月刊ライフビジョン | 論 壇

「官制」で働き方改革ができるものか

奥井禮喜

官制働き方改革に関心なし!

 来年1月開催予定の第196通常国会で、いわゆる「働き方改革」関連法案が提出される見込みである。

 過日わたしは、たまたま「働き方の改革について考える」というテーマで講演した。冒頭、「皆さまの職場組合員の方々は報道される『働き方改革』に関心をもっていると思いますか?」と質問してみた。ざっと120名の組合リーダーがおられたが、ややあって、関心ありの挙手はゼロであった。

 予想していたので、格別驚かなかったけれど、この結果は喜ばしくはない。なぜなら、「働き方」という言葉の主人公は組合員自身である。いかなる内容であるかを知らなければ、賛成も反対もできない。

 お上のやることは間違いないから全面的にお任せするという人ばかりではなかろう。とすれば、いまの政府がやることだから、どうせろくなものではないとか、不満があるが野党が少数だから仕方がないと考えているのかもしれない。しかし、「異議あり」なのであれば関心があるはずだ。と考えれば、賛成でも反対でもない。全面的に無関心だということになる。

法案の問題意識を考える

 全面的に無関心であるという前提で考えると、数で与党が圧しているから法案を成立させることは十分に可能である。ただし、「働き方」という根幹の問題に関して、働く主人公が無関心であることに注目すれば、法律を作ればそれでよろしいというわけにはいかない。否、作っても意味がない。

 というのは、法案を作ったのは政府・財界の意を受けた官僚と学者だと思うが、この法案を作成するに至った問題意識が次の文脈だからである。

 ――(人口問題を抱えた日本経済に対する産業界の現状について)イノベーションの欠如による生産性低迷、革新的技術に対する投資不足――を指摘しつつ、日本経済の再生を実現するために全面的に! 「働き方」に期待し依存しているからである。

 イノベーションの欠如や革新的技術に対する投資不足、いわんや、2016年度の企業の内部留保が406兆円・現金預金210兆円も溜め込んでいるにもかかわらず、然るべく戦略的投資をしない(できない)経営者能力にこそ最大の問題があると、わたしは考えている。経営者には前科! がある。

 バブル崩壊後の1990年代後半に、経営者は、バブル崩壊、およびその後の経営がうまく捗らない責任を、挙げて「employee-ability(雇用される能力)」すなわち働く人々に押し付けた。終身雇用がいかん。年功序列がいかん。それらによって働く人々が惰眠を貪っているから会社が立ち行かないとした。そこで、大量の人員を整理し、成果主義を導入して今日に至ったのである。

 「役立たず」と烙印を押された人々が去り、会社の苦境を救った。残った人々は成果主義で社内競争に煽り立てられた。で、成果主義が成果を上げたのかというと、いまや成果主義自体がボロクソいわれている。

 そもそもバブル経済で経営の箍(たが)を外したのは働く人々ではない。まさに経営者自身の責任である。バブル崩壊後、責任を追及されるべきは経営者であり、すなわちemploy-ability(雇用する能力)こそが問われねばならなかった。いうならば、経営者は企業の官僚体制にアグラをかいて、責任を下部の働く人々に押し付けて好き放題やってきた。

 そして、いままた、経営者自身の舵取りに対する真剣真摯な反省もなく、日本経済の再生! を働く人々に責任転嫁しようとする。確かに、上意下達の古い体質の企業体制であるから、責任の押し付けは可能である。

 しかし、働く人々が「働き方」に問題認識をもたず、「ああ、そうですか」という態度をとっている事実を、政府も経営者も官僚も学者もまるでわかっていないのではないのか!

企業不祥事は他人事か?

 有名企業の相次ぐ不祥事をも他人事としてしか見ていないだろう。企業不祥事問題は、たまたま、それらの企業だけの問題として看過できるだろうか?

 経営者とて「ヒヤリ・ハット」くらいは聞いたことがあろう。たとえば、「ハインリッヒ(1886~1962)の法則」がある。いわく、重大事故の陰に29倍の軽度の事故があり、さらに300倍のニアミスがあるとする。

 不祥事と事故はもちろん異なる。不祥事は明らかによろしくない意志が働いている。事故はしたくてするものではない。しかし、不祥事にせよ、事故にせよ、直接当事者だけが突然意表を突いて行動するのではない。そこには、組織の文化・風土というものがあり、不祥事や事故が発生しやすい雰囲気が知らずしらず形成されているものである。

 経営者が、たまたま理論的に優れた経営センスを備えているとしても、それを働く人々が共有するためには、並々ならぬ組織作りが必要である。優れた理論によって、正しいものは正しく、間違いは間違いであると整理できる。ただし、実際の現場が理論通りに動いていないのは誰もが知っている。

 衆目が羨むような有名企業において不祥事が発生しているとすれば、圧倒的多数の企業は不祥事予備軍だと考えるのが常識だ。その程度の常識をもたず、のほほんと経営者しているとすれば、産業界の発展など望むべくもない。

 企業経営というものは、人事制度を完備すれば事足れりではない。立派な憲法があるにもかかわらず、首相が率先して憲法違反をやる。町では危険だとわかっていても道路交通法を遵守しない人が少なくないから事故が多発する。法律にせよ、企業内制度にせよ、みんなが納得してそれを実現しようと考えなければ無意味であり、時間と手間をかけるだけバカバカしい。

