月刊ライフビジョン | メディア批評

ネット時代の政治的常識

高井潔司

公共性を脅かすインターネット社会――参院選の一側面

 多くの専門家が「どの党も勝利を得られなかった」という評価を下した先の参院選。大した波風も吹かず、平和ぼけしたニッポンの現状を反映した結果だったと言えるかもしれない。その中で、私にとってサプライズかつ不可解だったのは、「NHKから国民を守る党」が組織的に立候補者を立て、しかも、当選者まで出したことだった。それは公共性ひいては社会の根本を揺るがす前兆であるかも知れない。

 選挙公報によると、この党の公約は「NHKをぶっ壊す!」、「NHKスクランブル放送の実現」、「NHK受信料を支払わない人を応援します」だというが、これは政策ではなく、NHKに対する私憤ないしは私怨でしかない。ほとんどの新聞、テレビも泡沫政党、泡沫候補扱いだった。しかし、この〝政党″から攻撃されているNHKだけが、この政党の候補たちの政見放送を律義に流し、その存在が一般にも知られるようになった。ひいては当選者を出す一因にもなった。

NHKの公共性を否定しながら、公共放送を利用する

 これは不思議な構造である。ぶっ壊すと攻撃されているNHKがその党の政見を流したのに対し、民放テレビは全くこの党を放送の対象にしなかった。「公共放送」というNHKの性格から、泡沫扱いできず、放送せざるを得ないのだ。実際のところ、NHKに視聴料を支払ってNHKの番組を見ている視聴者にとって、こんな不愉快な政見放送もないだろう。私などはすぐチャンネルを変えた。だが、これはこの政党の思うつぼかもしれない。公共放送の公平性という〝弱み″につけ込み、つまらぬ政見放送で、視聴者を引き剥がそうというなかなかの〝知能犯″ぶりだとも言える。

 こんな政党が何と当選者と一定の得票数を獲得し、政党要件を満たしてしまった。しかも、選挙後は北方領土で酒に酔って様々な暴言を吐き、辞職勧告決議を受けた丸山穂高衆院議員の入党を要請した。まるでNHKの政治討論番組に殴り込みをかけようという勢いだ。そこには政党活動によってどのような社会を構築していくのかというビジョンが全くない。NHKの公共性を否定しながら、NHKの公共性を利用してNHKに登場し、私憤、私怨をまき散らしているように見える。

 もっとも彼らはNHKだけに頼っているわけではないようだ。むしろインターネット時代の副産物と言えるだろう。というのも、この党の代表たちは10年ほど前から、ユーチューブなどを通して、NHKの強引な契約取り、集金の現場映像を流して、同調者を増やしてきたという。だから、選挙区選挙でも、ほぼ全国の選挙区で候補者を立てることができた。以前ならこうした主張をする人たちはマスコミを通じて同志を募ることができなかった。選挙に出ても、単独の泡沫候補に過ぎなかった。しかし、インターネット時代においては、誰もがその主張を発信できるようになり、ネット上でNHKに対する不満分子を集めることができる。一定程度の同志がいて、面白い動画や極端な意見を展開すれば、同志も増やすことができる。ネット上では、かなりNHKに対する不満が広がっている。この3月まで大学で教鞭を取っていて、学生たちから「なぜ見ないのに支払いが必要なのか。契約の取り方にも問題がある」とNHKに対する不信感を聞かされてきた。学生たちの多くは、自身の体験というより、ネットで書き込まれた情報から得た知識に依存している。

 ただし、この党が今回の選挙で獲得した票数は比例区で98万票余り。確信的な同志がそれほどいるとは思えない。

N国党の正体は?

 選挙後、「『NHKから国民を守る党』はなぜ議席を得たのか?」という面白い評論をネット上で読んだ。ネット右翼系の元雑誌編集者という古谷経衡氏が、かつて編集者として今回当選した党代表との接触した体験をもとに分析したもので、なかなか説得力がある。この党を依然として泡沫扱いしているマスコミでは読めない評論だ。興味のある方は、ネット上で簡単に検索できるのでこの評論を読んで頂くとして、ここでは古谷氏の結論のみを紹介しよう。

