月刊ライフビジョン | 論 壇

わが労働組合運動の出発点

奥井禮喜

いまの組合のカオスの根は1970年代

 わが労働組合が不調・不振にはまり込んだのは、1990年代のバブル崩壊以後である。その原因は80年代の浮ついたバブル時期にあり、その根は70年代に、しっかりした展望を切り開く思索が不十分であった、とわたしは思う。80年代に入ると、多くの組合で、組合員の組合無関心が問題視された。しかし、それに対する決め球を叩き出せなかった。
 「いまの連中は気合が入っていない」と呟くかつての組合活動家が少なくないが、かつての1人であるわたしは、70年代の自分たちの思索不足の結果が、いま現役の皆さんにツケを回してしまったと考えている。
 わたしが現役当時(80年代初頭まで)は、まだ運動の勢いがあったが、このままで推移すれば、21世紀に入ったときには運動が沈滞すると予想・分析していた。そのレポートを小説形式で発表したのは1979年であった。
 警鐘を鳴らすまでの気づきはよかった。続いて活動のリニューアル提案も一応やった(拙著『労働組合が倒産する』1981)。ただし、いまにして思えば問題の本丸である労働組合運動の存在理由への接近、なにを運動の理念(柱)として構築するべきかについて十分に深掘りできなかった。ツケの原因である。
 1970年代後半は、労働戦線統一が佳境に入っていた。ところで、大方の組合では役員ですらそれに対する関心が薄かった。まして組合員段階ではほとんど関心がなかった。組合役員選挙は定数立候補、先輩に口説かれて役員に出るのが主流となり、抱負を背負って自発的に立候補するのは昔語りになりつつあった。この現象に対する深刻な問題意識があまりにも希薄であった。
 労働戦線統一に奔走した先人たちの奮闘には低頭するが、要するに労働4団体(総評・同盟・中立・新産別)のいずれもが運動力を大きく低下させるなかでの合体推進であった。いかに労働戦線統一が明治以来の大悲願であったとしても、組織を統一しただけで圧倒的多数の労働者の期待が燃え上がる、というような条件にはなかった。
 ナショナルセンターの力は、産別の力の総和である。産別の力は単位組合の力の総和である。このような関係からして、労働界幹部が奔走した労働戦線統一が砂上の楼閣になる可能性は大きかった。単位組合を担っている役員が、労働戦線統一と現実の組合活動の流れを重ね合わせて考えられなかったという事実を、70年代の運動を現場で推進していた1人として反省するしかない。
 労働戦線統一という大看板に幻惑されて、なにを、なんのためにおこなうのかという、極めて原理原則的議論がなされなかった(というしかない)。結果論からすれば、統一のための統一に終わり、組織統一はできても運動の創造という本丸を熟慮しなかった。苦いが、これが事実なのである。

