月刊ライフビジョン | 論 壇

職業と元気について

奥井禮喜

 日本経済の元気が出ない。まあ、半世紀前に比べれば全体のパイが大きくなっているから、それなりに鎮座ましますように思うし、日常的に元気喪失を続けているのであまり気がつかないかもしれないが、1990年代からの退潮は覆うべくもない。(実は1980年代からであるが後に述べる)

 このような場合、概して他国の隆盛がシャクの種になるとか、妙に内向きになりやすい。いわく、ジェラシーが氾濫する社会になる。わたしは、これを周囲の状況に左右される相対元気と呼んでいる。

 本当の元気は相対ではなく絶対元気であるべきだ。他所をうらやましく感じ、妬ましく思っても、自分の元気が出せるわけではない。最近のヒステリックな防衛論議の一面は、日本経済の相対元気=非元気の心理的影響が少なくない。これは同時に、自分自身を客観視できない弱い気風・雰囲気の反映でもある。

日本経済の実相

 2022年12月末の国債発行残高は、1,005兆7,772億円、その半分を日銀が保有する。政府の借金総額は1,256兆9,992億円である。

 一方、企業の内部留保は791兆円で大金持ちだが、わが国の経済活力は退潮・沈滞そのものだ。産業界は投資が不活発。おカネだけ蓄えて、投資をしないのは金貸し的経済、江戸時代みたいなものだ。堅実に溜め込んでいても、投資しないのだから、日本経済が活性化するわけはない。

 経済大国というが、円が非常に安くなっている。経済大国の通貨は高くなるものだ。円安で稼いだようにみえても購買力が大きく低下しているから実は貧乏が進んでいる。グローバル企業は儲けても、中小企業や家計は円安のデメリットが直撃する。しかも、財政規律という言葉自体が本気で顧みられない。

 政治も経済も弛緩し堕落している。堕落していることがわからず、国防論で騒動する。国の安全保障を語るならば、まず、国力をきちっと整備せねばならない。厳格にいえば、国力を無視して国防を語るときは戦争事態である。本論は国防論議をするのではないからこの問題は横へ置く。

個人と社会

 元気な社会をめざすために、必要なことは局面転換である。とはいうものの、一発逆転の方法があるわけはない。ところで、社会のものごとが円転滑脱に動かないのは、個人と社会の関係に齟齬(そご)をきたしている。その原因に光を当てれば、事態解決への多少の手がかりがあろう。

 個人と社会という問題のカテゴリーはきわめて抽象的で、大きなテーマである。しかし、これを全然無視したのでは、社会が健全に動いているのかどうか分析できない。さらにいえば、このカテゴリーに対する無関心の集積が、現在の元気喪失状態を作り出しているとも考えられる。

職業とはなにか

 個人と社会について整理して、次の3つに集約する。

 1)生産なき社会は成立しない、2)個人は社会を離れては生きられない、3)あらゆる職業が社会=人々の生活に貢献する。

 現代社会は、巨大かつ複雑である。社会が円滑に持続するためには経済が安定しなければならないし、そのためには生産活動が安定する必要がある。

 つぎに、個人はその社会を離れては生活できない。自立というが、それは社会に生きることを前提としている。ボクは自由にしたいから、ほっといてくれと考える人は少なくないかもしれないが、他者の余計な支配介入を拒絶するとしても、社会生活抜きに1人では生きられない。まったく自給自足できる人はゼロではなくても決定的少数派である。

 かくして、あらゆる職業が社会=人々の生活に貢献する。逆にいえば社会に存在するすべての仕事が社会という人間の網の目を維持する基盤である。

 そこで職業を次のように定義する。

 ――職業とは、社会的生産を各人が日常的に分担することである。――

個人の元気と景気

 さて、職業には、経済的価値があり、社会的評価があり、個人としての満足(不満足)がかかわってくる。本論では、仕事に対する個人としての満足に絞って考える。なぜかといえば、社会の元気は個人の元気の総和だからである。

 経済が活況だと個人が元気で、不況だと非元気だと考えやすいが。そうではない。好不況と個人の元気は単純比例関係ではない。理由の1つは、好不況は個人の活動が生み出した結果であって、元気の原因ではない。もう1つは、好不況という状況と、個人の意識の間に時間差がある。

 典型的な事例が、1970年代と1980年代である。

 70年代は、ニクソンショックに始まり、石油ショックに見舞われ、日本経済は大混乱した。石油価格の高騰に対して、省エネルギー・省資源対策を追求して、知恵を出し、汗をかいた。併せて、公害対策も一挙に進んだ。石油ショックを非常にうまく克服したとして自他共に認めたものであった。

 80年代はバブル経済に突っ込んだ。いわば日本経済始まって以来の活況であった。日本企業がニューヨークのエンパイア・ステートビルを買ったとか、1粒2,000円のサクランボが販売後短時間に売り切れたとか、景気のよい話がたくさん飛び出した。

 さて、人々の元気という視点を当てれば、70年代の職場はおおいに活発であった。誰もがよく考え、よくしゃべり、問題克服に向かって尽力した。わたしの職業人生では、もっともリーダーシップ、コミュニケーション、チームワークが高まった時期として印象深い。

 80年代は史上最高の好況だから、平社員まで会社のタクシーチケットが回ってきたりもしたが、さて、当時の職場が活力を示したという話の記憶がない。後半になると、「豊かさ・ゆとりが感じられない」「小銭をもっても少しもリッチじゃない」という。海外旅行から帰った人々が、豊かではないが途上国の人々はすごく元気で、帰国したらドロンとした雰囲気に驚いたと語ったものである。

