月刊ライフビジョン | コミュニケーション研究室

議論をしない“民主主義国家”

高井潔司

 9月の自民党総裁選を前に、有力派閥の長である岸田文雄政調会長が不出馬を表明した。これには失望した。これで安倍三選が事実上決まってしまったからではない。「政治は議論ではなく数」という日本の政治文化の低さが改めて浮き彫りになったからだ。

 民主主義の基本は、多数決だと言われる。確かに、最終的な決定は多数決によって行うことにならざるを得ない。だが、民主主義における多数決とは先ず様々な議論を戦わせ、その結果、議論がまとまらなければ多数で決するということだ。議論を戦わすというのは、 それぞれ相手の意見、多様な意見に耳を傾け、異なる意見を取りこんで、より良い意見に練り上げていくというプロセスのことを指す。かつて国会で安倍首相が「私にも言論の自由がある」と強弁を張り続けたことがあったが、この人を筆頭に、日本の政治家たちは、民主主義とか、言論の自由を曲解しているようだ。言論の自由とは、少数者にも言論表明の機会を許し、多数であれ、少数であれ、異なる意見に耳を傾けることにある。

 少々理屈っぽくなるが、私は大学のメディア論のテキストでは、「出版の自由」つまり言論や表現、報道の自由を確立する上で大きな役割を果たしたJ・S・ミルの「自由論」に関連して、こう解説している。

 表現の自由、言論の自由は、権力者をチェックするためだけでなく、自由の保障の下で、議論を展開して、誤りを正し、真実に近づいていくためにあり、それこそが民主主義だと言えます。その前提にあるのは、人間誰しも誤りを犯しやすい存在であるという認識です。政府や権力者に対するチェックが必要だというのは、彼らが権力を行使して誤りを覆い隠そうする恐れがあるし、またそれができる大きな権力を持っているからです。

 19世紀、「出版の自由」を確立する上で思想的な力を発揮したJ.S.ミルの『自由論』を分析したナイジェル・ウォーバートン(『表現の自由入門』邦訳岩波書店)は「ミルの見解によれば、人間はあらゆる種類の信念について誤りを犯しやすいので、絶対的無謬性を前提にすべきではない」、「自分では確実と思われる問題ですら間違っているかもしれないと人々が認識する時、人間の前進する知恵とは、われわれと意見の異なる人々に対して開放的でいることである」、「私が自分の意見を真理だと信じており、その真理性について大いに自信があるにしても、それが『完全に、頻繁に、恐れることなく』議論されない限り、私はそれを死せる教義、ありきたりの、無思考の反応として保持することになってしまうだろう」(前掲書31~32頁)と指摘しています。多様な意見、反対の意見に接して、議論することによって、自身の信念をより確かなものにしていく、そのため言論や表現の自由を反対者に対しても認めていかなくてはならない。J・S・ミルの「自由論」はこのような考えを基に展開されています。

 民主主義とは多数決であり、数の論理ですべて押し切る、反対意見に耳を傾けないというのでは、全体主義と変わる所が無くなってしまう。会期末のどさくさに紛れて、いわゆるカジノ法案や参議院の定数増を図る選挙法を強行採決したのは、それでも会期が足りないという口実もあるだろう。だが、総裁選挙は議論の場がせっかく設定され、互いに切磋琢磨してより良い政策を作り上げていけるというのに、それを断念するというのでは、数の論理しか見ていない政治家だと言わざるを得ない。

 岸田氏は、憲法問題や安全保障、外交問題において、安倍首相とは異なる考え方を持っているといわれる。総裁選は議論を戦わせる絶好の機会であるはずだ。政治家は自身の主張をしっかり示して、支持者を増やしていくのが基本であろう。それもせずに、次々回の選挙で禅譲を期待するというのでは、とても保守本流の流れを引く政治家とは思えない。

 マスコミも、岸田氏が出馬を見送ったのは惨敗を避け、次々回の禅譲を期待していると分かり切った解説するだけだ。日本の民主主義がこんな体たらくな状態にあるという批判的な視点からの解説がない。

 こういう現状だから、財務省の次官人事をめぐって、麻生財務相の記者会見で、公文書偽造事件に対する反省のない順送り人事について質問しながら、「人事権は私にあるのはご存知ですね」といった麻生大臣の開き直り発言を許容してしまうのだ。「人事権があなたにあるのは誰もが知っていること。あなたは先の国税庁長官人事でも、佐川氏の長官起用を『適切だ』と判断ミスを犯した。だから、国民はあなたの人事判断に疑問を持っている。こんな順送り人事では信頼回復にならないでしょう」くらいの反論ができないものか。

 同性愛カップルをめぐる自民党の杉田議員の「生産性のない人達に税金を使って支援する必要がない」という発言をめぐる党内議論も同様だ。生産性がないのは同性愛カップルだけではない。こんな発言を、二階幹事長が「それぞれいろんな意見があるでしょう」と許すのも、議論をしない、数の論理だけで成り立っている政党ゆえの現象だろう。以前なら、閣僚や議員の失言に対して、党内からも批判の声が上がり、相応の責任問題に発展したものだが、いまや批判は数の論理で押さえられてしまう。かつての二階幹事長なら、「杉田議員、あなたももう生産性がないのだから、そういう発言は止した方がいい」位のとぼけたコメントが出てきたものだが、こちらも生産性が薄れてきたのか、最近発言にも精彩がない。

 政治家が議論をしない、できない。その政治家を新聞が批判しない。これではとても民主主義国家と言えんでしょう。


高井潔司  桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授 1948年生まれ。東京外国語大学卒業。読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て現職。