月刊ライフビジョン | 論 壇

奇妙な時代の本質「真実以前」のニッポン

奥井禮喜

 今日は、奇妙な時代である。たとえば「post truth」という言葉が登場して、多くの方々がもっともであると支持しておられるけれど、果たしてわが国にそのまま当てはまるだろうか?
 わたしは欧米におけるそれを、わが国においてそのまま充当してはならないと思う。
 わが国では、言葉がきちんと定義づけされず、あるいは定義づけしたとしても、それにふさわしく妥当な解釈がなされないままに、言葉だけが独り歩きしやすい。「post truth」は、欧米においては――知性が否定ないしは、無視・軽視されている――ことに関して痛切な危機感が表明されている。

悪知恵

 知性とは頭脳の知的な働きであり、感覚によって得た素材を整理統一して認識に至る心の機能であるとする。知性的といえば、知識・知性の働きが豊かなのである。「あの人は知性的な人だ」といえば好もしい表現である。ただし、要注意は、知性の働きが豊かであっても油断できない。その豊かさが社会的マイナス方面へ作用することもあるからだ。いわく、悪知恵が働く=邪知(よこしまな知恵)・奸知(悪知恵)という厄介な問題である。
 犯罪者は自分の知恵と意思で大胆に踏み出す。その意味では、方向性が社会的マイナスであっても、他の人が(やりたくても)やらないことを決行するのだから、一種のエリートである。暴力を活用する場合は相手を打ち負かす自信と力が必要であるし、詐欺の場合は相手の知恵を凌駕する奸知が必要である。さまざまの分野におけるエリート(支配的少数者)は5%程度だという説もある。これが正しいかどうかはともかくとして、(生物としての)エリートは他者とは異なってエネルギーを発揮・発散させる力が強いのである。
 健康な生物はエネルギーを発散させる時間・場が必要である。人間は本来自由であるから、自由に考え行動したい本能をもつ。しかし、自由であるから、すべては無であり、空しい存在でもある。空しさを忘れるために、長時間労働に勤しみ! スマホに熱中し! バカ騒ぎでもなんでもよろしいから、空しい時間を埋めてくれるものがほしい。これが気晴らし・手慰みを求める気持ちであるが、なかなかしたたかに人間の心を掴まえて離さないのである。
 気晴らし・手慰み効果が感じられず、空しいままに呼吸していると深い退屈にとらわれやすい。退屈が倦怠を呼び、重たい倦怠にはまっていることを感じると、なんでもいいから倦怠から脱出したくなる。その際社会的な称賛を得られる方面へ向かえばおおいに上等であるが、逆に社会的犯罪の方面へ向かうことであってもなんら不思議はないのである。
 つまりである、知識・知性の働きが豊かであるとしても、その人が必然的に道徳的・倫理的に進化したり行動したりしない。道徳的・倫理的な性質は知識・知性とは別物である。これをくれぐれも失念しないようにしたい。
 悪知恵の事例として世界的・歴史的に有名なのは、シェークスピア4大悲劇の1つ『オセロ』に登場するイヤーゴが思い浮かぶ。
ムーア人、ヴェネツィアの勇将オセロが、貴族の娘デスデモーナと熱烈恋愛して結婚した。幸福の絶頂にある彼が、部下の旗手イヤーゴの奸計に陥って、妻が不貞を働いたと固く信じ込み、妻を殺害してしまう。後に真実を知った彼も自刃する。愛情が深いほど、裏切られたという絶望もまた深い。ここがミソである。イヤーゴの悪知恵が遺憾なく発揮され、オセロの知性は嫉妬に取り囲まれて少しも働かない。イヤーゴは一種の心理学者のように、オセロの気持ちを読み取り、絶対的忠臣を装いつつ深い悪意の思索によってオセロの嫉妬を決定的なまでに操るのである。
 イヤーゴの奸知術数は、「誰かが言っていた」とか、「——ではないか」という一見客観的で、自分の確信的発言としない。たまたま入手したデスデモーナのハンカチを物的証拠としてでっち上げる。典型的な詐偽である。しかも自分がなにかを得たいのではなく、ひたすらオセロとデスデモーナを破滅させたいという「悪意」がイヤーゴの思索と行動の全てである。

