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働き方改革の源流を探る 報告2-2

 ライフビジョン学会は2019年2月23日(土)午後、国立東京オリンピック記念青少年センターにおいて働き方をめぐる公開研究会を行いました。

―――――― プログラム ――――――

      講演1「同一労働同一賃金の課題について」 社会保険労務士 石山浩一

             (報告1/月刊ライフビジョン2019年4月1日HeadLine

      講演2「賃金労働の源流について 報告2-1」 有)ライフビジョン 奥井禮喜

             (報告1/月刊ライフビジョン2019年5月1日HeadLine

                    「賃金労働の源流について 報告2-2」 有)ライフビジョン 奥井禮喜

             (報告2/月刊ライフビジョン2-019年6月1日HeadLine)


(6)疎外される労働――続き

 K・マルクス(1818~1883)が『経済学・哲学草稿』(1844)を書いたのは26歳であった。前年からバリに居住して、従来の国民経済学、国民経済の在り方を根本的に批判し、ヘーゲル弁証法を批判研究していた。(ただし、『草稿』が公開されたのは1932年である)

 フランス革命(1789)は、ブルジョワと労働者が結束して、教会と貴族との闘いに勝利し、神の呪縛(封建社会)から逃れたのであるが、その後のブルジョワの著しい発展に反比例して、労働者の著しい困窮が大問題になっていた。若きK・マルクスは、次のように考察した。

 a 市民社会は、私有財産と利己主義に基づく社会関係である。

 b 市民社会は、人間の関係がモノの関係によって規定されるようになった。

 c 市民社会は、人間的解放を実現しない。なぜなら、市民的自由は人間的自由とは異なる。だから、市民社会からの解放が必要である。      

 K・マルクスの人間観は、「人間は自然存在であり、自分自身を対象ともする(意識的・反省的)存在であり、人間がお互いに類としてわかり合い、連帯もなしうる存在である」というのである。いまの人々は、こんな理屈は当たり前だと考えるであろうが、当時の労働者状態においては、極めて高度な視点である。そして、労働者はこれを受け入れたのである。

 この思索をさらに深めたのが疎外論である。G・ヘーゲルの弁証法を批判的に駆使して、新たな疎外論を生み出した。前述フォイエルバッハが『キリスト教の本質』で「人間が作った神に、人間が従属させられる(=疎外)」と転回したことからも大きな示唆を与えられたに違いない。ポイントを列挙する。

 ① 労働生産物からの疎外――労働が生産する生産物は、資本家の所有であって、生産者から独立した力として労働に対立する。生産したものが作ったものの所有にならない。K・マルクスは、これを「働いた人間の自己確認ができない」と表現した。労働者が一所懸命に労働して生産する。利潤が資本家のもとに蓄積されて、資本家の経済力はますます増大するが、労働者の経済力は増大しない。労資双方の対等関係どころか、双方の力関係は反比例する。

 ② 労働からの疎外――労働自体が資本家に依存せざるをえない。つまり、労働者の活動が彼自身の活動ではなく、すでに彼自身を喪失している。現代でも働きがいを求める声が強いが、生産する行為自体が、たとえば画家が絵筆を握っているようなものとは異なる。作る喜びが感得できないというわけだ。

 K・マルクスは労働の本来の意味を、「私の生産活動において、私の個性とその独自性を対象化し、活動の間に個人的生命発現を楽しみ、対象物を観照することによって、自分の喜びを味わう」という表現をしている。これは、わたしが労働の3段階として、labor・work・actionを主張しているところの、actionと同じ意義である。actionをめざすのが「労働の人間化」(QWL)である。1980年代には「労働の人間化」が主張されたが、現実は、その方向に歩んでいない。

 ③ 類的存在からの疎外――本来、類的生活のための生産であるのに、個人的生活の手段とされている。人間は個人であるが、普遍(人類)を意識し、他者のうちに自分を見る存在である。労働は、間違いなく社会に貢献する行為である。もし、それが人々の意識の中に定着していれば、仕事に対する誇りが高揚するはずだ。しかし、現代でもそのようにならず、所詮、生活の糧を稼ぐだけだという気風が支配しているのではないか。職場や仕事が面白くないのは、働く人相互の連帯や信頼が分断されているからだ。働く人が社会性を失っているという意味である。

