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不都合な現実から再興を図るために

奥井禮喜

 労働時間から人間時間へ                     

 労働時間と賃金は、実は1枚のコインの表と裏である。――1時間の仕事が1000円になるか、2000円になるかと並べれば、誰でも2000円のほうがよろしい。年収が一定だとすれば、年間労働時間が短くなるほど単位時間当たりの収入(賃率)は大きい。

 奇妙なことに、わが国の労働者といわれる人々の賃率意識は伝統的に低い。時間給のパートタイマーや、ギグワーカーは、少なくとも常雇いの人々とは意識が異なるだろうが、賃率問題は雇用形態にかかわらず、働いて報酬を得る人々すべての基本的労働条件である。

 組合による労働時間短縮の活動は、わが国労働運動が始まって以来取り組まれてきた。しかし、労働時間問題については、賃金引上げ闘争が盛んであった当時も含めて、パッとしたところがない。労働時間問題は組合活動の基盤であるが、その取り組みに性根が入っていない。

 最大の原因は、労働時間についての理解と問題設定が、いまだに不出来で、狭い意味での労使取引関係の回路に閉じ込められている。組合が、労働力は他の商品とは異なると主張するのは正しい。しかし、労使交渉において、単に賃金(労働時間)の取引しかやらないのであれば、せっかく掲げた志が宙をさ迷う。それではつまるところ、労働力の商品取引でしかないからだ。

 組合も、良くも悪くも歴史的存在であって、伝統的活動を繰り返している。いまや伝統的活動の旗のもとに元気よく馳せ参ずる人々がいるだろうか。組合員が組合費を支払っており、執行体制を構成できるかぎり、組織としての体面は整う。しかし、連合の大衆行動は、執行部の一部が集まって気勢を上げる程度であり、とても社会的認知度は上がらない。コロナウイルス騒動下にあっても、組合が大衆運動としての損害をほとんど被っていないのは皮肉である。

 この際、不都合な現実から、――伝統的ではない再興を図る――ために、今回は、いわゆる労働時間問題の伝統的枠組みを取っ払った理屈を展開してみたい。労働を外した、大きな時間論である。いわく、人間時間を考える。

衣食足りて組合は忘れられた!?

 モノから心へ

 わたしが、「モノから心へ」を主張したのは1970年代半ばであった。71年ニクソンショック、73年石油ショックと続き、物価狂乱で、74春闘は賃上げが30%超となった。その本質は、ニクソンショックが石油価格高騰をひき出し、石油価格高騰が世界的価格体系を再編成したのであって、わが賃上げもその流れにあった。

 生活防衛・維持・向上のために賃金闘争が不要になることはないが、衣食住のみにこだわる組合活動が色あせて見えてきた。生活闘争が看板の春闘で大騒動して雰囲気を盛り上げる。とどのつまりは、「なんぼ出せ」「出せぬ」の金銭交渉に過ぎない。リアルにいえば、結局は宛行扶持の枠内で暮らすだけだ。誇り高い若者たちは面白くない。組合は泥臭い、旧態依然だ、格好悪いなどの辛辣な批判がそこかしこに顔を出す。

 敗戦直後から始まった飢餓賃金克服という賃上げモデルが活動の柱である。また、政治活動と銘打ってはいるが、組織推薦候補の選挙活動に走り回るだけでは、政治を変える・社会を変えるという次元に至らない。労働界では親分衆が労働戦線統一を語るが、まどろっこしい。なにしろ、その結果は、労働4団体(総評・同盟・中立・新産別)が1つの組織にまとまろうとしただけで、労働運動全体のアイデンティティを明快に打ち出していたわけではない。

 「モノから心へ」は、いかにも抽象的である。わたしの考えは、賃上げ至上主義を乗り越えて、新しい組合運動を構築したい。組合役員の眼で見れば、組合員は飢餓賃金を克服したことによって、組合活動に対する期待感が希薄化している。さりとて、組合に対する批判は辛辣だが、「これをやろうぜ」という考えや動きがあるわけでもない。要するに、大衆運動としての組合活動を復興・再生させねばならない。

  衣食足りて文学は忘れられた!?                                               

 作家の開高健(1930~1989)は、文学者の立場から「衣食足りて文学は忘れられた!?」という主張をした。79年と、84年に同タイトルで書いた。短いものである。いわく、読者の純文学離れというが、読みたい本がないからである。問題は作家の側にある。作家が、読者と異なる環境世界にいて、読者の欲する本を書かないから、読者が離れたのだ。——組合員の組合離れと同じだ。

 作家は、なんらかの意味で、社会に対する――反抗・復讐・批判・謀反・反乱――の情熱的精神があってこそ、時代を切り取る作品を書ける。いわば、作家が敵を見失っている。書く情熱が霧散し、作家として切り取るの自我が拡散して、書くべきものをしっかり把握してない。作家自身が五里霧中を漂っている。われわれは、作家を組合役員とおくべきではなかろうか。

