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『労働組合が倒産する』から40年

奥井禮喜
出版の問題意識

 40年前1981年7月、拙著『労働組合が倒産する』(総合労働研究所)を上梓した。思い出話の形ではあるが、こんにち、組合活動の手応えがなぜ薄いのかを考える手がかりとしたい。

 1970年代後半に、組合空気論が出た。空気は無ければ生きていけないが、存在を意識しないということの表現だから組合役員としては一大事だ。執行部が春闘への参加を呼びかけても、組合員が以前のように熱くならない。敗戦後30余年、春闘20年の賃上げは組合活動の主力商品、組合といえば春闘・賃上げの印象だから、ことは組合の存在理由と関わる。これがわたしの危機感であった。

 賃上げを主力商品と呼んだのは、あえて経営的発想で刺激を与えたかった。商品にもライフサイクルがある。いつまでも単一商品に依存したのでは危うい。新商品を出さねばならない。しかし、組合活動は通年スケジュールに基づいてほとんど変化がない。新商品が出せないのは、前例踏襲意識が強すぎる。しかも新商品を作る発想自体が存在しない。

 新商品を開発するためには、組合員(顧客)の中へ入らねば、人々が何を考え、求めているのかわからない。そこで、組合役員はセールスマンたれと主張した。「セールスマンは心を売る」。モノを売って儲けるセールスマンの心がけを役員は持ち合わせているか。組合員はいわば組合役員の雇用者である。組合役員は、これがわかっているのか。

 ベテラン役員の多くは、組合員に号令をかけるものだと考えている。献身的に活動していると信じている人ほど、その傾向が強い。民主主義の先陣を切っていたはずの組合が、実は、上意下達の石頭になっている。組合員が参加する民主主義でなくてはいかん。加えて、執行部の官僚化も大きな心配である。

 80年代に入る。組合員の組合無関心が、役員間でしばしば話題になる。組合員のために活動しているのに、それがわからない組合員はモノゴトがわかっていないから、教育して善導せにゃいかんという辺りが本音だ。組合員の無関心自体が重大な意思表示だと考える役員は決定的に少数派であった。

 80年代半ばから、ユニオン・アイデンティティ(UI)に着手した組合が結構あった。しかし、アイデンティティ=存在理由を考えようと勧めるのに、理解していない。その結果、UIは、委員長をチェアマンと呼ぶ、組合旗の赤色を変える、組合歌をポップス調にするという調子で、UIをやりましたというのだから何とも手が付けられない。

 90年代に入ってバブルが弾け、やがて雇用問題が発生すると、てんやわんや。いまの組合役員は、2000年代以降に登場したのだから、いわば、決定的に盛り下がった時代から、バトンをタッチされた。その点、82年までの役員であったわたしとしては、とてもじゃないが、昔はよくやったなどと大口を叩けない。

 組合の推定組織率は、1966年34.2%、これが80年には30.8%に下がった。(いまは、17%以下である。)大方の組合がユニオンショップだから、組織活動に没頭しなくても、企業が順調に事業展開していれば組合員は増える。経済は活況である。ところが4%も減った。

 しかも、活発に活動していると自負していたわたしの組合では、職場集会参加率が、だいたい70%程度であったのに、80年には50%を切ったところが増えた。嫌な感じである。いつも「職場に組合を」と叫んでいるのに、職場集会がパッとしていないのでは、なにをかいわんやだ。

 わたしは大労組役員の1人ではあるが、ヒラ執である。産業別組合における他労組の方々との付き合いの窓口でもない。井の中の蛙ではあるが、たまたま、時代を先駆けて展開した中高年世代対策が大当たりして、内外に高い評価をうけ、組合活動活性化には一家言持っていた。

 号令一下の動員ではなく、組合員が「参加する民主主義」を構築したい。そもそも、敗戦後の組合は、民主主義と一体不離、「組合が育つ・民主主義が育つ」という大衆運動組織でなくてはいかん。当時も、おおいに自民党政治には不満タラタラである。

 組合員が民主主義に開眼せずして、組合の発展はない。日本政治も戦前の系譜を引く政治家・官僚の流れを克服できない。中高年層対策で作りあげた人生設計プログラムには、身近なコミュニティから、社会観、世界観を養うべく企画も盛り込んでいた。上から政治意識を持ちこんでも育たない。1人ひとりが自身の見識を養うという戦略を描いていた。

