月刊ライフビジョン | 論 壇

人生と仕事の関係を再考する

奥井禮喜

アパシーは他者に対する不信感

 組合員が組合に対して無関心(以下アパシー)であるという問題は、1980年代以降継続してきた。

 アパシーとは、人が他者(集団)に対して不信を持つからである。不信ゆえに沈黙する。放置すれば、組合は「組織されたアパシー」になってしまう。

 もちろん組合に限らない。安倍氏が疑惑について嘘をついている(隠している)ことを、ほとんどの国民は知っているが、自民党内部では安倍氏の総裁三選を当然とするような動きである。自民党という徒党は、まさに「(国民として)組織されたアパシー」の上にアグラをかいているわけだ。

危険な相対主義

 アパシーの背後には相対主義(relativism)がある。相対主義とは、一切の心理や価値を相対的とみなす。一切の認識は、主体と客体のさまざまな関係によって制約され、単に相対的妥当性しか持たないという考え方である。

 なるほど、人間には「いかに生きるべきか」については、百人百様であり、百人全員にとっての正解はない。にもかかわらず、人間は共同して社会を作り、お互いの生活を支え合ってきた。今日において社会を離れて生きられる人はいないのである。

 もし、人々が完全に相対主義に立つならば、共同して社会を維持することはできない。かつて、T・ホッブスが主張したように、自分以外のすべてが敵だということになってしまう。相対主義にはまると、何でもアリであるから、人と人、人と集団の関係がバラバラになってしまう。これはすべての真理や道徳的価値の客観的根拠を認めないのだから、虚無主義(nihilism)でもある。

 もともと日本人は、760年にわたる封建主義が続いたように、虚無主義的であり、明治までの日本人社会を律したのは「義理と人情」が通用する、狭い人間関係の集合意思であった。(竹越三叉『新日本史』)

 いわば、封建社会の思想がしたたかに残っているのが、日本的アパシーのバックボーンであるともみられる。

ユニオン・アイデンティティの失敗

 1980年代初めから半ばにかけて、一部の組合が「ユニオン・アイデンティティ」(以下UI)の確立を求めて活動した。

 これは、組合員のアパシーを克服するために、「組合の存在理由を考え、活動の理念を明確にして、さらにその戦略的活動によって組織活性化を達成しよう」という一連の組織的(組合機関)な取り組みをいう。

 残念ながら、あちらこちらの先進的組合の活動が話題になったものの、十分な成果を上げることができなかった。

 最大の理由は、単組段階の活動に止まったことである。おりから労働戦線統一が求められていた。89年に民間組合先行による労働戦線統一が実現したのであるが、これは、それまでの労働4団体の力量が大幅に低下している中で実現したのであった。本来、労働戦線統一を求めるならば、ただ4団体がくっつくのではなくて、そこでUI、組合のアイデンティティが掘り下げられねばならなかったのだが、要は、くっつくことが目的化したのである。

 また、組合員のアパシーが問題なのだから、組合機関の側が巧妙な作文をするだけでは意味がない。せっかくUIに取り組んだ組合も、本丸の組合員の意思を引き出す作業をきっちりやらなかった。それは、組合の存在理由ではなく、存在感を作ることに腐心したのであって、組合員アパシーが機関に対する不信感だという厳然たる事実を軽視してしまった。

組織されたアパシーにしない

 組合員のアパシーについて当時の組合役員同士は、しばしば語り合ったものである。しかし、「組合員の意識が多様化」しているから、有効な手立てがないというところに帰着して、「連帯を軽視するのは困ったもんだ」というような言葉での慰め合いに終始した。ここが大問題である。

 UIは本来、組合員のアパシーを、連帯感欠如のフリーライダー的態度だと「倫理的」に決めつけないことから始まったのである。「アパシーである組合員が悪い」と結論するのであれば、理屈上は極めて簡単である。

 しかし、組合役員は組合員の意を呈して存在するのであるから、アパシー組合員が多数となったとすれば、組合役員の存在理由はないし、当然ながら組合自体が消えることになる。厳しくいえば、「組織されたアパシー」としての組合へ着々歩んだことになる。

平凡な人間が立派にやっていける社会

 今年の半年をかけて、筆者は中小企業労組組合員100人のインタビューをする機会を与えられた。ほとんどが非専従役員であり、もっとも組合員の意識に近い人たちだという仮説に立ったのである。

 初対面のインタビュアー(筆者)に対して、皆さんが不信の対応をするどころか、普通は他人に話さないであろう個人的な事情に至るまで胸襟を開いて語ってくれた。「不信の沈黙」がないこと自体に、筆者は強い感銘を受けた。

 筆者は、皆さんの自分の生き方(人生観)を読み取ることができた。

 そして、全体の傾向は、仕事を通して、「よりよい集団」や「よりよい社会」を作りたいという意思が押し出された。換言すれば「平凡な人間が立派にやっていける」社会を作りたいという願いであった。

