月刊ライフビジョン | 論 壇

労組は政治から逃げてはいけない

奥井禮喜

人間らしく生きたい!

 ――人間として生を享けたのだから、人間らしく生きたい――

  西欧近代精神では、「人間である限り生物的要求のみに生きたくない」というのが常識である。生物は、食べて、動いて、眠って、成長して、増殖する。生物の基本的属性は増殖にありという。

 しかし、子孫を残せば人間らしく生きたという証明になるわけでもない。

 やや漫画チックな表現をすると、人間は3つの欲=「食欲・性欲・権力欲」に強くとらわれる生き物である。ところで、食欲・性欲は生物学的だが、権力は人間社会独特の価値観である。

 権力者と庶民を対置してみる。権力者の価値観は権力奪取にあり、庶民は権力に対して恬淡としている。権力に魅せられる人は、諸事万端すべからく権力獲得のためにあると思うようになる。

 権力志向性の強い人は、常に自分が保有する権力を増やすことに余念がない。これでお仕舞という頂点がないから、たまたま最高権力者になったとしてもおちおち眠っていられない。だから、いつ腹痛が発生してもおかしくない。

 権力に対して、関係者間の力は見事にゼロサム(zero-sum)ゲームである。各プレイヤーの利得の和はゼロである。社会における権力の総体は拡大しない。経済成長が停止して、誰かの取り分が増えれば他の人の取り分は減るのと似ている。すなわち権力はゼロサム社会でもある。

自由と平等

 フランス革命的デモクラシーの旗幟は「自由・平等・博愛」である。真に平等が達成された社会においては、理屈上権力は存在しない。なぜなら、1人は万人であり、万人は1人である関係だからだ。

 ただし、これは極めてユートピア的である。社会の構成員が納得づく平等社会をめざすのと、自分の自由を求めるのといずれに傾斜しやすいかといえば、どうしても後者になりやすい。

 「自由か平等か」という論争テーマは、換言すれば権力に対する態度の哲学的論争である。だから権力者や権力的志向性の強い人は平等という言葉を嫌う傾向にある。

 昔、社会党が健在だった当時、社会党は平等を押し出し、一方の自民党は自由を大いに吹聴した。自由放任は結局、強者=権力絶対思想に向かう。デモクラシーは権力が国民を恣意的に扱わないように憲法で権力(為政者)を縛るのであって、この点、社会党のほうが自民党よりも「デモクラシーとはなんたるか」を体現していた。

 普通の庶民が自由と平等のいずれに親近感を抱くであろうか? 客観的には平等に惹きつけられそうなものだが、そうではない。なんとなれば社会全体の人々関係よりも、自分1人の自由度拡大のほうが身近に感じられるからである。

 「ボクは自由にやりたいんや、ほっといてんか!」という類である。然り、これは子ども的考え方である。平等に自由度が少ない境遇だから、なおさら少ない自由の拡張に憧れる。いわばアイロニーである。

 圧倒的多数のどんぐりコロコロ諸君が、権力志向性の強い自民党の自由の大安売りに惹きつけられる。理屈上は奇妙な現象である。自分の置かれた境遇を社会的・客観的に理解するためには、ちょっとした勉強が必要なのだ。

 ところで人は誰でも支配欲をもっている。電車の座席で自分の取り分を広げたいというようなものだ。厳密にいうと、支配欲は権力欲と同じではない。支配欲は、鮎が自分の縄張りに他の鮎が入ってくると追い出すのとよく似ている。これは生物学的なものに近く、権力意識とは異なる。

権力と庶民

 権力とは、権力者からすると他人を自分の恣意のままに動かすことである。非権力者からすると、自分がしたいのはA行動であるが、権力によって、したくないB行動をしなくてはならない羽目に追いやられる。だから庶民は意識していなくても権力を嫌っている。(憲法で権力を縛る理由である)

 ある権力を巡って、権力奪取を争う人が多いほど権力は価値が出る。価値が出るから権力奪取した人は強権を掌握する。選挙で棄権する国民が少なくないとしても、全政治家が当選できないなんてことにはならない。政治家なんて、なんぼのもんじゃいと軽蔑しても、国から地方まで政治家に手を挙げる人が尽きないから、それぞれ政治は権力(の正当性)をもつのである。

