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同一労働同一賃金 ――問題の本質

奥井禮喜

 2019年春闘では同一労働同一賃金問題が取り組まれる。ここでは、その問題の本質について、正規・非正規社員問題を中心に考えよう。【2/23関連公開講座「春闘交渉・働き方改革の源流を探る」準備中】

1970年代までの事情

 製造業が産業の中核であった1960年代は、パートタイマーはまだ少なかった。途中入社者や臨時工の社員待遇問題について多くの組合が直面した。

 途中入社は新卒入社に比較すると同年齢で技能技術が同等であっても、勤続年数が重視されていたために、賃金が極めて低かった。たとえば35歳の途中入社者が、正規入社の27、28歳と同水準という具合である。

 また、臨時工はいまの非正規と似ていて、賃金も低いが雇用が極めて不安定であった。いつ、雇用が断ち切られるかわからない。

 そこで、組合は途中入社者と新卒入社者の労働条件均衡化をめざして、賃上げなどの都度、途中入社者に下駄を履かせる(+α)改善策を講じた。臨時工には正社員登用の道筋をつけた。企業によっていろいろさまざまあるが、これは概ね1970年代に問題解決したと考えられる。

1990年代以降の事情

 現在の非正規社員問題の発生は、1990年代初頭に和製バブルが崩壊した後、希望退職という名目で正規社員がじゃんじゃん減らされたことから始まる。

 組合員の「雇用を守る」と大言壮語し、それを組合活動の理論的柱にしていたはずの組合が、企業の雇用削減政策に対して、目に物見せられなかった。これはなんといっても大きな失態で、いまの組合が苦労している原因である。

 すでに組合員の「組合(組織)離れ」が当然のように語られていたが、実は、もう1つの組織離れ、つまり「会社離れ」も従業員の気風として大きく膨れ上がっていた。

 1960年代であれば、いささか退職金を積み上げられたとしても、組合員が簡単に希望退職に応ずることはなかった。だれもが、この会社で職業人生を貫こうと考えていた。経営側から希望退職の提案が出されるや、工場には赤旗が林立して、労働歌が近隣に響き渡るのであった。

 1990年代後半からの希望退職が極めて円滑! に進んだのは、まさしく「会社離れ」を物語っていた。

人の育成はどうなったか

 敗戦後一貫して製造業においては、熟練工を育成する方針が経営の基本的認識であった。人の育成は1日や2日の課題ではない。しかも、仮に企業が積極的に「人を育てよう」としても、本人の「育とう」とする意欲がなければ不可能である。学校で先生が優秀でも、生徒すべてが優等生になるわけがないのと同じである。

 当時の経営者は挙って、「わが社は人間尊重の経営をする」と高唱したものである。これは、人道主義的経営をするというのではなく、人を育成することの大切さを実感していたからである。そして、これが労使の信頼関係・安定的関係の構築に重大な意義を発揮したのである。

 バブル崩壊後の経営不振に端を発し、さらに技術革新・IT革命などの文脈において、従来の企業の人の育成方針が形骸化した。言葉を変えれば、人々の協働によって企業を発展させるという高邁な(いや、当たり前の)思想を捨てて、功利主義一本鎗になった。経営者精神の堕落である。

 そうでなくても、不況になると5K削減(教育・交通・広告・光熱・交際の各費用)がもっぱらであった。

 もともと収益面で存在感の薄い人事部門はひたすら教育費削減で成果を誇示! する傾向にある。ひとたび教育事業の削減に着手すると、景気回復しても容易に元へ戻せない。人事部門の社内点数稼ぎ的軽挙妄動が、企業と従業員の精神的紐帯を益々瓦解させたのである。

経営戦略の変更

 さて、2000年代へ向けて、企業は着々経営の布石を固めた。いわゆる新自由主義の流れである。そのスタンスは、「収益重視+コスト削減」に尽きる。2001~2006年の小泉純一郎・竹中平蔵(経済財政政策担当・金融担当)のコンビによる内閣が、日本企業のブラック化を進めた最大の功績者であるという見方は的を射ている。

 小泉氏の登場は、あたかも漫画を地で行った。自民党内部からの「自民党をぶっ潰す」発言によって国民大衆の改革期待に火を点け、高い内閣支持率を背景に議会軽視路線で、財界の意を汲んだ政策を次々に推進した。小泉人気において、観客民主主義の雰囲気において、劇場政治が進んだ。小泉氏は戦後ポピュリズム政治家の嚆矢として歴史に残るだろう。

 組合員は1990年代のバブル崩壊後、決定的に元気がない。組合員の雇用不安の気風は、企業が経営再建を着々進めている過程においても、依然として変わらなかった。

 組合員の元気がないから組合の元気が出ない。組合の元気がないから、企業は経営再建過程において、正規社員をできるだけ増やさず、非正規社員をおおいに活用する戦略をらくらく推進できたわけだ。

 ここで、要注意は——自由な働き方を希望する人々が増えたからさまざまな労働形態が増えたというのは欺瞞的である。自由な働き方が確保されるためには――働かない自由があってこそ――である。

