月刊ライフビジョン | 論 壇

わたしが彷徨いこんだカフカの世界

奥井禮喜

 先日、広島で時間調節のために書店に入ったら、たまたま宮沢俊義教授(1899~1976)の『転回期の政治』(初出 1936.12 中央公論社)を見つけた。

 出版当時はどんな時期であったかというと、宮沢先生の恩師である貴族院議員・美濃部達吉教授(1873~1948)が、前年の35年2月18日から「天皇機関説」を議会内外の右翼に攻撃された。美濃部教授は、貴族院において同25日に堂々たる弁明をしたけれども、結局、主要著書の絶版・改定を命ぜられ、貴族院議員を辞し、東京帝国大学の憲法学教授も辞任した。これが「天皇機関説」事件である。

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 恩師の後を引き継いで法学部で憲法学を講義していた宮沢教授にも非難攻撃の矛先が向けられていた。絶体絶命の窮地に立たされ、孤立感を深めていた宮沢教授は、講義案を改定するなどしてなんとか態勢を守っていた。

 昨今とは大いに事情が異なる。学問の自由など全く無視して権力の嵩にかかった攻撃をする連中に対して、警戒の手を抜けば「玉砕」するしかない。大正デモクラシーの申し子である宮澤教授は、隠忍自重しつつも、デモクラシーの灯を守るために闘い続けておられた。

 その涙ぐましい闘いの最中に出版されたのが『転回期の政治』である。はしがきには――危機的な時代である。…わたしは何も押し付けず、何も提案しない。わたしは、ただ解き明かす――と書かれている。

 わたしは、その苦渋を思う。わたしはあまりにものん気(!)な時代に生きているが、それでも、宮沢教授の孤立無援の闘いをしのばずにはいられない。

 そのなかに、明治時代の官吏についての記述がある。これはちょっとドタバタ喜劇的表現で、著書全体は非常に重たいのであるが、この部分だけが妙に笑いたくなるような雰囲気なのだ。それによると(要約)――

 ――明治時代はまことに官僚華やかなりし時代であった。優秀な青年は競って官吏になった。月給もよく役得もあり裕福であった。鯰髭を生やし、権妻(愛妾)を蓄え、お抱え車で役所へ行く。1,2等の高等官になり、恩給をもらい銀行などに天下りする。ただし、その地位は政府権力に対しては保障されておらず、政府が官吏の「生殺与奪の権」を握っていた――云々。

 政府は、いつでも官僚のクビを切ることができる。たとえば、休職(という名目で実質クビ切り)を命ずることもできるし、クビのすげ替えもできるというわけなのであった。蚊帳の外の庶民からすれば、高級官吏は結構な身分のようなのであるが、実は本人にすれば心細い不安定な立場であった。

 明治から遠く離れた今日ではあるが、今般、佐川くんは間違いなくクビを切られたのであった。ここ一番「真相はこうだ」とやってほしいと、大概の人が期待したであろう。

 ところがどっこい、クビを切られても「ハチ公は忠犬」なのであった。という事実からすれば、高級官吏の世界は相変わらず「明治時代そのままの本質」を抱えていると考えられるのである。

 つまり、いかに華やかそうに見えても、官吏たるものの本質は政府権力に逆らってはならないという不文律がある。このように考えれば、佐川くんの取っている立場は一貫して「あるべき官僚」の姿そのものだという次第だ。

 一般市民から見て違和感を禁じ得ないのは、市民は佐川くんをデモクラシーの官僚だと考えているからである。つまり、デモクラシーの日本国憲法の官僚であるならば、佐川くんは公僕(public servant)なのだから、政府権力が怪しからんことをすれば告発的立場をとるであろうと、普通の市民は考えてしまう。

 ここに市民諸兄の大間違い(!)が潜んでいる。実は現代においても、わが高級官僚は明治の華やかなりし官僚の気風を後生大事に掲げているわけだ。実際、佐川くんは一言も「公僕」という言葉を口にしていないはずだ。佐川くんは明治官僚的浪漫世界の住人である。もちろん、それは公僕なんかではなくて、政府支配層と同様に、国民に対しては相変わらず「お上」なのである。

 昔のチャンバラ映画風に表現するならば、議会の証人喚問において佐川君が「木端野党の奴らめ、寄らば斬るぞ!」という態度を貫いたというべきだ。

 もちろん、現代風に分析するならば極めて奇妙奇天烈な光景が展開された。なにしろ、誰が命令したのか、誰がやったのか、わからないままに――国税局長官にまで就くようなエリート官僚が――形式として責任を取ったというのだから不条理劇という次第になる。