出発点のハングリー精神

 戦後の労働組合は、1945年10月10日のGHQマッカーサー司令官による「(民主化)5大改革」指示により、同12月22日の労働組合法公布によって再出発した。GHQが組合結成を高唱するので、本来、労使対等意識など持ち合わせない経営者でも、GHQににらまれるのが怖いから、従業員の組合結成を後押しした面がある。周知のごとく、GHQが組合結成を推奨したのは、わが国の民主化を推進する期待があったからだ。
 後押しした経営者が少なくなかったといっても、組合結成が鼻歌混じりにできたのではない。経営者が組合活動を歓迎してくれたわけでもない。経営側が、組合を懐柔するとか、活動を骨抜きにする動きは常に存在した。しかも、戦前からの悪しき気風がある。組合活動をやる人は「アカ」のレッテルを貼られた。それがごく普通であり、労使関係は常に強度の緊張が支配していた。
 労働組合法制定は、45年10月23日、労務法制審議委員会によって検討開始、11月24日には主管の厚生大臣に答申書を提出するスピード審議であった。審議の中心的人物、末弘厳太郎博士(1888~1951)がめざしたのは、労働者の自主・自立・自尊による社会的責任を追求する自由な労働組合である。その核心はデモクラシーである。「of the people・by the people・for the people」のデモクラットによる組合活動が構想された。
 いまの方々には、デモクラシーは常識であろうが、当時までわが国はデモクラシーではなかった。戦前、デモクラシーを高唱すれば、さまざまの社会的圧力を被った。デモクラシー自体が革命的な内容であった。わが国は革命によってデモクラシーを獲得したのではなく、まず、デモクラシーの制度が与えられた。つまりは、デモクラシーから戦後の社会改革が開始したのである。
 答申第1条には「本法は団結権の保障により労働者の経済的、社会的ならびに政治的地位の向上を助け、経済の興隆と文化の進展とに寄与を与うることを目的とする」と書かれている。
 いまの労働組合法では、労働組合は「労働者が主体となって自主的に労働条件の維持改善その他経済的地位の向上を図ることを主たる目的として組織する団体又はその連合体をいう」とある。労働条件と経済的地位という言葉に限定され、「政治」と「文化」が消えている。誰が消したのか?
 組合の活動範囲をできるだけ限定したいという権力支配層の官僚的思想が現れている。GHQの占領行政は、戦前から続く官僚体制による間接統治であった。戦前官僚が労働組合を大いに後押しすることはない。だから、戦前の大衆運動が徹底的に弾圧されたことを忘れるわけにはいかない。
 答申では、「組合は、本来自然発生的団体であり、組織・目的・事業に対する法律の規定(制限 *筆者注)は必要最小限にとどめる」べきだ。つまり、社会的存在として、やってはいけないこと以外は、組合員が、自由に、おおらかに、おおいに活動を展開してほしいという願いが込められていた。労働組合法よりも、その前の答申のほうが全方位的、かつ志が高い。昨今、組合の社会的責任という言葉が登場するが、すでにその「志」が打ち出されていた。
 わが労働組合は、世界的にも珍しい企業別組織として再出発した。そのお陰で組織する効率が上がったのは間違いないが、ともすれば従業員親睦会的な組合になる可能性が高い。「わが社の(従業員)組合」という意識が末弘博士の卓見を没にしてしまう危惧が当初から存在した。
 ともあれ45年末から組合結成の動きが始まる。46年には一気に組合が増えて、49年には組織率が55.8%を達成した。もちろん、労働者が組合に期待したのは「クビを守り、メシを確保」することにあった。なにしろ、日本のあちらこちらに焼野原があり、失業率は高く、空腹を抱えて買い出しに行かねばならない。それもなにか食料と交換するモノをもっていればの話である。「国も赤字・会社も赤字・家計も赤字」であった。大変な生活苦である。
 理屈はともかくとして、先人たちはハングリー精神であった。空き腹を抱えているのは事実であったが、空き腹が駆け回らせたのではない。「やっと戦争が終わった。生きていた。なにくそ絶対生きてやるぞ!」の精神である。デモクラシーになってもメシが食えるわけではない。先人たちは、メシを食うためにやがて(結果的に)デモクラシー街道を突き進んだ。それが、後に戦後の奇跡の復興を作り上げたと外国からも讃えられた。
 ぽつぽつ会社の生産も軌道に乗るようになり、もちろんまだまだ極貧ではあったがなんとか恰好がつくようになった。55年に、それまで各組合がバラバラでやっていた賃金闘争を全国一斉春に展開するアイデアが出された。春闘の開始であった。組合の春闘という事業は大ヒットした。「クビとメシ→賃金確保→春闘=組合」の文脈が構築される。単純な話、飢餓賃金であればあるほど「春闘=組合」モデルは盛大に育ったといえる。
 春闘方式が有効に機能したことは、必然的に労使対等意識を労使間に育てた。戦前は、お給与であり、労働者が請求するものではなく、経営者が労働者を愛い奴と思えば引き上げてくださる。労働者が厚かましくも「これだけ欲しい」などというものではない。かたじけなく思し召しを頂戴したければ、粉骨砕身働くべし、というのが給与を上げていただく手がかりであった。だから、労働者が賃金を要求して、労使議論の結果賃金を決定するのは、経営権の一部に労働者が食い込んだのであり、その局面からの労使対等が前進した。
 これは単に賃上げだけの効能だけではなく、いや、賃金交渉を通じて労使対等を確立していったこと自体が、デモクラシーの前進を意味していたともいえる。組合内部でも、職場集会など大衆的な取り組みがデモクラシーを具体的に推進したことは大きな意義があった。戦前は、上意下達の封建的な考え方が主流である。モノ言えば唇寒し、の気風である。だから職場集会で組合員が自由に話し合うこと自体が大きな意義をもっていた。
 しかし、底流では相変わらず「会社といえば親も同然、従業員といえば子も同然」という気風が根強く残っていた。60年代から70年代は、主として賃金を巡るストライキが多かったが、「ストライキで会社に刃向うなんてとんでもない」というような意識もまたしぶとく残っていた。
 60年の三池(炭坑)争議は、総資本対総労働の対決といわれた。労使対等意識が希薄な会社側が強引に労働者の首切りをやったのに対して、三池労働者が家族も含めて全面的に対決したのである。組合の合理化に対する闘い方が幼稚であったという批判はあった。しかし、もし、会社側に労使対等意識があれば、流血の惨事まで発生することはなかっただろう。
 わたしは、70年代半ばに当時の三池労組組合長・宮川睦男氏の話を直接うかがう機会を作った。宮川氏が訥々と「わたしたちは、要するにクビを守りたかっただけだ」と語られたのを聞いた青年労働者たちは共感と同情の涙を滲ませていた。わたしは、三池争議はデモクラシーにおける、徒手空拳の労働者たちの人権闘争であった、と声を大にして後世に伝えたい。

