月刊ライフビジョン | 論 壇

参議院議員選挙を予想する視点

奥井禮喜
国民諸氏の大きな寛容

 コロナ感染問題が相変わらず安心できる段階に至らない。日本の場合、感染防止対策の不十分さを批判する気風が収まっているが、問題解決の目途が立ったからではない。専門家といわれる方々がしかるべき力量をお持ちでなく、この間、科学的知見が前進した面が見られない。ギャンブルの予想屋と本質的に違うだろうか。行政はもちろん右往左往するのみで、「まあ、こんなものだ」という諦めと、3年に及んで感染に対する意識が日常化しただけである。

 2020年感染発生以来の全検証をおこない、6月に司令塔を構築するというのは岸田氏の総裁選以来の公約だ。これが全然いい加減で、箸にも棒にもかからない事態になっていることを、野党もジャーナリズムも、なぜきっちり追及しないのか。

 全国的に弛緩している。菅首相を辞任に追い込んだ人々の不安・不満は、ここへきて反転、不安・不満を持つからイライラするのであり、イライラしないほうが精神衛生上よろしいというわけか、おおいに寛容(日本的まあまあ主義)を発揮している。岸田氏の支持率がかたじけない状態になっているのは、仕事ぶりからすれば、まったくナンセンスの極み、くわえて政界においては意識が緩みっぱなしというしかない。参議院議員選挙は政治的緊張感を失っていることにくわえて、国会の論議に聞き耳立てるものがないから、いわゆる思想的・政策的論点が生まれず、史上最低の選挙戦になりそうな予感がある。

安全保障の名に値しない論議

 ウクライナ戦争は、開始3か月を経て長期化の見通しだ。アメリカとウクライナの軍当局者が、高性能武器(たとえば自走多連装ロケットシステム M142)の供与について協議をしているそうだ。高性能で射程距離が長い武器を供与して使用した場合、ロシア国土内へも飛翔する可能性がある。戦争がエスカレーションしかねない。素人にもわかる理屈であるが、どうやら高性能武器を供与するらしい。

 強力な武器ほど敵側に対して大きなダメージを与えられるが、通常兵器において一挙決着はありえない。本来、防衛のための武力であるが、それが戦争拡大を引き出す効果を持つのであれば、現実は建前とまったく異なる。

 至極当然である。戦争技術においても、各国が保有する軍備の性能は似たり寄ったり。A国の業者が販売する兵器を、B国もC国もD国も購入しているのだから、あとは数の多寡が異なるだけだ。

 かつて軍需製品を販売するのは死の商人だと指弾された。最近、そのような声が聞こえないどころか、ウクライナへの武器供与は正義の支援であり、誇らしいらしい。たまたま、ウクライナはロシアの理不尽な戦争に対して防衛するのだから正義と置くにしても、武器・軍備なるものの効能を考えると、論理的に心穏やかではない。

 戦争が開始する前は、理不尽な敵の攻撃から自国を防衛するのが軍事力の狙いとされる。積極的平和主義という軍事力礼賛論があった。正確なところはこうだ。敵が攻め入ってこない間は、――敵がわが方の防衛力に恐れ入っていなくても――恐れ入っているという理屈がまことしやかに通用するだけだ。

 しかし、一旦戦端が開かれたならば、交戦国のいずれかが降参するまで戦争が継続する。この時点で考えると、防衛力と言おうが、軍事力と言おうが、武器は戦争を拡大するものである。つまり、軍事力で平和を作ることは論理的に不可能だということがわかる。もちろん、両軍死力を尽くして戦いが終わったあとは平和が訪れる。これを墓場の平和と言うのである。

 野党は、「着実な安全保障」という中身不明の看板を掲げるが、軍事力そのものによる安全保障は、戦争が発生するまでの話であって、戦争発生すればボカスカやるのみである。いま、ウクライナとロシアの戦争を見ながら、防衛力にGDPの2%を投じたからといって、着実な安全保障になるわけがない。

 おおかたの人々は、自分が巻き込まれる戦争など夢にも考えていない。実際、きわめて不安定な事態に置かれていたにもかかわらず、ウクライナの人々も、まさか自分が銃を手にして戦闘に参加することになると考えていた人は多くはなかった。国会議員は、ウクライナ戦争の原因をきちんと分析して、今後に備えるべきである。

 ところが、政治家諸君は一足飛びで、防衛力増強によって、国民の安全を保障すると喧伝する。それは戦争が発生しないから言えるだけの話で、実際開戦した場合に、自衛隊のみなさまにお任せしておけば大丈夫という話にはならない。目下の防衛力増強説は、きわめて主観的、かつ楽観的な物語上にあって、国民のみなさまにご安心くださいと言うのは、空手形にすぎない。