書評に寄せられた見識

 季刊『労働法』(1981)が、『労働組合が倒産する』の書評を掲載した。掲載順に、日経連専務理事・松崎芳伸(1913~1997)、雇用促進事業団理事長(前労働事務次官)道正邦彦(1919~2016)、総評事務局長・富塚三夫(1929~2016)、松下電器労働組合委員長・高畑敬一(1929~2020)、明治大学教授・栗田健(1931)の皆さまである。

 日経連は財界労務部総本山である。松崎さんはわたしなどまったくご存知ない。松崎さんは、――占領軍が軍隊を解体した。独立国にとって軍隊がないことは堪えがたいが、首相・吉田茂はそれを逆手にとって、日本経済の基盤を築いた。拙著も、従来の発想の枠組みを超えて問題提起している――と、評価された。ヒラ役員が生意気なことを書いたという批判が多かったことを思えば、いわば敵方から塩を送られたみたいなものだ。

 組合の隆盛は、占領軍によってチェック・オフ制度が持ち込まれたお陰である。これなくして、組合は容易に立ち上がらなかった。その財政的負担者(組合員)が、組合に幻滅したとき、どうなるか。チェック・オフのありがたみを失念して、組合員が諸手を挙げて組合役員を支持していると考えるのは大間違いだ。

 これは拙著の指摘を支持されたのだが、組合役員が組合員を見下ろしていることを、松崎さんも組合員の視座から指摘された。組合員の視座こそ、拙著で最も強調したことである。こんにちの組合はいかがだろうか? 

 道正さんは、労働次官から事業団へ移られたばかりである。わたしが作り、旗を振った中高年対策が大ヒットして、『老後悠々』(日経新聞社)を上梓した。それを読まれて、労働省も高齢化問題に本腰入れたい、ついては話を聞きたいと打診があって、少し前にじっくり話し合った。たった1度だが面識ありだ。

 道正さんは、――親方日の丸の役所組織、親方企業的な組合、いずれも「官僚化」の危惧が深い。とりわけ、これが身につまされた。拙著の「中流意識に浸るサラリーマン」の記述に、同感の意を禁じえない。組合は相変わらず飢餓時代のイデオロギーでやっているが、中流意識の時代にそのセンスでは、組合活動が空転するのは当然だ。

 個人の生活と意識にしっかり着目して、活動を構築するべきだ。そこで、拙著では、組合役員はセールスマンたれと強調したのである。実のところ、誇り高く、指導者であると考えているベテラン役員(そうでないのも多かったが)には、セールスマンなどと「格落ち」するような表現は不評であった。比喩が比喩として理解されなかったのは、組合役員が指導者だと思い込んでいるわけで、松崎さんの指摘とも重なる大きな欠点である。

 道正さんは結論として、――組合は、2つの飢餓と取り組むべきだ。1つは、国際的レベルの飢餓問題、もう1つは、組合員の精神的飢餓であると提言された。後者は、拙著を貫く主張であるが、前者にはまったく触れていない。しまった、反省するしかない。弁解すれば、ヒラ役員で単位組合内活動しか体験がないので、そこまで書く実力がなかった。

 松崎さん、道正さんとも、組合に対する視点が、組合員1人ひとりにある。わたしの視座であるから、支持していただいて嬉しい。同時に、当時読んでいただいた組合役員においては、それがなかった。要するに、組合役員は指導者であり、組合員を指導し善導するという気風である。だから、組合員が「参加する」組合ではなく、組合員を「動員」するという発想が支配していた。こんにちの組合においては、いかがであろうか?

 富塚さんは、労働組合総本山の総評事務局長である。価値観の変化、ニーズの多様化のなかで、組合活動が難しくなっていると指摘される。労使間に問題が発生すると、組合の役割・任務が浮上するが、さしたる問題がないときは、「労働組合がなんのためにあるのか」、メリット・デメリット論が湧いて、「組合無用論」すら登場する。――これが、組合員の組合無関心に対する考え方である。

 では、組合サバイバルの道は何か。① 徹底的に組合員を政治活動に参加させる。② 運動の領域を拡大して、文化、スポーツ、婦人、青年の活動を拡大し、多くの労働者を参加させる。③ ドイツのDGBにならって、労働者と家族のための労働者銀行を作り中小銀行と提携して、労働者の利益を守る。(労働金庫はあるが)

 富塚さんも、ぬるま湯につかっているような運動、政府・資本からなめられている現状から脱皮しなければならないと考えておられる。しかし、富塚論には、組合員が、組合無関心という異議申し立てをしていることに対する危機感がまったく登場しない。蛇足ながら、拙著をお読みいただいた上での論なのかどうか、いまだ何度読んでもわからない。