参加論が意味したもの

 1970年代半ばの労働組合では「参加の民主主義」という言葉が飛び交った。73年に石油ショックがあり、74春闘では30%を超える賃上げをして意気上がったものの、実質賃金はせいぜい2%程度増えただけである。物価はさらに上昇し、75春闘も前年に近い賃上げをという甘い雰囲気だったが、経営側の統一闘争が奏功して、13.1%の低い妥結となった。当てが外れた衝撃もあったのは間違いないが、すでに春闘方式に疑問をもつ組合員が少なくなかった。
 要求時点は「断固闘う」、山場が来ると「断断固闘う」、山場ストを構えて徹宵交渉し、「暁の脱走」へ、「四囲の情勢で止む無く集約」というパターンが例年繰り返される。組合員は執行部に対して、「こんなのスケジュール闘争じゃないか!」と憤まんをぶつけてくる。活動家からは、「単なる争議の戦略・戦術や労働団体統一の高邁な問題は、なにか違うのではないか。組合は本当に組合員大衆のニーズに応え、共感を得る努力をしているのか。観念論だけが先走りしているのではないのか」という主張が出る。
 そして「参加の民主主義を前進させねならない。春闘はその実験だ。組合は1人ひとりの要求があって発生した大衆運動である。とすれば執行部が笛や太鼓で組合員の(春闘への)参加をアピールする図式にはなにか大事なものが1本抜けている」というのである。残念ながら、こうした主張自体にも中味の掘り下げが十分ではなかった。
 もう1つ、ちょっと大きい視点だが、「参加」について、これからも銘記しておきたいことがある。当時あまり注目されなかったが、75年4月、米国でチュース・マンハッタン銀行のD・ロックフェラーが呼びかけ人となり、著名な政治家・多国籍企業経営者・労働組合幹部を招いて「日米欧委員会」が開催された。会議は『民主主義の統治能力』という報告書にまとめられた。
 いわく、国家権威の低下と多大な参加者による過重負担が民主主義の危機である、というのだ。民主主義の過重(参加の拡大)は統治能力の不足を意味するというのである。多数の国民の参加が多数の要求を招くために、(国家の統治にとって)よろしくないとするのがミソだ。しかし、民主主義とは国民1人ひとりのものであり、その負託をうけるから国家の権威が発生するのであって、多様な参加を否定するのであれば、民主主義の精神に真っ向反する。
 日本の組合が「参加」の民主主義を追求しなければならないと考えるようになったとき、日米欧の民間人エリートの会議は、参加に対して「異議申し立て」をしたのであった。これは、新しいイデオロギー闘争である。しかも要注意は、わが国の身近なところで、これによく似た「民主主義の過剰」論がしばしば登場する。いまでも同じである。
 さらに、いわゆる「小さな政府」*(small government)論の思想はこの流れにあった。その先頭を第2次臨時行政調査会*が走っていくのであるが、人々は単純に「安上がりの政府」(cheap government)論に関心が集まっていった。ここに錯覚があった。政府が小さく安上がりなのは上等だが、政治はみんなの参加でビッグでなくてはならない。しかし、小さな政府を前提として、しかもその権力行使がすいすい運ぶためには、多数の政治的参加は邪魔である。
 話の順序が逆である。多数の政治的参加を前提として、受け皿としての政府があるのである。ところが政府を前提にするのだから、国民は、政府=権力に合わせて考え、行動せよという理屈になる。デモクラシーの精神からすれば明らかに逆転しているのだけれど、このような論議が当時は全然なかったのだ。