 ④ 人間からの人間疎外――働く人々は、企業競争の名において激しい競争をさせられる。労働世界において労働者の立場は、あたかもゼロサム的関係である。現代でも、羨望や嫉妬が組織風土になっている。「他人の不幸がわたしの幸せ」という人間関係を、すでにK・マルクスが指摘していた。

 K・マルクスとF・エンゲルスの『共産党宣言』(1848)も有名である。フランスの2月革命直前に発表されたものであるが、階級闘争におけるプロレタリアの役割を明確化した。その哲学的に大切なところは次の通りである。「資本主義(私的所有)は、歴史的に形成されてきたものであるから、それが必要悪だということになれば、歴史的には変わりうる(変えうる)ものである」

 人間も、人間が作っている社会も歴史的存在である。それは、永久不滅の制度ではないという歴史観である。進歩というものは現状を変えるのだから、進歩するためには、いままでを否定する。G・ヘーゲルは、「人類の進歩は自己否定による」と指摘した。現状に対する懐疑、不都合があればそれを否定して、止揚する。低い段階を否定して高い段階へ進む。これが大切な視点である。

 ここで要注意は、働く人が日々の習慣に疑いをもたなければ、ひたすら現状を肯定するのみで、結果的に不都合に服従してしまう。組合の見識が問われる理由である。実事求是である。事実に基づいてさらなる是(真実・真理)を追求する。矛盾を止揚するという考え方である。

(7)労働力商品の発見

 賃労働について弁証法が展開される。資本と労働の関係は、利潤と賃金の関係である。両者は分かちがたく結びついている。その関係は、利潤増は賃金減、賃金増は利潤減である。両者は肯定と否定の関係である。しかも両者は、対立すると同時に相互不可分である。そこで、意見A(定立)と反対意見B(反定立)の対立と矛盾を通じて、より高い段階の認識(総合)に至る可能性が歴史的に確保されているというわけである。

 K・マルクス『賃労働と資本』(1849)は、1947年、彼がブリュッセルドイツ人労働者協会で講義したものである。その核心の1つが「賃金は労働の価値ではない」という指摘である。それは次のように説明される。

  一定期間における賃金を100とする(単位は円でもよい)

  生産手段(摩損分含む)・材料を200とする

  利潤を100とする

 (生産手段・材料)200+(賃金)100+(利潤)100=(総価値)400

    ↓          ↓        ↓       ↓

   不変資本       可変資本    剰余価値     総価値

 上の公式で、賃金が労働の価値であるとすれば、労働が価値を生み出したのだから、労働=賃金+利潤=200でなければならない。しかし、賃金は100である。とすれば賃金は労働の価値ではない。そこで賃金は、労働ではなく、労働力の価値であるとした。賃金100=200-100→100となっているので、これを搾取と呼んだのである。

(8)賃金論

 次に賃金論に入ろう。

 ① まず、雇用と賃金の関係については次の3点を指摘できる。

 a 雇用関係は賃金を媒体とする――雇用関係は、雇用する側と被雇用者との契約関係である。契約の根本が賃金である。賃金交渉といえば、賃上げ交渉と反応するのが普通であるが、賃金の上げ下げに関わらず、雇用契約は当事者間で常に明確にして、お互いに確認し順守するものである。

 b 賃金は労働力という商品である――前述のように労働によって生み出された価値がそのまま賃金になるのではない。また、雇用する側は、被雇用者が提供する労働力をあらかじめ購入しなければ生産できないのだから、労働力は他の材料などと同じように雇用者側にとっては商品である。

 c 雇用関係における対等性がなければ賃金は安くなる――労働力商品の売買取引は対等な関係でなくてはならない。ここで決定的に問題がある。なぜなら、雇用する側は雇用しない自由があるが、被雇用者の雇われない自由というものはほとんどの場合失業への最短距離だからである。たまたま人手不足で相対的に被雇用者側が有利に立つことはあるが、それでも、雇用する側の自由とは比較になり得ない。だから労働者は組合を作って、労使対等を目指すのであるが、現実は、被雇用者側の防衛的色彩が強いと言わざるをえない。

