているからそうした評価の報道になってしまう。

 話は少々飛ぶが、最近、私の授業に現役の記者を呼び、最近の日本の報道について、学生の質問に答えてもらった。「記者になって一番驚いたことは?」との中国人学生の問いに、「聞いてはいたが、これほどニュースの現場で競争が激しいとは。警察、検察担当になると、毎日のように夜討ち朝駆けといって深夜、早朝、捜査官の家に取材に出るんです」と答えていた。この話を聞いて、激しい取材合戦を通して生まれるニュースを、字面だけで批判しては申し訳ないなと思う反面、このネット時代にまだそんな取材をしているのかとの疑問にかられた。

 記者時代、この夜討ち朝駆けが一番の苦手だった。夜討ち朝駆けを通して取材先と良好な関係を作り、発表前に情報を引き出す。それが記者の常道であり、記者としての評価もそれによって決まる。しかし、取材先の情報閉鎖を認めた上で、いずれ発表となる情報を、事前に人間関係を使ってリークしてもらう。何だか、インチキなゲームのように思え、そういう思いで夜討ち朝駆けの真似事をしてもいい結果が得られるわけではない。

 東京本社社会部で警察担当をしていたころ、大阪社会部(当時黒田軍団と称されていた)が戦争責任や戦後民主主義の検証に重点を置く紙面展開をしていた。社会部の懇親会で大阪社会部の紙面を面白いと漏らしたら、警視庁キャップから怒鳴られた。

 「あんなのは新聞ではない。評論だ。記者の仕事は、取材を通して1行でも新しい事実を付け加えることなんだ」。

 それもわかるが、リーク取材は結局、相手の情報独占と情報操作を許すことになる。それによって、どれだけマスコミが冤罪作りに加担したり、人権侵害を起こしてきたことか。袴田事件、松本サリン事件などがその典型だ。さらに事件の再発防止どころか、再発を促すような報道さえ見られる。

 例えば、12月に大阪で発生したクリニック放火事件。事件後、毎日のように小出しに情報が報じられた。犯行にガソリンが使われた、ガソリンはバイク用だと偽って購入した、非常扉にガムテープで開けられないよう目張りしていた、二つのガソリン入り紙袋を持ち込み、一つに火を着け、もう一つは入り口付近にまき散らした、ナイフのようなものを振り回し、逃げようとする人を遮った、などなど、全部犯行の手口を競うように報道していた。すべて捜査当局からのリーク情報である。挙句、犯人は京都アニメション事件などいくつかの事件の新聞記事を保有し、参考にしていたと報道している。報道すべき情報かどうかの吟味を忘れ、垂れ流し状態である。こんな報道ぶりが、次の事件を誘発しないのか、心配だ。

 もういい加減、事件報道のあり方を考え直すべきではないのか。事件の発生後、警察、検察の捜査、当局の調査の過程を連日のようにこまめに報道する日本の事件報道のスタイルは、世界的にはむしろ珍しい現象だ。朝夕刊をセットにし、断片的な情報であっても、速報していくというスタイルを一貫して継続してきた。その結果、各新聞とも同じような紙面になってしまっている。

 さらに、テレビやインターネットの出現は、新聞の速報性を無意味にした。夕刊の読者が激減し、朝日新聞の夕刊を見ると、もはやニュースの速報を止めた。ただ、この新聞は夕刊読者が減ったための対策であって、事件報道のあり方を見直したわけではない。

 断片的な情報を、時間を競って報道するのではなく、事件の全体像、本質が見えて来た段階で、捜査のあり様も含め報道していくというスタイルに切り替えていく必要があるのではないか。

  そんなことを言っていると、元ダメ記者のトラウマから出たたわ言とと、また警視庁キャップから怒鳴られそうである。


◆ 高井潔司 メディアウォッチャー

 1948年生まれ。東京外国語大学卒業。読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て、桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授を2019年3月定年退職。