月刊ライフビジョン | メディア批評

設問が読めない大人たち

高井潔司

 6月上旬、大雨の中、私が関係する団体が主催する講演会に出席した。こんな雨の中、出席者が少ないに違いないと踏んで出かけたのだが、300席を越える座席が用意されていたホールは立ち見が出て、隣の部屋にはモニター席まで設けられた。講師は数学者の新井紀子さんで、自宅に戻ってから妻に講演会は超満員だったと話したら、「そりゃそうでしょう。新聞などでも大きく取り上げられている超有名人よ」という。

 本欄はメディア批評などと銘打っているが、私が読むのは主に政治や外交、社会面それに運動面くらいに限られているので、どうしても偏りがち。新井先生はロボットを使って東大入試に挑戦させ、その研究成果を踏まえたAIの現状や未来をわかりやすく明快に語るので評判なのだそうだ。出席者がせいぜい50人の私などの講演会とは大違い。東大挑戦のロボット君やAIに関する解説はベストセラーの著作に譲るとして、講演で、私が興味を持ったのは、彼女のもう一つの研究成果、「教科書が読めない子どもたち」である。

 ロボット開発のために行った生徒たちの読解力調査でその現状が明らかになったそうだ。教科書はおろか、問題文も読めない子どもが増えているという。早期の英語教育やプログラミング教育などよりまず教科書を読める読解力の向上こそ必要であり、それがAIでも当分追いつけない人間力の源でもあるというお話に納得した。読解力をそぐ詰込み、記憶中心の教育は、AIに使われ、職さえ失う人間を育てているという。

 この一か月間、年金2千万不足問題で揺れた日本の政治にも、あるいはメディアの報道にも、この読解力の低下が猛威を振るっていると私はつくづく感心した。そう感じた発端は、5月10日、参議院決算委員会での金融庁審議会の報告書をめぐる立憲民主党の蓮舫議員の質問とそれに対する麻生財務相の質疑応答。NHKのテレビニュースを見て、蓮舫議員が「国民が怒っているのは、(公的年金が)『百年安心』がウソだったこと。自分で2千万円ためろということか」(朝日11日付)と真顔で質問していたのには耳を疑った。この人、本当に100歳まで年金だけでやっていけると思っていたの。年金制度は100年は安心と、100歳まで年金だけでやっていけるとを混同している、問題文が読めていないと感じた。

 きっと麻生財政相はそう言って切り返すと思ったら、「年金では赤字というのは表現が不適切だった」と陳謝し、その後も「あたかも公的年金だけでは足りないかのような誤解、不安を与えた、年金は老後の生活の柱という政府のスタンスと違うので報告書は受け取らない」との答弁を繰り返した。自ら諮問しておきながら、報告書は受け取らないと述べて、事態を収拾しようとしたのにも驚いた。2000万円の赤字は現実の不安であり、報告書を受け取らなければ不安が解消するわけではない。受け取らないことが不適切だろう。

 もともと政府の審議会とは名ばかりで、資料もおおよその結論も諮問する政府側が提供し、審議会の答申という権威を隠れ蓑にして、政府の意向を反映するのが審議会政治だ。

 それが証拠に、この報告書については6月3日に金融庁が「資産寿命」指針として公表している。報告書は受け取らないどころか、すでに政府の指針として採用されていたのだ。4日付の朝日には「今の60歳の4人に1人は95歳まで生きる見込み。年金や退職金だけだと寿命より先に蓄えが尽きる恐れがある」とある。朝日も何ら批判的なコメントもない。それどころか、「金融庁は報告書を踏まえ、今は選択肢が少ない長期、分散、積み立て投資向けの金融商品の開発を金融機関に促す」とまで書いている。毎日新聞も「金融庁『人生100年』の資産形成報告。現役時代の投資推奨」と問題意識の感じられない発表記事を掲載している。

 テレビ報道では、こうしたのんきな報道ぶりに麻生大臣も安心してか、例のしたり顔で、翌日の閣議の記者会見で「君ら人生設計を考える時に100歳まで生きる前提で退職金を計算してみたことある? 俺はないとおもうね」と発言する光景が放送されていた。報告書はそこまで考えてくれているんだと、まるで自分の仕事の成果でもあるかのように、偉そうなことを言っていたのだ。麻生大臣も取材記者も問題意識ゼロ。

 新聞報道をひっくり返してみると、事態が急変したのは、6日になって、野党が年金は100年安心のはず、老後2000万円必要はおかしいと非難を開始してからのこと。そこから冒頭紹介した蓮舫議員の質問につながる。私は野党の報告書の全くの読み違いだと思うが、野党が問題追及を始めると、政府、自民党内には、どうやら年金問題で政権を失った過去の悪夢が甦ってきたようで、反論をせず、報告書を受け取らないことで決着を図った。この決着の問題点は、老後必要となる2000万円をどう補うのか、国民が今後直面する不安をどう解消するかの議論を完全に積み残してしまったことだ。報告書が提起した問題の意味が読めない生徒たちのようである。

 もっとも、読解力不足なんていうのは私の読み違いで、野党も政府もそこまで学力低下していないのかもしれない。読み違いではなく、意図的に曲解し、政治問題化したというのが野党のレベル。政府も、自民党も過去の悪夢の再現を恐れたのではなく、100年安心の年金制度のウソが明るみに出たり、貯蓄より投資を促す報告書の本当の狙いを突かれると、それこそ悪夢が正夢になることを恐れたのかもしれない。

 一連の流れは、審議会政治の欠陥を示したとも言える。新聞社の多くは、審議会の委員を送り出し、政府、与党の陰のサポーター役に成り下がっている。今回の報道で、問題意識の薄い、煮え切らない記事が目立ったのはそのせいだ。

 過去の新聞をひっくり返してみて驚いたのは、審議会に委員を出さないことで報道の倫理姿勢を示していたはずの朝日新聞が、この「遺産寿命」報告書について、すでに5月23日付の一面トップニュースで、「人生100年蓄えは万全?」という見出しでスクープ報道していたことだ。2つ目の見出しが「『資産寿命』国が世代別に指針」とあり、金融庁のリークによる報道だろう。懇切丁寧な図もついているし、3面にも解説と関連記事が掲載されている。

 朝日は2度も報告書を政府の指針として報道しておきながら、金融庁の発表から報告書の受領拒否まで、他社と同様、経過を淡々と報じているだけ。報告書を受け取るも受け取らないもない、政府の指針になっているわけだから、このウソを徹底的に追及しなければおかしい。この馬鹿げた政治劇と積み残された国民の不安を伝える検証報道を怠っている。審議会に自社の関係者を送り込んでいないが、他社に先駆けて報告書のリークを受け、金融庁にうまく誘導されていたと指摘されても反論の余地がなかろう。

 驚きの報道はさらに続く。26日夜のNHKクローズアップ現代のタイトルはずばり、「どうする老後2千万」。貯蓄を投資に回す人や後継者難の中小企業を買収する個人を特集していた。老後2000万円の赤字という報告書を前提に取材したものだが、政府がその報告書を拒絶したというのに、どういう意図でこんな番組ができているのか、さっぱり意味不明だ。こんな番組を放送するならまず、老後2000万円は現実であり、それを受け入れず、対応策も示さない政府の姿勢に対する批判があってしかるべきだろう。

 政府的には何も問題はありません、すべて自助努力でという報道姿勢は、まるで奴隷根性であり、民主主義国家とはとても言えまい。


高井潔司  メディアウォッチャー

 1948年生まれ。東京外国語大学卒業。読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て、桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授を2019年3月定年退職。