デモクラシーの切り口で

 (失礼ながら)組合は総身に知恵が回りかね的事情にある、とわたしは思う。労働組合運動がカオス、混沌状態である。放置すればカオスはカタストロフィーを招くが、逆に進歩・発展の大チャンスともなりうる。
 そこで、基本的視点を押さえよう。
 第1——組合は運動である。大衆を運動に向けて組織しなければならない。連合はじめすべての組合は運動をめざそう。運動をめざさない組織は無意味である。
 第2——どこへ行ったらよいのか迷うときは、出発点へ戻ろう。たとえば連合結成の1989年。さらには1960年前後。時間が許せば敗戦直後の事情をも再度点検してみてほしい。どこで迷ったかをまず探そう。
 わたしは、この作業過程で、組合を視る価値尺度としての「デモクラシー」が極めて有効だと思う。わが労働組合は戦後デモクラシーによって誕生した。デモクラシーこそは組合の母なる思想的大地である。
 クビとメシの2大不安から出発して、衣食足りて! デモクラシーを忘れてしまった。衣食足りたとしても、デモクラシーの大地が豊かであるか? 労働組合こそがデモクラシーのために敢然と歩まねばならない。
 「組合員=デモクラット」という公式が構築される活動を、末弘厳太郎博士の熱い提言を思い浮かべるである。 

「小さな政府」*(small government)
 第2次臨時行政調査会 会長・土光敏夫(1896~1988)。82年11月、首相になった中曽根康弘(1918生)は、「戦後政治の総決算」をぶち上げた。日本列島「不沈空母」論を口にする。第2臨調のキャッチコピーが「小さな政府」であり、民間資本を公共事業・公共サービスに導入し、もって活力ある福祉社会建設をするというのであるが、大きくみれば資本主義の「自由放任」方向へ舵を切った。規制緩和論が花盛りになる。独占禁止・公害防止・環境保全・都市計画・労働基本権・農業保護・消費者保護などなどが対象である。しかも、臨調は首相直結であり、議会審議を軽視して、議会に対する行政優位の路線をいくのである。極端にいえば一種のクーデターといえなくもなかった。
 かくして、「参加」が意味するものは、わが「内なるデモクラシー」を問えというにある。誰もがデモクラットたらねばならない。デモクラシーを発展させる側に誇り高きポツダム組合は立たねばならない。


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「世界で珍しい企業別組合の生い立ちを語る  石山浩一」
 こちらの原稿は『あかでめいあ』でお読みいただけます。


 【 併せてお読みください 】
 ① 戦後労働運動の出発 1
 ② 戦後労働運動の出発 2
 ③ 戦後労働運動の出発 3
 奥井禮喜・筆


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 
経営労働評論家、日本労働ペンクラブ会員
OnLineJournalライフビジョン発行人