 古谷氏によると、同党代表の立花氏は「徹頭徹尾NHKを呪詛するが、それ以外の、所謂『保守派』が定石とする、嫌韓や反中、さらに憲法改正や靖国神社公式参拝問題、および種々の歴史(修正主義的)問題にはほとんど言及しなかった。というよりも、そういったことには関心が無いようで あった。とにかく徹頭徹尾、立花氏の論点は『NHKがいかに悪の組織であるか』から出発して、『よってNHK受信料を払う必要はない(―そしてNHK受信料解約の方法教授)』という結論だけであった」という。また同党の候補者たちも、古谷氏の見立てでは、「彼らの正体というのは、『2010年~11年前後』という、ネット右翼の最盛期 に、『保守論壇』には相手にされないが、動画を通じて『ネットではちょっとした有名人』だった、狭い右派社会における『ネット右翼の古参兵たち』なのである」そうだ。

 したがって、ネット上で多少知られた人物であってもとても議席に届く勢力ではなかった。古谷氏は、投票者の半分は、「N国候補らの政見放送をみて、思想もなく、主義もなく、主張もなく、思慮もなく『あはっ、なんか面白ーい!』という、限りなく無色透明の、『政治的非常識層』である。彼らには右か左か、右翼か左翼かという 区別は当てはまらない。N国党の政見放送を見て、『ただただ爆笑して泡沫と笑う』人々は、少なくとも『政治的常識層』である。泡沫に入れても死に票になるだけで意味がない、という判断ができる時点で政治的常識人だ。そういった人々―つまり、投票所にいるはずの、常識を持った人々が急速に消え去り、あるいは彼らの常識という足腰が急激に萎えた結果こそが、N国1議席である」と結論付ける。

 古谷氏の分析が当たっているかどうか、別として、やはりN国党現象は、メディアの公共性や民主主義制度の意味が有権者の間で、十分理解されず、揺らぎを見せていることを示していると言えよう。

 公共放送であるNHKはもちろん政府も公共性、公平性が求められる。だが、民主主義社会であっても、政府は私党によって組織されている。党利党略によって多数を占めた政党によって組織される。だが、選挙で勝利したとはいえ、政府の運営は私利私欲であってはならず、公平性が求められ、その運営は常にチェックされている。その一方で、自民党政権は野党支持者から見て、お仲間政治、忖度政治だといえども、政府をぶっ壊すとか税金を拒否することはできない。批判はあっても否定であってはならない。

 メディアについても同様の事が言える。公共の電波を利用し、大きな影響力を持つテレビはたとえ民間放送であっても放送法によって公共性が求められている。公共放送であるNHKはなおさらだ。公共放送の存在は日本だけの現象ではなく、全世界的なものだ。英BBC放送のように民主主義社会であればあるほど公共放送の役割が重視されている。

 しかし、実際の報道や番組制作に主観が交わらないかといえば、やはり逃れることはできない。できないが、常に公共性が求められ、NHK自身もそれを追求する姿勢を取らなければならない。公共性を求められれば求められるほど委縮し、形式的な公共性、客観性を示すという欠点もある。泡沫であっても、公平に政見放送を流すことになる。

 新聞も一私営企業であるが、影響力の大きな新聞ほど公共性が求められる。7月も、ハンセン病の家族訴訟をめぐって地裁で敗訴した政府が控訴するとの方針を報じた朝日新聞がその後、誤報であったと大きな訂正記事を掲載した。他の新聞なら「見通し」を報じただけだと居直りしそうなものだが、公共性を重んじる朝日は訂正記事を出した。

 日々の新聞報道やテレビ放送が必ずしも公共性を発揮していないと指摘し、批判することは簡単だ。私のコラムもその延長上にある。ただ、それはメディアを「ぶっ壊す」という全否定ではなく、建設的な批判を心掛けなければならない。なぜなら、政府もメディアも、それぞれ構造的な欠陥を抱えているが、人間がその生活を営み、持続していくために必要な存在であるからだ。チェックアンドバランスによって、構造的な欠陥を是正することで、成り立っている。それは古谷氏のいう「政治的常識」だ。

 インターネット時代は、その常識をぶっ壊す無責任な言論が、ネット上で表明でき、これを面白がる人々の間に広めることができるようになった。インターネットは少数の人々も意見を表明できる極めて民主主義的な空間であるが、一方では「政治的な常識」を踏まえない、無責任な言論もまかり通ることになる。それは公共性さらには社会の否定にもつながりかねない深刻な問題だ。「N国党現象」の裏側に、そうしたネット社会の問題点が垣間見えた。


高井潔司 メディアウォッチャー

 1948年生まれ。東京外国語大学卒業。読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て、桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授を2019年3月定年退職。