 そもそも、働かなければ生きていけない人々に自由な働き方はあり得ない。たまたま短時間労働を希望する人々がおられるのは事実だとしても、それが圧倒的多数の非正規労働における雇用の不安定性や、低い労働条件を当然視する理由にはなり得ない。

労働条件の下方圧力

 労働条件の低い労働者が増えれば増えるほど、正規社員の労働条件も下方圧力を食らう。正規・非正規の区分が固く確立し、まして非正規社員が40%にもなっている事情が継続するかぎり、日本の働く人の未来は明るくならない。

 企業が非正規社員に魅力を感ずるのは、正規社員との労働条件格差もではあるが、根本的には企業が雇用契約を自由に操作できることにある。

 敗戦まで、企業(資本家・経営者)は労働者を「働かせてやる」というにあった。「働かせてやる」というスタンスにこだわるならば「労使対等」論は相いれない。雇用不安下で、働く人々が自信喪失しているのは、まことに好都合である。1人ひとりの労働者は雇用関係において極めて弱い。

 不況になれば、まず非正規社員が職を失う可能性が高い。しかし、「正規社員の雇用を維持するために非正規社員が犠牲になる」という主張は、言いがかりである。資本の論理からすれば、本来、正規・非正規の区分など関係ない。

 あえていえば単なる状況対応の順番にすぎない。非正規社員が職場を去らねばならない事態になればどうなるか。正規社員はさらに間違いなく萎縮する。

 つまり、働く人がますます元気を失い、経営の動向を唯々諾々受け入れる。これだけでもおおいに経営側にとってはメリットである。戦前の「働かせていただく」という思潮が働く人々を支配しているというべきである。

正規・非正規は働く人を分断する

 整理しよう。—–正規社員は(非正規社員のお陰で)決して得していない。安くて弱い立場の労働力が潤沢であればあるほど、労働力全体が買い叩かれる。

 資本主義においては働く人々の労働力は企業のコストである。企業は労働力を購入(賃金)して生産をする。労働力は、他の生産手段・生産材料と同じくコストであり、企業が購入する面においては、1つの商品である。

 商品の売買(需要と供給)取引の関係には3面性がある。

 a 売り手同士の間

 b 買い手同士の間

 c 売り手と買い手の間

  a) 売り手同士の競争が強ければ、商品価格は下がる。

  b) 買い手同士の競争が強ければ、商品価格が上がる。

  c) 売り手と買い手の間では取引がおこなわれる。

 働く人の立場は、a)のように競争を強くしてはならず、売り手同士が結束してc)取引に臨むのが真っ当な方法である。

 働く人同士がお互いの立場に同情せず、共感せず、無関心でいる結果は、正社員といえどもますます立場を弱くする。(正規社員にとって)外堀が埋められれば、次は内堀が埋められる。働く人にとっては正規も非正規もない。正規・非正規の区別はひたすら雇用する側の都合なのである。

 正規社員と非正規社員の間の見えざる壁は、しかも、それだけに終わらない。昨今、職場のコミュニケーションやチームワークの悪さが一般化している。

 他者と相互に思いが及ばないことは、すべてを「自分1人の問題」として解決しなければならない。だからこそ、産業革命以降、労働者は組合を組織して一枚岩になろうとしてきたのである。

 ついでながら、コミュニケーションの劣化は、決して雇われる人々だけの問題に止まらない。たとえば企業不祥事は、経営側が職場の人々の分断に成功した報酬! として発生しているとの見方を捨てきれないのである。

「語らい」の大切さ

 世間では、過労死を筆頭に相変わらず不払い労働が撲滅されたとはいえないし、働く人々の精神的不安定さもしばしば伝えられる。依然として長時間労働が続いていることを考えると、働く人の生活はとても先進国といえる結構なものではない。

 たまたま昨年来、「働き方改革」が、政財界の肝いりで提起されたが、働く人々において、これが結構なことだという見解はほとんど聞かない。

 政財界の本音がどこにあろうとも、本来、真っ当な働き方についての主張をするべきは、当事者の働く人1人ひとりである。しかし、奇妙というべきか、働く人々の間で働き方を改善しようという声が大きな流れになっていない。

 これは組合関係者が本気で考えねばならない課題である。わたしが職場でインタビューしてきた内容からすると、みなさんが問題意識をもっている。つまり組合を作っている1人ひとりの段階で問題に直面しているわけだ。

 前述したように、1人ひとりが問題意識をもっていても、他者と共有しなければ運動にはならず、各人が自分的問題解決をするしかない。これでは働く人が孤立しているのであって、売り手間の競争以前である。

 たとえれば、湧き水はある。源流たる湧き水をつながねば大河の流れにはなりえない。

 2019年春季交渉において、各組合におかれては、職場のみなさんの「語らい」の場と機会を作ってもらいたい。――「語らい」なくして組合活動なし、これを組合関係者に期待し、お願いとする。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人