月刊ライフビジョン | 論 壇

Apathyとは自身の自分離れでは?

奥井禮喜

 今回は、日程の都合上、旅の最中に原稿を書いており、旅をして漂いつつ、原稿もまた漂うような塩梅になりそうな予感がいたしますが、なにとぞ、ご容赦いただきたく——

 まあ、旅といえば人生自体がしばしば旅に例えられるように、わたしの場合、頭はいつも旅=漂っているみたいである。なにを漂っているのか。

 36年前、いまの仕事(?)を始めたときから、わたしが追求するテーマは「個人と組織」のよろしい関係の模索・構築にあった。それをもう少し辿ってみると、1970年代半ばに、石油ショック以来のどさくさの渦中において、組合という舞台における「参加の民主主義」を推進することにあった。

 さらに、その根本を手繰ると、1968年1月に原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争のために佐世保に派遣されたときに突き当たる。わたしは1963年に社会人になり、間もなく組合活動に熱中するようになった。佐世保に行ったときはすでに組合支部役員として4年を過ぎていて、もう1つ、スカッとしないもやもやした気分を抱えて日々の活動に取り組んでいた。

 エンプラ寄港阻止闘争は、当時労働界の一大イベント(!)であって、よっし、何か発見し、学ぼうじゃないかという気持ちを込めて参加した。詳細は省略するが要するに、その心づもりはほとんど肩透かしであった。

 5万人が集まっている佐世保市民球場(名前があやふやだが)で主催者が「この体験を基に、明日から職場でさらなる反対闘争」とかなんとか絶叫するのを聞きつつ、何とも白々しい気持ちを抱えて帰途に就いた。

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 さて、70年代半ばになると、石油ショック翌年(1974)は名目では33%という大幅賃上げであったが、消費者物価が高騰しているから、実質2%程度しか上がらず、秋になるとほとんど物価上昇率に飲み込まれてしまった。

 労働界大幹部の間では、「こんな賃上げをしていると経済がどうなるか!」という危機感が募り、社会的整合性ある賃上げ論が登場するのであるが、まあ、半端な理屈を乗り越えられず、職場の組合員のフラストレーションはかなり高まった。

 ところがわたしが見るところ、高まったはずのフラストレーションは憤激・爆発なんてことにはならず、むしろ風船の空気が抜けるように萎んでいくのであった。すなわち、1980年前後には組合員の「組合無関心」をどうするかという議論がかなり明確に登場した。

 その前から、わたしたちのチームは、すでに賃上げ闘争中心の組合活動は花形商品ではなくなっていると分析していた。つまり、新しい花形商品(組合活動モデル)を開発するべきだという提言まではおこなっていた。ただし、頭の回転の悪さはいかんともしがたく、現状批判はできたのだが、次なる組合運動モデルの構築というところまで「脳力」が及ばなかったのである。

 1つの突破口として、「参加の民主主義」論を掲げていた。少なくとも、賃上げに関する組合員の従来の関心が減退しているのだから、では、いったいどんな課題に組合員の関心があるのか。それを探ろうじゃないか。アンケート調査みたいなものではあかん。肉声を引き出さねばならない。

 たまたま、わたしたちはわが国最初と大評判になった「人生設計セミナー」を組織全体で大々的に展開していた。そこでは40歳以上組合員を中心に、自分たちの生活を中心とした意見交換が、まことに愉快に賑々しくおこなわれていたのである。賃上げの職場集会は停滞化傾向にあったが、こちらは破竹の勢いで、10年弱の間に、全組合員5万人のうち1万人近くがセミナーを受講して、受講後はかなりのサークル活動が組織されていた。

 人生設計セミナーでは、哲学といえば大上段に思われるかもしれないが、実際、単に経済設計のみならず、「いかに生きるべきか」というテーマを受講者の皆さんが熱心に論議しておられたのである。だから、わたしの1つの目論みとしては、これがさらに育てば、その研修の中から新たな組合活動の方向性に辿りつくことができるだろうという大きな期待を抱いていた。

