月刊ライフビジョン | 論 壇

縦社会が示す戦前復古調

奥井禮喜

縦社会の欠陥

 関東学生連盟が日大に対してアメフット事件に関する裁定を下した。

 内田正人(前)監督と井上奨(前)コーチを除名。森琢ヘッドコーチを資格剥奪。宮川泰介選手と日大チームを2018年のシーズン終了まで出場資格停止をするなどである。

 聞き取り調査などから、連盟執行部は、内田氏が暴行を指示し、井上氏はそれを隠す証言をしたと断定した。選手を(スポーツマン精神やルールを破るような)ドン詰まりまで追い込んだことが指導者として失格だとした。

 極めて明快な裁定で、昨今の黒い霧の中にある気風に一陣の風を吹き込ませたと、わたしは思う。

 一連の流れを振り返れば、とにかく試合に勝利することを至上命題とする指導者が、チームの「勇猛心」宣揚のために、ラフプレーどころか反則でも何でもやっちまえという構えで、出場をエサとして暴力行動をするように選手を精神的に追い込んだ。相手が出場不可能にするのはヤクザの行為である。

 なおかつ、露見するに及んで、指導はおこなったが、選手が勝手に「やり過ぎた」という、指導者にありがちな典型的なインチキ責任逃れをやった。

 単純といえば単純であって、連日新聞の1面を飾るような質の問題ではない、という見方もあろうが、そこには所謂体育会系のみならず、「縦社会(上意下達)」において常に作り出されやすい「本質的欠陥」を見て取れるのである。

非合理的精神論

 縦社会において、上意下達は1つの原則である。そこには、デモクラシーにおける個人間の対等・平等の原則が棚上げになっている。(ただし、人間性まで否定するのではない)上が指示・命令するのは権利であって、下がそれに従うのは義務である。そうしなければ組織的一体行動が円滑におこなわれない。下が上の言うことを聞かなければ極端な場合には組織が崩壊するからである。

 ここで1つ疑問が発生する。組織論としては上意下達が合理的だが、指導者の地位に就いている奴がバカであって、社会規範(ルール)を弁えず、状況分析や、チームの内情分析を的確に把握できないとすればどうなるか。

 ばれなきゃよろしいとばかりインチキをやって突っ走った結果、社会的制裁を受けて倒産の危機に至った企業の事例は記憶に新しい。状況分析を誤る結果は、無理難題がチームのメンバーに押し付けられる。何がなんでもやりこませという方針のもとで長時間労働はなくならないし、果ては過労死という、犯罪者を特定・逮捕できない殺人にすら至る。

 就職試験の際、体育会系が売り込みの決め手の1つになるのは、体育会系は上意下達に絶対的忠誠を尽くすと信じられているからだ。

 もちろん個人によっては、理屈上無理難題であるとしても、能力を発揮して新しい状況を作り出す場合がある。これ、格別スポーツ界に限らない。わたしが見聞した産業界内部でも、超人的パワーを発揮された方々がおられた。

 いわゆる「ヒーロー」の誕生である。善意で解釈するならば、上の無理難題というのが「キミの隠れている能力を引き出す」ためなんだという理屈と重なる面があるのも事実である。(ただし、正確を期するために補足すると、隠れている能力を引き出すのは外からの圧力ではなく、本人の主体性である)

 かくして、スポーツ界に限らず、この種の「精神論」が幅を利かせている。「信ずる者は救われる」のである。理論的には効き目がないはずの「薬」であっても、本人が薬効を信じて疑わないから効果を発揮するという手合いの話もある。

 合理的な組織的行動をとるということは、たまたま発生するような例外的事情を行動指針としないことである。ところがスポーツなどのように「ヒーロー」を求める傾向が強いジャンルにおいては、合理性よりも非合理性に傾斜する指導者が少なくない。

 世間にブラック企業が多いが、かかる企業には立志伝中の人物が現存しているか、あるいはかつて存在しており、わが社は他社とは異なるという「神話」が脈々と生き残っていたりする。そのような企業には大概「なせばなる」調の精神訓が掲げられているものだ。

チームプレーの原則

 さて、個人が「いい働きをして組織に貢献しよう」という考えを保持して活動するのは素晴しい。メンバーがこの考えを共有していれば不祥事が発生する隙間がない。いい仕事をするためには、ワンマンプレー偏重ではダメだ。分相応という言葉があるが、状況に対応して、自分が「いま」「ここで」「なすべきこと」をやる。

 すでに1970年代、「状況対応」のリーダーシップ理論が花盛りであった。でしゃばるのではないし、控え目すぎてもいかん。メンバー各自が、状況認識を共有しており、各人が自分の力を認識しており、固定的ではなく動態的に力を発揮するという理屈だ。

 これは後にサッカーがブームを起こすにつれて多方面でいろいろ論じられるようになった。いわく、いちいち監督の指示を仰ぐような野球型ではなく、自分の頭で考えて行動するのがサッカー型だというような調子であった。

「いい仕事」を妨害する気風

 ところで前述のような考え方が組織人(勤め人)にとって主流派であろうか? 自分の頭で考えて動態的に対応するというのは美しい理屈であるが、ことは容易ではない。たまさかよかれと思ってやったら失敗した。責任を取るのは自分である。動機がいかに純粋で立派であっても上や周囲が認めてくれるとは限らない。いや、むしろ、組織社会の情けない面は、協力して成果を上げることよりも、各人が個別的サバイバル意識にまとわりつかれやすい。