 この点、組合は自分から手を挙げる人が極めて少ない。だからといって、組合が権力(機構)でないのではない。組合活動が本気になれば、自民党1強政治と対等に勝負できる。労働者諸君が組合の権力をすげえものだと考えないために、目下、まことにもったいない状態を呈している。

危険な政治とアパシー(政治的無関心)

 さて、権力に対応する態度を考えてみよう。

 大きくわけると、権力に対して「忠誠する」(=支持)か「反抗する」(=否認)の2つがある。たとえば、現在の与党の支持者は忠誠側であり、その他は否認するのであるから反抗側に位置している。

 ところがよく考えてみると、「支持vs否認」の2つだけではない。つまり、支持ではないが、積極的に反抗する側につくのでもないという3つ目の立場がある。ノンポリ(non-political 非政治的立場・意識)に近いのであって、政治自体を避けようとしているようだ。

 これを、アパシーと置く。アパシー諸君の最大の特徴は、権力に関わる立場に対して一定の距離を置いている。ただし、本人が権力に関わらないとしても、権力がそれを寛容してくれるわけではない。権力との関係でいえば、本人からは関わらないとしても、権力は遠慮なくあれやこれや押し付けてくる。

 たとえば、いざ鎌倉となれば召集令状がくる。税金は支払わねばならないし、年金・健康保険はどうするのかという問題がある。まったく政治的関係から超脱して生活するわけにはいかないが、ここではとりあえずそれらに触れない。

 なぜアパシーなのか? 直接メシを食うことと関係しない。政治のなんたるかを学んでいない。要求はもっているが、政治的機構が複雑で、なおかつ官僚化しているから手が出せない。自分なんて社会的・政治的になんの力もない。いわば無力感と、それゆえ政治に対する反感をもつのであろう。

 わたしの問題意識からすると、国民の政治的気風は封建社会から継続していると思う。封建社会はざっと760年、デモクラシーはわずか70年余である。人の意識なんてものは、制度が変わっても簡単には変わらない。

 かつて支配者は被支配者に対して「由らしむべし、知らしむべからず」であった。被支配者が政治にコミットしないように、常に権力者は人々を監視し抑圧してきた。そのような事情だから、被支配者からすれば面倒に巻き込まれたくないということに尽きる。その歴史的(精神的)流れがいまも健在なのだ。

 敗戦後、(権力者に)「騙されていた」という恨み節が流行った。戦争に勝つと思わされていたという。では、負けるなら戦争せぬが勝つのであればやるのか! 誰も負けるために戦争しようとは考えない。

 「政治は結果責任」であるという。安倍某や麻生某がしばしば得意気に語るが、これ、正しいであろうか? 敗戦を考えてみる。結果責任論からすれば誰かが責任を取らねばならぬ。

 なるほど戦勝国の裁判によって戦犯として処刑された人が少なくなかった。しかし、それですべての責任が取られたなどと誰も考えない。——戦争でさえ、「政治の責任は誰も取らない」。政治とは極めて危険なものだ!

政治的未熟性

 日本人の政治的未熟現象はメディアの論調を見ても十分にわかる。民主党政権時代の前後にメディアは「決める政治」を高唱した。そして、現在は、安倍政府与党的「決める政治」に対する懸念が増している。

 二大政党論なんてものは噴飯ものである。はじめに二大政党ありきではなく、長年の政治的成熟度が二大政党に収斂するのに過ぎない。未熟な政治を二大政党にしても中身が伴わなければ意味がない。

 デモクラシーは意思決定に時間がかかる。しかし、それこそが価値を生む。人々が自分の考えを伝え、他者の考えを聞き、然るべき結論を導き出す。そのような理性的で知的な作業を繰り返さなければデモクラシーは育たない。

 わが国では「デモクラシーとはなんであるか」の十分な認識がない。財政再建にせよ、持続する社会保障制度にせよ、ちゃらちゃら審議会で検討して結論できるような安直な問題ではない。