 活力ある生き方とは、社会において「自分を表現する」ことである。誰もが、自分が社会を作っている1人であり、日々の活動を通して、いわゆる「自己実現」に向かう手応えを求めている。

 組合の課題は「1人ひとりの出番」を作ることにある。社会の活力は、1人ひとりの多様性を生かしていくときに発現する。国家主義よりもデモクラシーのほうがはるかに上等であるのは、1人ひとりが自由にのびのびと社会において人生を送られるからである。

働く人はaction、経営はProfit

 1人ひとりの日々の関心は仕事にある。「休めない・長時間労働・賃金がやすい」という不満は圧倒的である。これは、事前の予想と全く同じである。

 にもかかわらず、1人ひとりが自分の仕事が好きで、仕事に対して誇りと責任を持ち、もっと愉快な仕事人生の展開を期待している。逆にいえば、労働条件の不満は隠しようもないが、自分の人生を作っていく「わたしの仕事」に対する愛着が強いのである。

 仕事に臨む態度を、「labor・work・action(生活の糧・個性の発揮・社会連帯)」の段階に区分してみると、ほとんどが「action」の段階にある。それゆえ労働条件に対する不満を、働く人としての矜持が大きく乗り越えているわけだ。

 一方、経営者の段階を上記の順に「profit・management・action(利潤第一・経営能力発揮・社会連帯)」と区分してみると、(働く人の見方としては)「profit」が圧倒的である。これも、誰でも納得できる見方であろう。

 つまり、労使は極めて均衡を欠いた「働き方」の構え方になっている。だから国会でゴチャゴチャやっていた「働き方改革」に対する批判は圧倒的であり、支持する声はゼロであった。

CSRとUSR

 ここからして、労使対等は前述労使の意識ギャップも含めて、看板だけになっていると推測せざるを得ない。踏み込んでいうと、連合が働く人を代表して働き方法案のまとめに関わったことになっているが、実際に働いている人たちの認識とは明らかに懸隔が大きいのである。

 とくに経営側には、社会における格差の拡大、非正規社員の増加、長時間労働の放置など、働く生活者の生活を大きく毀損させていることから、CSR(Social Corporate Responsibility 企業の社会的責任)に大きく背馳していると指摘せざるを得ない。

 長時間労働問題に代表される職場労働の実態は反社会的問題である。個人のありたい「life」(人生)を大きく毀損している。ワークライフバランスは、形式と中身がまったく異なっている。

 ワークライフバランスについても一言付け加えると、職場で働く人の中で、侃々諤々の話し合いがおこなわれた形跡はうかがえない。ここにも、組合機関と1人ひとりの組合員の大きな意識ギャップが見える。

 CSRに対置して、組合にUSR(Union Social Responsibility 組合の社会的責任)ありとすれば、組合の責任もまた大きい。

個人での問題解決はできない

 組合におけるアパシー問題は、「意識が多様化している」のだから仕方がない。というような生煮えのままに長く放置されてきた。しかし、インタビューからは、皆さんの意見は「より良い集団」「よりよい社会」を作りたいということであって、バラバラ感はない。

 目下直面する働き方問題が、個人的段階では解決できないことを誰もが認識している。昨年、筆者がある県の連合で「働き方改革」をテーマに講演した際、組合員がこの問題に関心を寄せているかどうかを尋ねたら、全員が「関心なし」という結果であった。

 しかし、関心がないのは国会のゴチャゴチャ議論に対してではあっても、ありたい「働き方」に対する見識は皆さんが持っている。機関と組合員の意思疎通ができていないのである。

コミュニケーションを進化させよう

 組合内部の問題としては、コミュニケーションが正しく理解されていない傾向にある。いわく、「人間関係をうまくやる」論である。なんとなればそれは、現状に波風立てないことに過ぎず、ならば現状は永久に変わらない。

 もし、人間関係をうまくやることを優先して、お互いが話すべきことを話さないのであれば、人間関係自体が組合をダメにするであろう。

 「コミュニケーション≠人間関係」を念頭に置いて、手近なところでは、コミュニケーションとは何たるかを、皆で学ぶ必要がある。最初にムラを作ったのは1人ひとりの意思であったはずだ。「はじめにムラありき」ではなく、「はじめに『わたし』ありき」である。

 誰もが期待する「平凡な人が立派にやっていける」社会を作るためには、人生に発生する諸問題を個人的解決に委ねておくだけでは間に合わない。問題の本質が個人的か、全体で共有すべきか。全体で共有するために絶対不可欠なものがコミュニケーションである。

 集団を作ったのは個人である。誰もが自分の「人生の価値」に立脚しなければならない。「わたし」が「あなた」であり、「わたし」が組合である。

 すべては「わたし」から始まる。