猿知恵

 愛国心という言葉は本来悪くはない。1人の国民が他の国民を愛して、考え、行動する。滅私奉公(社会のために)に生きられる人は素晴らしい。オランダのある地の防波堤に穴が開いて、ちょろちょろ水が漏れている。少年は、このままでは危険だ。知らせたいが周囲に誰もいない。とりあえず自分の腕で防ごう。ようやく大人が気づいて駆け付けたとき、彼は気を失っていた。幼い頃読んだ本にわたしは深く感動したことを思い出す。
 しかし、八紘一宇、七生報国、一億一心と煽りまくった権力支配者たちの歴史を顧みるとき、一見立派そうな言葉に真実(本来の狙い)を隠して、自分たちの都合のために使われると、知識・知性というものは社会の人々をカタストロフィーに追い込んでしまう。言葉の麗しさに見とれていると大事な核心を見逃しやすい。わが日本においては、愛国心という言葉には、知識・知性が人々を欺くために総動員された足跡を認める。
 ギリシャ神話に「プロクルステスの寝台」という話がある。プロクルステスは強盗である。掴まえた旅人を寝台に合わせて伸ばしたり切ったりしたという。本来の個々の事情を無視して、強引に都合のよい基準に合わせようとすることの例えである。目下、議会における共謀罪法案審議で政府・官僚が駆使している理屈がまさしくこれである。
 過去にもいろいろあった。戦争をおっぱじめたが、然るべき理由がないので、「戦争といわず事変」と呼んだ。「謀略で起こした事件は満州某重大事件」と呼ぶ。「爆弾が暴発して死んだ兵士を肉弾三勇士」と讃える。「全滅は玉砕」、「戦死すれば軍神」に奉られる。戦に「敗けて退却することは転進」とする。「掠奪は現地調達」という。極め付けが「敗戦を終戦」と呼ぶことであった。お国のために開戦し、お国のために終戦する。なにを、なんのために、どのようにおこなって、いかに総括するかなんてことはさらさら考えない。真実以前である。
 侵略戦争を認めれば、悪しき戦争に駆り立てて、その結果おびただしい人々を、お国がむざむざ殺したことになるから都合がわるい。人々は正義の戦争だと「思って」戦場に散ったのだから、方々の心根を思えば侵略戦争であってはならないという奇妙な理屈を持ち出す。これまた真実以前である。
 誰も責任を取らずにごまかす手練手管である。意図的に問題解決をする知性的出口を塞いでいる。メルケル首相の言葉と比較して、わたしは恥ずかしい思いを捨てられない。
 ――人類に対する犯罪に時効はない。当時の残虐行為の知識を広め記憶にとどめておく永遠の責任がある。起きてしまったことを思うとき、私たちドイツ人は恥ずかしい気持ちでいっぱいになる。実行犯・共犯者・遠くから黙って眺めていたもの。二度とあやまちはくりかえさない。(メルケル首相 2015.1.26)
 安倍氏の積極的平和主義にしても中身不明の修飾語である。
 1969年、積極的平和主義を最初に世界に発信したのはJ・ガルトゥング博士(1930生)である。positive peaceの中味は、世界から貧困・飢え、差別をなくそうと提唱した。さすがに後出しのほうの英訳は、proactive contribution to peace (平和に向かって先を読んで貢献する)のだそうである。果たしてproactiveが専守防衛といえるか否か。歴史や戦争の真実を考えない安倍氏には、ガルトゥング博士の知性などと比較しようもない。
 デフレ脱却がどうなったかと問えば、もう直ぐだという。南スーダンでは、内戦で戦闘がおこなわれ多数の死者を出していたが、「戦闘(内戦)を衝突」と言い換えた。なおかつ、安定しているというに至っては、指鹿為馬の現代版だ。いい加減な期待感が交錯し、期待感の上に期待感が重なって2島先行返還論などが登場し、海千山千の修羅場をくぐったプーチン氏に軽くいなされるや、「日ロ関係の大きな一歩」(読売)と書く。オスプレイが「墜落大破しても不時着」である。
 廃炉・賠償・除染の費用21.5兆円という数字にも驚くが、1966年に原発が始まって以来積み立てておくべきであったもので、国民に過去分を払えというような話は論理もなにもあったものではない。高速増殖炉開発はどこから見ても失敗だが、一定の成果があった! とし、さらに技術開発炉に取り組むとする。猿知恵である。これがまさに現代日本の官僚が駆使している言葉の技術である。彼らはデモクラシーに背馳している。public servant(公僕)がわが日本には存在しないのである。