 朝日新聞までがしばしば「痛みを感じない改革はない」という大段ビラを振りかざすが、安直でない大課題だから、議会で慎重審議するのである。痛み、というような形容詞的問題に置き換えてはだめだ。

 憲法改正問題にしても然り。昨今は、「平和憲法・民主主義を守れ」論を掲げると、古い思考扱いされる。しかし、第9条の表現をどうするかという文章手続きの前に、日本がめざす平和主義というものの中味の議論が1つもない。軍備で平和が作られるのかであるか? 本気で考えねばならない。

 北朝鮮が核兵器を開発し、ミサイルを開発した。軍事大国のアメリカが大騒動だ。そもそも核開発をし、核保有こそが国の安全を守るという理屈を生み出したのはアメリカではないか! 北朝鮮はアメリカの教え子である。

 軍事で平和を構築するためには、絶対的な軍事力を確保しなければならない。世界の40%近い軍事予算を使い、世界最大の軍事力をもち、世界中に諜報網を展開しているアメリカにして、世界をアメリカの望む平和状態にできない。軍事力を使えば殺戮と破壊を招く。

大衆こそ権力の主人公なのだ

 政治が職業政治家の専売特許のごとくに考える国民性では、いわば国民の多数派がアパシーでも不思議ではない。古代ローマの剣闘士に例えれば、いかに高額所得者でも奴隷は奴隷である。

 奴隷といわずともアパシーは政治的枠外の存在だ。国民1人ひとりが国を作っている。国はいわば1つの運動体であって、その運動を決定していくのは国民1人ひとりである。これを忘れてはいかん。

 それに気づかないのであれば、日本人が依然として欽定憲法時代、いや、封建社会から続く非政治的生き物でしかないことと等しい。

 わたしは、ポツダム宣言によって生まれた日本の労働組合が思想的に沈滞しきっている状態を心底危ぶむ。なんとなれば目下は、たとえば1970年代当時の組合と比較すると、明らかに労使対等(意識も含む)が後退している。

 労使対等は企業内のことではあるけれども、かつての資本家側の「働かせてやる」・労働者側の「働かせていただく」という関係からすれば、労使間でデモクラシーの階段を一段上ったことであり、それが後退したことは、結局、日本のデモクラシーを後退させる作用を発生させているといわねばならない。

 W・リップマン(1889~1974)は主張した。

 ――市民は政治という危険な仕事を可能な限り最悪の状態で遂行している。この現実を少しでも認識するならば、1日の労働時間の短縮、休暇の延長、工事や事務所の照明・換気・整頓・陽光、(人間の)尊厳を求める運動に弾みがつくことになるだろう。(『世論』)――

 これは1922年の著作である。社会を現実に担っている労働者諸君が、多忙ゆえ! 政治の舞台から逃避して、権力者に善政を期待するというようなアパシーである限り、日本の政治を作っているのはアパシーを悪用する権力者の手に全面的に委ねられる。わたしは、この95年前の忠告が身に沁みる。

 安倍内閣のような低質、乱暴な内閣の登場は、労働運動の停滞化と無関係ではない。労働組合自体(=国民大衆)が巨大なアパシーと化していることを、わたしは深く危惧する。

 自民党が強いのは、結局、権力を志向する人々が集まっているからだ。彼らは本気でデモクラシーを育てる心がけをもたない。「民進党が崖っぷち」などと評論家しても、なにも変えられない。

 自民党以外のデモクラシーを推進しようとする政党の支持率が低いのは、そのまま日本人のデモクラシー意識が低いことと重なっている。それはまた、アパシーの諸君が多いことと同じである。

 思考する——という重荷に耐えられない人々は、アパシーの罠に嵌る。思考する時間を各人が確保しなければならない。「猫に小判、日本人にデモクラシー」というアイロニー状態と真剣に対峙していかねばならない。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、

OnLineJournalライフビジョン発行人

月刊ライフビジョン | ヘッドライン2017年7月1日号「不安でアパシーしてられない」