 それは「いい仕事」をやったのに、なぜか周囲から疎んじられるという現象が発生することに見られる。それはこういう理屈だろう。

 職場の売上が低迷していて、上はキャンキャンがなり立てる。職場へ行くのが嫌になる。Aくんが奮闘して何とか目標を達成した。上司が朝礼でAくんをほめる。心なしか同期のBくんは「それに比較してキミは——」と言われているような気がする。周辺は多かれ少なかれそのような傾向になりやすい。

 Aくんはもちろん心外である。結果として皆のためになっているのに疎んじられたのでは堪らない。なぜ、このような頓珍漢が発生するかといえば、人事管理の柱が相対評価であり、減点法評価であり、そのために常にメンバー同士を競争相手の関係に貶めているからである。

 社長が社員を集めて「困難な時代である。全員協力一致の成果を上げるためにがんばろう」と訓示するのである。わかっているのか、いないのか。人事管理においてドッグレースさせているわけだから話にならない。社長訓示など「床の間の天井」と同じである。

「出世」志向の罠

 そこで、小才がきく人はどうするか? 組織に居続けてそれなりに自分の心地よいポジションを獲得するためには、ただ看板通りにやっていたのではいかんぞ。皆に嫌われないためには、皆と違ってはいかん。前に出るのも、もちろん後ろに落ちるのもダメである。

 何よりも上に嫌われるくらい馬鹿な事態はない。上に嫌われないためにはどうするか? 好かれるに限る。上の言うことにはオウム返しで、真っ先に「ハイル ヒットラー」をやる。大企業に限らないがダメになった企業の大物経営者に関して、事後に語られるのは、経営者の周辺を茶坊主が固めていたという総括である。しかしながら、ダメになるまでは茶坊主的存在は魅力である。

 だから、「いい仕事」をして組織に貢献しようというのではなくて、「めざせ茶坊主」というのが大方の組織において主流派を形成するのである。わかりやすくいえば、いい仕事をすれば出世できるのではなく、ひたすら「出世」(茶坊主)をめざして日々奮闘するのがよろしいというわけだ。

 たしかに、個人が目標を立てる際、「いい仕事」をするというのと、「出世」するというのとは異なる。「いい仕事≠出世」である。だから、日大の例でも、コーチは監督の意を慮って、監督のご都合主義的弁解を支える発言をした。

 かくして一蓮托生、目論みが外れ、関東学生連盟に資格剥奪された。

監督安倍+コーチ麻生

 すでにお気づきのように、1年以上にわたって、やっさもっさやっているモリ・カケ騒動における官僚の「忖度」と、日大事件は全く同根同質である。監督は安倍、コーチは麻生のAAコンビである。財務省の大失態で「ウミを出さねばならぬ」と安倍が嘯くけれども、麻生のクビを切れないのは、一蓮托生だからである。安倍が麻生のクビを切ることは、返す刀で自分のクビを切らねばならない道理だ。ナンセンス漫画にもならない事態が現実に展開されている。

眼を覆う官僚(システム)の堕落

 さて、わが政治において、政治改革とか行政刷新というものの本質は、政治家対官僚の(対立)関係を意味していた。

 選挙の洗礼を通過してきたというものの、政治家としての人物人気が直ちに官僚並びに官僚システムに優越するものではない。政治家は自分たちが国民に公約してきたことを実現するためには官僚の壁と対決しなければならない。しかし、容易にその壁が崩せなかった。

 中曽根内閣の第二次臨時行政調査会(1982)が有名であるが、議会に基盤を置かず、内閣と直結する調査会や委員会が重要な行政の基本方針を定める方式がその後当然のようになっていく。

 いわば、官僚システムは議会を実質的支配することによって内閣をコントロールする力を持っていたが、その重要な道筋が崩されたのである。

 そうなったとしても、もちろん実際の法律・政策決定面における官僚システムの力が削がれたわけではない。重大な課題であればあるほど官僚の知見に依存しなければならず、官僚は政治家を立てつつも官僚システムはわが国政治の基盤であり続けたはずであった。

 もともとわが官僚システムにおいては、戦前体制である全体主義・権威主義・議会政治否認の傾向が強いという批判があったが、少なくとも1内閣の家子郎等に堕するとは思われなかった。官僚システムにおいては、それなりの「矜持」ありと思われていた。

 しかし、この間の所謂「忖度」問題の本質は、完全に家子郎等化している様子であり、「いい仕事」をするのではなく、「出世」だけをめざしていること体たらくが露見したのである。

 しかも、殿の乱心が世間に知れ渡ってもなおかつ臣下の忠誠を尽くす姿を見ていると、これが全官僚システムを覆っているとは信じたくないが、それゆえ尚更官僚システムを作り上げている高級官僚らの堕落がおぞましい。

 もちろん、本当の主人(国民)を忘れている点においてはデモクラシー以前であって、戦前体制復古調が、今回の不祥事の基底音であると言わざるを得ない。政官諸君の「愛国心」はインチキだというしかない。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人