ポピュリズム

 ポピュリズムという言葉をよく耳にする。これは、「一般大衆の考え方・感情・要求を代弁している」という政治上の主張をいうのであって、それ自体は悪くはない。むしろ、大衆社会におけるデモクラシー政治をおこなうのだから至極当然と考えるのが妥当である。問題は、なにを以て一般大衆の考え方・感情・要求だというのかを厳密に規定しなければならない。ところが、新聞に登場するポピュリズムは、その実体がよくわからない。
 たとえば、アメリカ大統領選挙では、トランプがポピュリズムとされた。ヒラリーは、エスタブリッシュメントの代表として否定された。クリントン財団の不明朗な会計や、ウォール街との関連が深いと見られたのであろう。では、トランプがアンチ・エスタブリッシュメントで、白人(経済的)下層階級の代表かというと、逆立ちしなければそのようには考えられない。トランプはアンチ・エスタブリッシュメントを装ったに過ぎず、現状に不満をもつ人々を煽動して選挙戦を制したのである。
 つまりポピュリズムではなくアジテーションと呼ぶのがふさわしい。トランプは人々の不満を煽るアジテーターである。同じくヨーロッパでポピュリズムと呼ばれているのは、明らかにナショナリズム的煽動であって、彼らが一般大衆のために本当に問題解決の道筋をたどろうとしているとは考えにくい。

「pre-truth」

 1945年敗戦当時、先人たちは、少なくとも権力支配者の身勝手とオゾマシサを脳裏に叩き込んだはずであった。しかし、10年も過ぎると、記憶が薄れ(忘れたい思いもあるし)、ようやく生活感覚を取り戻して、日常生活の流れに没頭するようになった。それは、仕方がない流れでもある。
 しかし、1960年の反安保闘争と三井三池争議が、止まりかけた独楽にピシッと鞭を入れた。わたしは、その鞭の入った時代に大衆運動の流れに加わった。常に脳裏にあったのはデモクラシーに生きることであった。
 かたや敗戦後、次第に回復してきた保守の諸君は、デモクラシーにおける保守ではなく、戦前天皇制の復活を志向して、着々手を打ってきた。彼らの成果! が今日の社会思潮を形成してきたことは疑いがない。
 デモクラシーを発展させようとした、たとえば労働組合は賃金・労働条件向上の活動に沈没してしまって今日に至っている。
 思えば1980年代はkitsch(まがい物・俗悪なもの)の時代であった。同時に、極めて具合が悪かったのは、当時はバブル一直線で、賃金・労働条件にしか興味をもたない人々は、きっちりapathyの個人的世界に没入して、知的後退を進めてしまったのである。大衆運動の片隅で活動してきたわたしが悔やんでも悔やみきれないのは、なんといっても労働運動の世界で「働く人の文化」を構築できなかったことにある。
 わが国の労働組合は敗戦後、「労使対等(賃金・労働条件を軸として)・民主主義・平和主義」の3点セットで出発した。いま、どうなっているかは誰にも理解できるであろう。
 歴史的視点で眺めれば、敗戦で「真実」に取り組まねばならないことを認識して歩み始めた。1960年の一大画期を境として、安心したのか油断したのか、もっぱら労使対等世界のみに関心が移り、1990年代からの経済不如意時代においては、さらに企業内活動に沈没してしまった。
 以前は、「企業内の常識は社会の非常識(社会の常識を企業内にもたらさなければならない)」と主張したが、昨今は「企業内の常識で社会を見る」かのごときである。ブラック企業に対して怒りをぶつけず、長時間労働を当然と考えるような雰囲気が支配しているのだから、政府与党の不埒な芸当に対して憤まんをぶつけるなんてことが不可能なのは必然である。
 アジアでは「愚かな為政者でも治められる国の民こそが幸せである」というようなアイロニーがある。まさに、ここでいう幸福とは降伏であるが——
 「働く人の文化」が構築されないのは、わが日本のデモクラシーが真実ではないことを意味している。圧倒的多数の大衆である働く人々が真実を見る努力をしないのでは、手にする幸福は、権力支配層に降伏しているのである。
 「ワーク・ライフ・バランス」や「働き方改革」を政財界が抜けぬけ高唱する。ライフをワークに従属させ、健全な働き方を破壊しているのは誰か!
 ——という次第で、わが日本においては、「post-truth」に非ず、「pre-truth」なのであって、その痛切な認識なくして、わが日本国の発展など考えようもない。
 ――社会のすべての構成員は世論の形成に参与するものであるが、世論こそ法を生みだし、変更するための、もっとも有力な要因に他ならない(P・G・ヴィノグラドフ)という言葉を噛みしめ直したいのである。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 
経営労働評論家、
OnLineJournalライフビジョン発行人