月刊ライフビジョン | メディア批評

癒着の場に成り下がったのか!記者クラブ

高井潔司

 3月下旬に北京大学で、「日中メディア比較論」を講義するため、その準備をしている。講義の目玉は「記者クラブ」論である。

 10年ほど前、中国・杭州で開かれた中国のメディア学会の大会に参加した時、深圳大学から出席した先生から、「日本の新聞の記事の半分は記者クラブでの発表記事であり、残りは広告だけ」という「記者クラブ批判」を聞かされて、これは正しい記者クラブ像を紹介しないと誤解を生むと、中国のメディア雑誌に投稿したこともある。日本国内でも、フリージャーナリストや外国人特派員らが、記者クラブ批判を展開している。私は数少ない記者クラブ肯定派と言えるかもしれない。

 私が肯定するのは、メディアが権力を監視するためには権力の動向をチェックするための記者クラブのような存在が必要と考えるからだ。そのために権力との癒着の危険性もあるが、権力監視には密着が必要だ。癒着と密着は紙一重だ。記者の側が常に意識し、癒着を避けることで記者クラブの弊害は解消していくことができる。癒着の恐れがあるからといって、密着しないのでは、逆に権力の思うツボだ。何より膨大な情報を独占する政府や大組織から情報を開示させるために、記者クラブは重要な役割を果たしている。記者クラブを批判するフリージャーナリストや外国人特派員も、クラブの閉鎖ではなく開放を求めている。

 私のメディア論の拠り所となっているW.リップマンの『世論』(1922年、邦訳岩波文庫)は、記者クラブは「ニュースの本質」と関わっているとして以下のように述べている。

 ――「世界中のすべての記者が四六時中働き続けても、世界中のあらゆる出来事を目で見るわけにはいかない。記者の数はそれほど多くない」

 ――「新聞はあらゆる人間に目を光らせようとするものではない。新聞は、警察署、検死所、郡役場、市役所、ホワイトハウス、上院、下院など、特定の場所に見張人を配置する。見張人は、見張っているというよりむしろ、『誰かの生活が……通常の道からそれたり、伝える価値のある出来事が起こったりしたときに、そのことが通報されてくるような比較的少数の場所を』見張る職員を抱える、さまざまな組織に属しているという場合が大部分である」

 記者クラブは、情報の集まる場所に「打ち込まれた楔(くさび)」である。と、肯定論を説く私の信念がこのところ揺らぐ出来事が続いている。

 一つは、菅官房長官の記者会見での東京新聞記者の質問をめぐって、首相官邸が「内閣記者クラブ」に対して、質問に誤認があると「問題意識の共有」を再三求め申し入れを行っている問題だ。申し入れの内容自体、言語不明瞭、抽象的で何を言いたいのか、わからないが、要するに記者クラブに対し、当該記者の質問の制限や処分を求めているのだろう。

 これに対し、記者クラブの反応がまるで聞こえてこない。辛うじて、当事者の東京新聞が社としての見解を記事として報道し、それを朝日新聞が報道している程度である。毎日は新聞労連の抗議、読売は国会での関連質問をベタ記事で報じ、全く当事者意識が感じられない。

 東京新聞の当該記者は鋭い質問で官房長官もたじろぐ場面があり、インターネット動画でその模様がアップロードされている。もっとも多くの場合、偏った生意気な女性記者として揶揄される内容になっている。そんな揶揄コメント付きの動画でも、会見の模様を中継しているので、映像からは官邸側のいら立ちがよく見えてくる。私は、何もコメントせず、その動画を教室で見せたことがあるが、学生たちからは「官房長官の方がまじめに答えていない。それに司会者が『質問は簡潔にしてください』と繰り返しているのは、質問への妨害ではないか。なぜ他の記者の人は抗議しないのか」という反応の声が出る。

 沖縄の辺野古埋め立て問題での東京新聞記者の質問などは、政府の方こそごまかしの回答をしており、質問を誤認というのはおこがましい限りだ。そもそも、「誤認」があれば、情報を独占する政府の側が記者会見の場で「正しい情報」を提供すれば済む問題であり、記者会見とはそもそも記者が取材で得た未確認の情報を確認する場である。記者の側に「誤認」があるのはむしろ当然で、記者会見はそれを是正する場でもある。

 首相官邸の申し入れは、鋭い質問をけん制する意図が見え見えであり、それに抗議もできない記者クラブは、残念ながら権力監視の役割を果たせず、癒着の方向に流されているとしか言いようがない。政府の標的になっているのは目下、東京新聞だけだが、これはメディア全体へのけん制だという意識が記者クラブ員、あるいは記者クラブ加盟社に欠けているのではないか。

 もう一つの問題は、私もかつて所属した発行部数世界最大の読売新聞が、新年から「判で押したような『政府は…方針を固めた』という記事を連発している」点だ。これは私の尊敬する読売OBの前澤猛氏がフェイスブックなどを通して指摘している。実際、一面トップの記事でも、毎週の半分ほどがこの種の記事で埋められている。これは特ダネでも何でもない。予算書などをひっくり返して、ちょっと取材すれば出てくる情報だ。記者会見で公式に発表される前にリークしてもらう手もある。前澤氏はこれでは「官報」ではないかと指摘する。

 官報なら実害もないが、政府に成り代わって、問題の火消し役になってしまうケースも出てくる。例えば、勤労統計の不正問題が表面化した直後の1月24日付朝刊紙面では、「雇用保険年度内に追加給付へ」という見出しで早くも「政府は、毎月勤労統計の不適切調査の影響で過少給付となっていた雇用保険について、現在受給している約80万人に対する不足分の追加給付を年度内にも始める方向で検討に入った」と報じている。そもそも統計不正の原因、経緯も判明しておらず、いまもって国会でまだ審議が続いている問題なのに、大した問題ではないと言わんばかりの作りである。追加給付と言っても、対象者を特定し、どのように給付するか難しい問題で、実際、政府も年度内の給付は困難との見解をその後示している。

 読売は北方領土問題をめぐる日ロ交渉についても、まるで安倍首相の言いなりだ。前澤氏がさらにフェイスブックで「いくらなんでも、これはひどい!」と書き込んだのが、辺野古への基地移転をめぐる県民投票の結果報道である。朝日、毎日などが一面トップで扱っているのに、読売の一面は「適量ですか高齢者の薬」という見出しの「人生100年と健康」という何の変哲もない連載記事。辺野古問題は4番目の一面では最も小さな扱いだ。2面、3面にも関連記事が掲載されているが、「県民投票広がり欠く」という見出しで、投票結果に冷や水を浴びせている。投票率が50%前半に留まっている点を指摘しているのだが、それなら国政選挙でもそう批判すべきだろう。ボスの意向を忖度するような紙面では、首相の意向を忖度する役人たちの批判はできまい。

 元の職場の悪口はここまでにしておきたい。本題の記者クラブ問題に戻ろう。記者クラブは存在自体が悪いのではなく、メディア側や記者の対応次第で、癒着の場にもなれば、権力監視のための密着の場にもなるというのが、私の結論である。現状では、新聞不信を助長する癒着の場になり下がっていると言わざるを得ない。現役の記者の皆さん、その自覚を持って頑張って頂きたい。


高井潔司  メディアウォッチャー

 1948年生まれ。東京外国語大学卒業。読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て、桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授を2019年3月定年退職。