 いうならば、カフカ(1883~1923)『城』(未完)を、そのままなぞったような出来損ない芝居である。カフカ的世界においては、庶民的な日常生活の常識は存在しない。

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 人間が地球に登場した当初、人々は採取的生活を繰り返していた。その状態では人間「社会」(連帯)の発想は存在しない。これは、いまでもその名残を見ることがある。たとえば秋になると地方都市の好事家はキノコ採りに山へ入る。しこたまキノコを採取すると周辺に自慢話をしつつ、たまにはおすそ分けしてくださるのであるが、採取した場所は絶対に教えない。

 これが変わったのはおそらく12,000年前辺りの「農耕」の発明であろう。思うに農耕の発明は昨今、人類が宇宙をめざす以上の大発明であった。お陰で地球上に75億人もの人間が生息するようになったのである。

 農耕開始によって、理屈以前に、長い時間を経て、自然を相手にするのだから、人々は1人ひとりが孤立して栽培するよりも協力したほうが好都合だと知ったのであろう。かくして世界中にムラ(集落)が作られたと考えられる。

 かつての小規模なムラが、大きなのや、小さなのや、国だの地域共同体だのというものに成長してきた。

 さて、そこで、ムラが大きくなるにつれて、組織や社会を統治し運営する専門家集団が大きく育った。

 おそらく、最初のムラの形成当時には1人ひとりが「わしのムラ」だという意識にあったと想像する。ムラに参加している人々はすべて平等・対等であって、そこには支配する側と支配される側は存在していなかったであろう。

 すなわち、当初は「権力」というものが形になっていなかったはずだ。

 厳しい自然と共存するためにムラ(社会)を作ったはずであった。ところがムラが巨大化するにしたがって、村を統治するために管理・運営する専門家集団が発生し、これがまた巨大化し、かつまた専門家集団が全体に対する特権集団化していく。

 権力を駆使して――人々を支配することの――旨味を専門家集団が次第に知るようになったのは必然であっただろう。

 専門家集団が、人々の日常生活のために粉骨砕身するのだという本来の目的を失念するのに要した時間は、採取生活から農耕生活へ移行した期間に比較すれば、極めて短期間であったに違いない。中国では3,000年前に「酒池肉林」の快挙(!)があったし、その中心には巨大な権力者が君臨していたことが記されている。

 権力はまた、権力者集団内部においても独特の権力装置として作用する。カフカ的世界が描き出したのは、権力が目的化して、権力が1人歩きしている事実を見事に描き出しているのである。

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 権力に対する対抗力は要するに、権力装置を生み出している「ワシ」1人ひとりのはずである。理屈上は……

 しかし、ワシ1人対権力と置けば、1人の力は圧倒的に微力であり、たまさか誰かがことの本質に気づいて声を上げたとしても、人間の海に飲み込まれるのがオチである。かくして、アパシー(apathy)が時間の経過につれて、益々巨大化した。

 カフカ的世界とは、実はアパシー的世界と同義語である。ハシェク(1883~1923)に『兵士シュベイク』という著作がある。兵士シュベイクと、その戦友たちは、問題に何の関心も持たないままに戦場最前線に赴くのである。

 少し考えてみれば思い当るであろう。シュベイクを持ちだすまでもなく、わが国においても「昭和の戦争」で赤紙(権力の命令)によって日本的シュベイクが前線に投入され、わが日常生活的希望とは全然関係がないままに、戦場に散ったのであった。

 いささか話を突っ込みすぎたかもしれない。庶民の日常的感覚からすれば、極めて奇妙奇天烈な佐川くんの国会での言動であるが、それは極めて的確に権力的世界の本質的堕落と不条理を具現したものであった。

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 「権力」というものは、まことに露骨である。日本的政治劇場における関係者のてんやわんやは、いわば漫画チック、喜劇的であるといえるけれども、哲学などカケラも持ち合わせず、節操のない政治家(+官僚)どもが展開しているデモクラシーの状態は、決して「お笑い」ではない。

 いま、わたしは取材の旅で走り回っている。初対面ではあるが、真面目な市民のお1人ひとりと対話を重ねつつ、皆さまが日々多忙にして、仕事を中心とした生活に追われておられるのを伺いつつ、日本の政治状況がとんでもない事態に入っているのではないのかという危機感を深めている。

 わたし自身、この多忙さの中で、じっくり考える時間をひねり出しにくいのである。まさしく、わたしもカフカ『城』の主人公のKと同じ世界の住人なのだと思うのである。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人