 歴史的に考えると、明治文明開化から「欧米に追い付き追い越せ」でやってきて、70年代後半には上位に肩を並べたが、さて、そこから「どこへ、どのようにして進むか」という問題意識・気風が巻き起こらなかった。

 たとえば、IBM大型コンピューターのコンパチブル路線真っただ中であり、やがてダウンサイジング、小型化路線に転換した際には、明らかに意表を突かれて戸惑った。コンピューターの小型化という視点がなかった。

 60年代後半から半導体製造が開始したが、いわば部品としての半導体を作ることにのみ熱が上がる。半導体をどのように使うかというシーズやニーズが後からついてくる。携帯開発も遅れを取った。いわば、ポケットに入る電話を作ろうという発想がなかった。1960年代には、テレビを小型化して話題を招いたのであるが。

 こんにちの日本経済の低迷(後退)は、1990年代のバブル崩壊からではない。よく考えれば、実は1980年代に、経済大国というようになったとき以来、生産現場から活気が失われていた。

 つまり日本経済は、すでに「失われた40年」を超えている。これは半端ではない。敗戦後から1980年代バブルまでの期間に相当する。よほど性根を入れて立ち向かわなければ、お日さまは上らないであろう。

個人の元気の中身

 職業生活における個人の元気の中身はなんだろうか。

 まず考えられるのは、仕事を通じてジーニアス(genius)、つまり自分の天分・能力、いわゆる個性を発揮できるかどうか。仕事が自分に向いているのか、自分が仕事に向いているのかはともかく、両者の相性がいいのである。

 適材適所という言葉は昔からなじみ深いが、これがなかなか実現しない。進んだ生産管理の考え方としては、さらに進んで適職開発という概念もあった。これは、仕事に人を合わせるのではなく、人の個性にふさわしい仕事を開発しようというのである。これは1970年代後半の考え方である。

 もちろん、そんな大層なところに企業の発想が及んではいない。2000年代の小泉内閣時代から、非正規従業員がジャンジャン増えた。安かろうが、きつかろうが、なんとしても働かねば食べられない人々が増やされたのである。

 逆にいえば、人を大切にしない。適材適所の思想などどこ吹く風だ。まして、適職開発の考え方など出る幕がない。つまり、働く人のジーニアスなどまったく考えていないのと同じである。

 もう1つは、仕事に対して本人の構え方が積極的か消極的かという面である。

 動物は生来エネルギーの消耗を嫌う。人間も動物であるから、エネルギー消耗を歓迎しないと考えるべきだろう。

 ところで、人は自分の好むことについては積極的にエネルギーを投入する。だからといって疲れ果てて嫌な気分になるのではなく、疲労自体が心地よい。手近なところでは、いわゆる遊びがそれである。ただし、遊びだから積極的に打ち込むのではない。

 少し考えてみると遊びと仕事はかなり共通している。わたしは、本来、遊びと仕事の区分をすることに意味を感じない。

 たとえば、永年仕事以外には無趣味で過ごしてきたOBが、友だちに勧められてゴルフを始めた。しかし、もう1つ気が乗らない。友だちへの義理で無理してゴルフをするならば、遊ぶどころか負担感に耐えねばならない。

 仕事も遊びも好きでやる人がいるし、遊びにはからっきし無関心だが、仕事となると夢中でやる人もいる。また、仕事には精彩を欠くが、遊ぶときは非常に輝く人がいる。

職業の3段階

 前述のような事情を加味して、職業がどう認識されているか考える。そうすると、

 a)生活の糧を獲得

 b)個性を発揮

 c)社会参加の認識

 以上の3段階があることに気づく。

 a)は、生活のために働くのだから当然である。b)は、個性を発揮できる仕事かそうでないかは、本人の士気におおいに影響する。仕事に対する意識調査をすると、a)b)はいずれも大きい数字である。

 c)は、抽象的であるが、自分が仕事を通じて社会に参加していると考えられるならば、たしかにa)b)よりも、さらに士気が高いであろう。

 もちろん、人それぞれだから、どれであっても仕事に対する士気を形成するだろうが、それぞれの内容の性質からすると、やはりa)からb)、b)からc)へシフトするほど精神的充実度が高い。

 社会心理学の欲求説でいえば、a)は生存欲求、b)は成長欲求、c)は自己実現欲求である。c)がもっとも個人と社会のすぐれた意識関係を示す。

 そこで、これを職業の3段階として、位置づける。

 a)生活の糧を獲得 labor段階

 b)個性を発揮   work段階

 c)社会参加の認識 action

 かくして、仕事の3段階を、labor・work・actionと呼び、actionが、個人と社会にふさわしい段階とする。

 これが前述した――職業とは、社会的生産を各人が日常的に分担することである。――という仮説と合致する。

 さて、結論である。これまた仮説ではあるが、a)に依拠する人が多い社会と、c)に依拠する人が多い社会では、やはりc)が活気のある社会だといえるだろう。そこで、働く人々がa)から出発したとしても、c)をめざしているかどうか。あるいは、とてもc)をめざす気分にはなられないとすれば、個人と社会の関係が好ましくない妨害をたくさん抱えていることを意味すると考える。

 action段階をめざす人が多くなれば社会は活気を取り戻すだろう。

 わたしが印象に残る技術者は、社内でトップクラスの能力を発揮していた。わたしが、歴史に残る製品を開発した同氏を称賛したとき、氏は、「たしかに設計したのはわたしだが、1人ではあの製品は絶対できなかった」ときっぱりした言葉で話された。個人と社会、職業の社会性が的確に表現されていると思う。


 ◆ 奥井禮喜 有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人