 ② 次に、賃金を巡り労使は対立する関係である。

 a 賃金は労働者にとっては所得である――労働者は徒手空拳の存在であり、働いて収入を得るしか他に道がない。生活するための所得を獲得できなければ生活は成り立たない。極めて切実な問題である。

 b 賃金は企業にとってはコストである――雇用する側の企業は、利潤を上げるために労働力を購入する。生産に投入するコストは少ないほどよろしい。逆に、人件費が膨れ上がれば企業活動に不具合を生ずる。企業にとってコストは切実な問題である。

 c 賃金は労使それぞれにとって死活的課題である――たとえば、企業が格安賃金で雇用したとしても、見えざるサボタージュが蔓延する事態になったら、企業活動が低迷する。企業文化は人々が意識するかしないかに関わらず確実に浸透する。安い賃金が低質の労働力を購入したことにもなる。モラル・モラールというものは、企業トップが檄を飛ばした程度では向上しない。

 ③ 労働力の再生産費説について考えよう。

 a 賃金は労働力の対価である。これはすでに理解した。

 b 次に、賃金は労働力の再生産費である。これを公式化すると、労働力の再生産費=本人の生活費+家族の生活費+教育費、である。

 労働力の再生産費とは要するに、労働者の生活がきちんと維持できる費用である。工場ロボットは仕事の機能のみであるが、人間である労働者は仕事の機能だけに生きているのではない。理論的には1日8時間の労働によって、24時間の生存が円滑にできることであるが、それだけでは困る。睡眠時間の8時間と、それ以外の8時間を中身のあるものにしたい。人間は日々に勉強して成長するから勉強の費用も必要である。家族を養わねばならない。労働者全体でいえば、労働者が順調に「繁殖(増加)」することを支えるのが最低賃金である。

 全国一律最低賃金というものは、わが国の労働者が順調に増えていけるための最低限度の賃金水準である。目下、少子化が進んでいるが、大きく見れば、将来の労働者が育てられないという、国家的問題に直面しているわけだ。

 ④ 一方、生産力説という賃金の考え方がある。

 これは、労働の生産性の大小によって賃金価格の大小が決定されるとする賃金論である。労働は商品ではなく他の生産用具と同じように考える。つまり労働の「使用価値」の大小によって賃金が決まるというのである。これを公式化すると、生産物-地代・利子・利潤=賃金、である。

 この考え方では、儲かれば賃金は多くなり、儲からなければ賃金は少なくなる。単純明快である。(もちろん、ここでも利潤を多くとれば賃金は減少する)。この考え方は、賃金は生産した結果であるから、極端にいえば儲からなければ賃金はゼロにもなる理屈である。

 たとえば、A社には1時間に饅頭を100個作る職人、B社には50個作る職人がいる。品質は同じである。いずれの会社も1時間に50個だけ販売する。その場合、いずれの職人も手にする賃金は同じである。つまり100個作る職人の技術は半分しか評価されない。生産力説は、「労働の結果」によって支払われるように見えるが、実は「経営の結果」によるのであって、労働自体の評価にはならない。

 上記のように、大きな問題としては、すべては経営の結果による。労働力の再生産という面がまったく考慮されていない。生産力説の延長である成果主義論の最大の欠陥がここにある。

 ⑤ だから賃金交渉をしなければならない。

 労働力の再生産費説は労働者としては当然の考え方である。一方、経営側からすれば、生産力説のほうが、具合がよろしい。どちらの理論も、それぞれの言い分がある。かくして、好むと好まざるにかかわらず、労使は賃金交渉をして折り合いをつけなければならない。