 高畑さんは、15歳先輩である。支部のヒラ役員のわたしが面識を得たとき、高畑さんは、すでに松下電器労組の大委員長であった。昨年亡くなったが、50年間交流させてもらった。高畑さんは、わたしの中高年対策や出版にはつねづね強い関心をもっておられた。

 拙著書評の書き出しは、――書かれていることは民間労組ではすでに取り組みをやっている。なんで、爆発的に(それほどでもないが)売れたのか不思議だ、と痛烈な一発だ。解説すると、ここでいう民間労組とは松下電器労組のことで、他の組合がさしたる活動をしていないのは十分に知っておられた。高畑流のジョークである。

 高畑さんは、戦線統一を成功させるために、民間労組の雄として、獅子奮迅の活躍中であった。そこで、拙著も、経営者・政府に対する具体的な運動体論、ロマンに満ちた運動論が盛り込まれていればいいのに、と批判される。これはその通りである。ただし、単位組合内だけの活動に専念しているわたしとしては、そんな本を書くつもりはなかった。

 高畑さんのロマンある運動とは、制度政策要求である。制度政策要求に答えを出すまで、中央幹部役員が頑張り、全力投球する。組合員の意識を掴み、幹部が先頭に立って身体を張って行動すれば、大衆は必ず支持するし、新しい魅力を組合に感ずる。——いま日本の労組に欠けているのは、労働運動に情熱とロマンを持たない幹部の輩出である。その上に奥井が提唱する運動の近代的センスや、大胆な自己革新がなされることだ。

 つまり、労働組合の「運動」に高畑さんの最大関心がある。それに、松下電器労組の組織活動の充実ぶりは、わたしも十二分に知っている。高畑さんの運動の方向性は大賛成であった。後日談としては、十数年前に歓談した際、高畑さんのロマンは消えていた。わたしの組織内運動のロマンも、右に同じだ。現役の皆さんには失礼を承知で書くが、2人が抱いた夢は、目下は、まさに夢である。

 栗田さんは学者の見識を展開された。書評の不満を言うべきではないが、1つだけ説明したい。――組合員のニーズに応えるために、思い切ってサービス機関に組合が転化すべきだ、とお読みになったことである。わたしは、ニーズを探るために役員はセールスマンたれとか、マーケティング・リサーチを引用したが、サービス機関になれとは一切言わない。この誤解は他にもかなりあった。

 栗田さんがお付き合いされていた組合では、組合役員の官僚化など問題外だったのだろうが、やはり、大問題だったことは40年の歴史が証明している。組合論を資本対労働の視点において、見解が展開されているが、これが理論的に正しいとしても、そこまで対決していくには、まず、組合・組合員が成長しなければ、わたしらが見た夢よりも、格段にはるかな夢である。

簡単な結語

 拙著の書評を持ち出して、主張したかったのは、大衆組織・運動としての組合が、関係者の大変な努力にもかかわらず、社会的影響力を発展させていないからである。わたしは、組合が組合員の「参加の民主主義」に取り組まなかったことが最大の欠陥だと考える。いまや、組合員の組合無関心が当然になって、組合役員の問題意識がマヒしているのではなかろうか。

 富塚さんと高畑さんの論にも、組合員が「参加する民主主義」の視点が出ていない。もちろん、お2人とも、当時大活躍されていた大幹部である。それに、「参加する民主主義」を唱えたのは、1929年生のお2人が作ってこられた運動を批判した、15歳年下のわたしら世代である。単純にいえば、指導する運動を担ったお2人と、わたしらの参加論とは視座・立ち位置が根本的に違った。

 わたしら世代が、80年代にこの問題にがっぷり四つで取り組んでいたなら、こんにちの景色はだいぶ違っただろう。いまから考えると、80年代は経済活況下において、たとえば、「組合とは何か」の基本的な学習すら忘れられた。そのふわふわムードは、バブル崩壊後90年代後半の雇用問題発生で、労働運動全体が沈滞してしまった。

 時間を戻すことはできないが、組合活動を基礎から再構築することは可能である。敗戦後の組合は、飢餓からの脱出に挑戦した。いまは、道正さんの指摘通り、精神的飢餓が支配している。コロナで、人と人の紐帯も薄くなった。極めて素朴な表現であるが、組合員が集まって話し合う活動から再出発してはどうだろうか。組合役員レベルではなく、組合員レベルでの話し合いが大切である。

 たまたまイオングループ労働組合連合会が、――「対話」「共感」「連帯」――というスローガンを掲げている。これを組合員レベルで具体的実践することが大事だ。多くの組合が取り組めば、こんがらがっている活動停滞の糸も必ずほぐれると確信する。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人