 わたしは、この取り組みを1971年から着手し、1982年に組合役員を退任するまで、とにかく一所懸命やった。手応えありどころか、予想もできないほど大きく育ったのは痛快この上ない悦びだった。

 これは他組合でも大いに展開された。さらには会社側が採用するところもかなり多く、まさに「労働」世界に一大進歩の時代がくるのではないかと、密やかに心躍らせていたのである。(ついでながら、これがもっと世間的に浸透していれば目下のように訳の分からぬ「働き方改革」も、その前のワーク・ライフ・バランスも出番がなかったと思う)

 ところが、これが減速し細くなったのは、バブル経済とバブル崩壊後の産業界的事情である。つまりは、前者はバブルで小金持ち気分に幻惑され、後者は一気に経済的不安に取り込まれた。要するに、哲学なんてやっていられないという次第であったろう。

 しかしである。その後も働く方々は経済的不安、生活不安定を克服できたとはいえない。それどころか、格差は拡大し、社会的にビンボー感覚が支配しているといっても過言ではなかろう。にもかかわらず、かつて隆盛を誇ったようには、組合の労働条件向上の活動が活発化しないのである。これは、どう考えても不思議である。

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 いささか話を広げてみたい。人間が地球上に登場して以来、人々は採取生活で生きていたはずである。採取生活においては、概ね各人個別の暮らしである。たとえば、キノコ採りを考えてみればよろしい。自分がたくさんキノコを採った自慢はするが決して場所を教えない。さて、1万2千年前に農耕が開始したとされる。こちらは集団で取り組む方が上策である。

 農耕開始以来、世界中で集団が組織され、ムラへ発展し、やがては国家へという流れを辿ったに違いない。原点に戻って考えると、最初人々は「わしがムラだ」という意識であっただろう。ところが、歴史が流れ、組織・社会が発展するにつれて組織・社会が「1人歩き」するようになる。この流れを変えようというのが、わたしの「参加の民主主義」論への期待である。

「初めに組織ありき」と置く限り、現状は変わらない。現状とは、組織離れだとかApathy(無関心)といわれるものである。

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 こんなことを考えつつ旅をしていて、束の間の気分転換に広島の比較的大きな書店に入った。『小説の技法』(ミラン・クンデラ 1929生 岩波文庫)を見つけた。その中に「評判の悪いセルバンテスの遺産」(1983)があった。

 簡単に要約する。

 ――古代ギリシャ哲学以来、欧米へ「ヨーロッパ的」なる精神的同一性が広がったが、ガリレイ(1564~1642)、デカルト(1596~1650)以来、世界を技術・数学的探究の単なる1対象に還元した結果、人生の具体的世界(日常生活)が軽んじられてしまった。(引用 フッサール 1859~1938)

 さらに、諸科学が発展し専門化が深化する中で、人々は世界全体も自分自身も見失っていった。これを「存在忘却」と呼んだ。(引用 ハイデガー 1889~1976)

 その流れにおいて、現実の「生活世界」こそが大切なのに、その価値も面白みも顧みられなくなってしまった。――

 そのような状況において、

 ――「存在忘却」から抜けて、「生活世界」に絶え間なく光を当てることが大切である。――

 組織離れやApathyの人々は、あたかも自分の生活に耽溺しているように理解されているが、果たして本当にそうなのだろうか。「明日にも自分たちの人生を吹き飛ばしてしまうかもしれない戦争にいささかの疑念も抱かないとすれば、未来とは何なのか?」(クンデラ)

 よくよく考えてみれば組織離れやApathyは、実は自分自身の人生離れ、自分自身に対するApathyではないのか!?

 「評判の悪いセルバンテスの遺産」は、わたしが独立した翌年の原稿である。わたしが追いかけた「人生設計」と同根ではないか。目下、旅の疲れでだいぶへろへろよたよたしているのであるが、たまたま手にした1冊の文庫が心地よい応援歌を奏でてくれたみたいな心地がして、こんな原稿を書いたのである。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人