50年前の働き方を振り返る

 わたしが働く職場に飛び込んだ当時の労働者に向かって「働き方の改革」という言葉を提示すれば、どのような反応があったか考えてみた。

 仕事に一家言もつ労働者が少なくなかった。とりわけ現場労働者は威勢がよかった。器用に仕事をこなす。仕事が早い。トロイ仕事は要領が悪いからだ。理屈をこねる前にてきぱき動く、個人もチームも機動力があった。

 1990年代半ば以降、人事制度面では、終身雇用の考え方や年功序列が槍玉に上がったが、そもそも人事制度をつつく連中が、人事とはいかなるものか、その前提として「人」をきちんとみつめていたかどうか、決定的に怪しい。いまも、現場をほとんど知らない連中が人事マンをやっている可能性大だ。

 年功序列というものは、なるほど制度は馬齢を重ねても処遇が上昇するようにできている。しかし、年功序列制度が立派に機能していた時代には、馬齢を重ねたから処遇が上がったのではなくて、みんなが年功を積んだのである。すなわち、「年功=年季=苦心+修業+揉まれる」のであって、年功は単なる年の功ではなく人間的に仕事師的に進化していたのである。

 松下幸之助氏(1894~1989)が「製品を作る前に人を作る」と語った。これは松下氏の専売特許ではなく、真っ当な経営者であれば誰でもこのように考えていた。技術・技能というものは一朝一夕に身に着けられるものではない。本人がその気であっても、自分がやりたいようにはやれない。後で考えれば、なんだ! そうだったのかと気づくが、本当の一人前になるには年季が必要だ。

 だから多くの経営者が「当社は人を大事にする」と語っていた。これ、人道主義をかざしていたのではない。人によって会社が成り立っていることを骨身にしみて認識しているから、「人が育つ・組織が育つ」ためには、人を大事にしなければならないことを肝に銘じていた。

 いかなる仕事でも「下拵え」「段取り」「手配」が必要である。理屈はすぐわかるけれども、現実の仕事においてテキパキやれるようになるのは容易でない。だから「仕事は盗め」といわれた。これ、教えるのが面倒だとか、教えたら自分が損するとか、ケチな考えの人もいないではないが、意味は、単にベテランの真似をするだけではなく、「自分でよくよく考えて身につけよ」というにある。

 真似するだけであれば先輩を凌げない。各人が、先輩(従来のやり方)を凌駕することが積み重なって職場の仕事能力は向上したのである。そうでなければいかに科学技術が発達しても企業が発展することにはつながらない。

 いかに立派な設計図面を描いたとしても、工作技術・技能が開発され進化しなければ製品にはできない。1人が優秀でも、それだけでは大きな仕事ができない。昨今、自分が働きたいように働くと啖呵を切って、学校を出れば直ぐ独り立ちを夢見るようだが、志は壮としても、ほとんどの人はささやかな個人商店で終わるのがオチだ。学校だけでは修業にならない。

 大企業に入っても仕事を個人商店的にやるだけであればほとんど意味はない。大企業で働く意義は、大きな事業がやれるという意義を徹底的に認識することにこそある。すなわち、衆知を集めて活動するときに大きな仕事が達成できるのである。チームワークやリーダーシップを1人ひとりが、目的意識的に涵養しなければならないし、それなくして組織は育たない。

 寄らば大樹の陰であるとか、目立たない・匂わないことこそ勤め人的サバイバル技術などと考えているのであれば、まあ、本人はともかく、会社として隆盛するなんてことは不可能である。

 官制「働き方改革」においては、長時間労働をなくそうという意欲のカケラも見られない。そこに提案されているのは単に現状追認の弥縫策である。おまけに「労働者が長時間労働をやりたがっている」という話がまことしやかに流されているのが腹立たしくもあり情けない。

 かつては断然低賃金だった。春闘で、経営側が「儲かっていないから出せない」と業績不振をアナウンスする。労働者諸君は応ずる。「ちょっと待て。こちとら1年間低賃金で汗水たらしてきたんだ!」というわけだ。一所懸命働いてきたのに、儲からないから我慢せよといわれる筋合いはない。

 そもそも生活のために残業しなければならないのは、低賃金だからである。低賃金を我慢して生活残業するのは、自分の生活を壊すのであるから、誰も好んでやろうとはしない。まして長時間労働は、真に飛び込みの仕事だとか、事故だとか、厄介な仕事で納期切迫したときであって、そんなことが年がら年中続いているのではないし、続けなかった。

 立派な! 低賃金時代、やっと待望のガールフレンドができた。さあ、デートだと張り切っているところへ残業命令が出て、頭から湯気を出している若い仲間を懐かしく思い出す。

 残業で「稼ぐ」のではない。自分の仕事価値を1年1度の賃上げに交渉にぶつける。そもそも賃上げできないような事情のある会社が、なにゆえ長時間労働で膨大な残業代を支払うのか。「定時間内で仕事を終えるにはどうするか」、これを関係者寄り集まって相談するのが「働き方改革」にふさわしい。

 そもそも、組合は「働き方の改革」をするために作られた組織である。働かせていただくのではない。自信をもって働くのである。プロは自分の仕事に誇りと責任をもって働く。それを保証する制度をこそめざさねばならない。組合それぞれが大議論を開始していただきたい。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人