 とすれば、国会で議論するべきは、いったい、わが国の安全保障環境がどうなっているのか。万が一にも戦端が開かれるケースがあるとすれば、その原因はなになのか。つまり、防衛力を増強せねばならない核心的本質を国民すべてに理解していただくための国会論議が必要である。

 おそらく、防衛力そのものの在り方や増強については、防衛官僚が得意とするだろう。ただし、なぜ防衛力を増強せねばならないのか。「なぜ」に関しては、防衛官僚次元の問題ではなく、国民レベル、すなわち国会で堂々たる議論が展開されねばならない。ところが、目下の国会では、それらしい論議は1つもない。「なぜ」は放置して、防衛の技術論に走っているのみだ。

 国民・国家の安全保障というのであれば、防衛技術の以前に、安全保障戦略を明快にしなければならない。見るところ安全保障戦略は、全部まとめて日米同盟論に吸収されている。つまり、アメリカが調査し、分析し、戦略を構築した内容に従うというわけだ。クアッドやIPEFで、日本が自己主張を始めたという見方があるが、自己主張というより、使い走りの拡声器に見える。

 そこで考えなければならない。アメリカは本当に世界の平和を推進する崇高な考えを持った国なのか。たとえば、アメリカはいかなる平和を実現するつもりなのか。歴史的にアメリカ自身が、「アメリカ第一」に向かって軍事力を優先した外交を構築している。アメリカの軍事政策が、自国陣営の安全保障だけに突っ走り、そのためには、世界平和やどこかの国を犠牲にしても構わないという政策だという見方を捨てきれない。いわゆる砲艦外交、力の外交論である。

「なぜ」を考えなければ――

 わが国の外交論議をみると、1970年代はじめまでは、国会論議はかなり緊張感があった。社会党は平和主義を自前で発展させ得なかったから限りなく小さくなったのだが、少なくとも、日米同盟論に人々が沈没しないように論陣を張った。いま、そのような政党はない。これは進歩にあらず、後退だ。

 戦争体験がない市民1人ひとりも、それなりに問題意識を持続していた。敗戦から77年、戦争世代は1人去り、2人去り、残るのは本当に少数派だ。平和の空気を吸って育った人々が戦争を知らないのは当然だが、まるで論外のようなオツム状態であるのはよろしくない。

 たとえば、新聞にはときどき「語り部」の戦争体験談を聞いたとか、聞こうという主張が登場する。しかし、率直に言って戦争体験談は戦争を考える運動にならなかった。なぜなら、戦争は、それ以前の世の中の動きが生み出した結果である。命からがら逃げ惑った戦争体験がいかに迫真であっても、他人事、別世界の話である。結果を聞いただけでは反戦・平和の思想につながらない。

 「なぜ」戦争に突っ込んだのか――戦争を招いた原因を、1人ひとりが自前で模索しなければ体験談を聞いても役には立たない。たびたび指摘することだが、あの15年におよんだ戦争の総括が、この国ではなされなかった。そればかりか、筋違いの国民意識たるプライドを振り回して、戦争のなんたるかを考えないようにする数多の喧伝がなされてきた。ドイツの人々が、ナチの戦争総括を毅然としておこなったことと並べるまでもない。わが国における近代史の無視は国民性としては致命的な欠陥である。

 戦争という大異変について、「なぜ」が無視されるだけではない。たとえば、国会論議をしても、それぞれ実行した事柄の検証・反省がまったくない。それは至る所に顔を出す。安倍氏が恣意的国政をおこない、客観的に真っ黒な汚職をやっても、官僚的答弁技術の積み重ねで遁走する。それまた、寛容な国民の気風によって、追及する方が批判を食らう。

 安倍的北方領土交渉は、なんだったのか。失敗は成功の母であるが、失敗を認めず、検証・総括をやらないのだから、なんら有益な材料を引き出せない。プーチンのウクライナに対する領土的野心、NATOに対する強烈な怨念が、いまにして表に出ている。プーチンとの北方領土交渉と、ウクライナ戦争とはきっちり共通している。その程度のことすら、国会では論議されない。

 このまま参議院議員選挙に向かうだろう。各党の消長がどうのこうのというような話題の、なんと矮小かつ非価値的なことか。日本の舵取りがまるでトンチンカンなままに、選挙戦騒動になるだけである。いまから、史上最低の選挙戦になることが予想される。

 候補者を担いで苦労されるみなさまには申し訳ないが、選挙戦においては、できることなら、大きな政治家としての見識を打ち出すように頑張っていただきたい。


◆ 奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人