 働く人々は会社別に雇用されているが、市民として自由な存在である。しかし、雇用する側と被雇用者は、現実的に対等関係ではない。市民としての自由を唱えるだけでは中身が伴わない。だから、労働者は組合を作り、労使対等で賃金を決定するようになった。今後もきちんとした論議をして、納得できる結論を得る姿勢を労使双方に期待したい。ベアが高いか低いかだけの問題ではないことを忘れないでほしい。

 ⑥ 労働者内部にさまざまな利害関係があることも、常に念頭に置かねばならない。たとえば、「世代間」、「頭脳労働と肉体労働」、「各種の格差問題」、「考課査定」、「同一労働同一賃金」などなどである。

 A・スミスは、だれもが好む仕事にはたくさんの人が手を挙げる。逆に、3K(汚い・きつい・危険)な仕事は好まれない。だから、需要と供給の関係によって、賃金が収まるところへ収まるとしたが、実際の働く現場において、3K職種が高い賃金をもらってはいない。はたまた、頭脳労働は「難しい」仕事、肉体労働は「しんどい」仕事である。「難しい」と「しんどい」の関係はどのように規定できるだろうか。労使の賃金論議において、このような根本的な問題が論じられてきたであろうか。

(9)賃金交渉

 商品の売買(需要と供給)取引の関係には3面性がある。労働力も商品であるから、需給関係を見過ごすことはできない。需給(売り手と買い手)関係を考えると、3面性とは次の通りである。

 a 売り手同士の間――売り手同士の競争が強ければ、商品価格は下がる。

 b 買い手同士の間――買い手同士の競争が強ければ、商品価格が上がる。

 c 売り手と買い手の間――売り手と買い手の間では取引がおこなわれる。

 労働力の売り手としての組合は、aにおいて、仲間内競争を拡大するのはよろしくない。だから、1970年代あたりまでは、組合は考課査定をできるだけ抑える戦略をとっていた。

 昨今、正規社員・非正規社員間の格差問題に注目が集まっている。個別企業内部において、正規社員が非正規社員の賃金を低くして、のうのうとしているという批判がある。それは全面的に間違いとはいえないが、これを労働者全体で眺めてみると、賃金の低い非正規社員が増大したことによって、労働者全体の賃金が低下していることがわかる。

 かつて、正規入社と途中入社(臨時工も含む)の格差が大きかったが、1970年代にかけて、いずれの組合でも両者の格差縮小に向けた取り組みをおこなった。賃上げに合わせて、格差縮小を推進した。格差縮小の総論段階では反対はないが、いよいよ、具体的に数字が出てくると、正規入社者が文句を言うこともあった。だから、職場での話し合いを重ねたのである。

 A・スミスは『道徳経済論』(1759)に、人間とは何であるかを考えて、次のような結論を引き出した。「人間は利己的であるが、孤立的ではない。そこで人間は他人の運命に関心をもっている。その関心が同感(fellow feeling)と同情(sympathy)である。それが道徳の実体である」

 人間社会が円滑に動くためには、誰もが理解するように、「調和」が大切である。調和とは、「まあまあ・なあなあ」的に、その場が丸く収まればよいのではない。お互いが考えるところを語り合う、それができれば道はおのずから開く。昔の賃金闘争時には、職場討論が賑やかだった。

 最後に、賃金交渉の当事者の心構えを指摘したい。賃金と利潤は対抗関係にある。これは否定しがたい事実である。だから、交渉当事者は、それぞれの立場から精神誠意の熱弁を揮ってもらいたい。交渉当事者に対する評価は、単に金額だけの問題ではない。心を開いた論議は、立場を越えて共感を呼ぶ。精神講話的ではあるが、労使協議の真の意義は、双方が、「真意・誠意・熱意」をいかに発揮しうるかに関わる。妥協するについては、「公平性・公開性・納得性」が担保されるかどうか。優れた妥協、折り合いというものは勝ち負けがないものである。わたしは、組合本部で8年間交渉に加わったが、1度だけ、心から相手側をねぎらった。1度だけというのは、その他が手抜きしたというのではない。その時、はじめて、交渉は芸術だと感じたのである。                        (2019/05/01記)