 わたしが、開高さんを読み始めたのは、1990年からであった。体系だってはいないが、その後かなり読んだ。しかし、「モノから心へ」を打ち出した時点では、知らなかった。ほぼ同時代に、社会において、人々の意識が漂っている状況を、開高さんも洞察していたわけだ。敵というのは、ぶん殴る敵の意味ではない。わがうちなる情熱の対象としての課題である。

 わたしは、作家が文学を通して社会にアピールするのと、組合活動家が組合活動を通して社会にアピールするのは同じ価値だと信ずる。作家は、本で考えを表現し、組合活動家は組合活動で考えを表現する。いずれもその道のエキスパートである。「モノから心へ」は、かなりの共感を得た。開高さんを引っ張り出したのは、われわれの社会的(人々に対する)アンテナが、的外れではなく、かなりいい線を行っていたことの傍証とするためである。

 開高流を拝借すれば、――衣食足りて「組合」は忘れられた!?――という認識が1970年代半ばに、組合にもあった。いまは、どうだろうか——

 大衆を考えてみる

 大衆的官僚化の危惧

 大衆運動という場合の大衆とは何か。いま、世界人口は78億人である。赤ん坊からお年寄りまで、自分で生活の糧を獲得するかしないかはともかく、極貧から超リッチまで含めて、78億人が生活している。巨視的に、世界の大量扶養システムを支えているのは、技術力と大衆自身である。両者は分かちがたく結びついている。大衆の労働力と消費力が技術を生み、技術力が大衆生活を支える。

 誰が大衆であるか。78億人の1人ひとりが大衆である。世界を眺めれば、大衆の力はどんな形であろうとも遺憾なく発揮されている。建設もすれば破壊もする。しかし、大衆の合意なるものはどこにもない。時と場所において大衆は「現象」的に登場する。世論という便利な言葉があるが、本当のところ、世論があるようで、ない。ないようで、あるらしい。大衆は掴みえない。にもかかわらず、大衆が世界を担っていることは事実である。

 1人ひとりは、自分の意思で考え行動する、はずである。スマホを持たない人はいまや過去の遺物的存在だ。人々の意思に作用する器具としてのスマホは便利この上ない。情報をいつでもどこでも入手できる。というよりも情報氾濫、うっかりすると情報の洪水に流される。そこで、人々は情報を要領よく簡潔に掴みたい。しかし、この傾向には警鐘を鳴らさねばならない。

 たとえばスマホで見るニュースである。いくらでも入手できるから誰でも情報通になる。しかし、情報が事実であるか、どこから発せられているかなど、いちいち詮索検討する人はまずいない。発信する側が客観的を装うことは容易である。客観的を装っているのであって、客観的かどうかは保障の限りではない。大衆はスマホによって、知らずしらず統制される危惧がある。

 トランプ氏が登場して以来、米国に生み出された対立を見れば、スマホの威力は、いわば人々が司令塔によって簡単に動かされることを示した。もし、人々が、情報の入手しやすさと真実とは異なると考えるのであれば、トランプ現象は発生しなかっただろう。恐ろしいのは、真実かどうかよりも、自分の感情に心地よければよしとする気風である。これは極めて具合が悪い。

 スマホの機能が、天の声と化してしまう。本当か、そうあるべきか――などを考えることは、まどろっこしい。心地よければ同化する。この場合は、果たして大衆なのであろうか。1人ひとりは、意思を持っているはずであった。しかし、意思が大きな力によって統御されるならば、1人ひとりの意思は消える。意思が消えることは自分ではない。自分ではない人が集まった大衆とは、数としての物理力に過ぎない。これ、大衆的官僚化というべきである。

 すべての組織は官僚機構として運営される。とくに、企業体における官僚機構は上意下達が最大特徴である。スマホでさえ、いちいち事実かどうか確認しないのだから、企業において上からの指示を検討するような人が多いとは考えられない。しかも、機構の支配は、機構が要求することにふさわしく行動するものを厚遇する。「官僚機構において先頭に立つものは、自己存在を放擲したものである」(ヤスパース)という指摘は貴重である。

 不安の海を漂う大衆 

 漠然たる不安

 経済大国と自他共に認めた時期は明らかに去った。この状態は、コロナ騒動以前からである。1990年代に土地バブルが崩壊し、95年阪神淡路大震災、2008年世界金融危機、11年東日本大震災、20年コロナウイルス騒動と、生活と社会を破壊する事態が続いた。これらの事態がなければ日本は隆々たる経済を築いていただろうか。どうも、そのように言い切る自信がない。

 その理由は、第一に、経済大国と自負していた80年代後半に、未来志向の気風をほとんど感じなかったからである。当時、米国はのし上がってきた日本を露骨に叩いた。今日の米国による中国叩きと似たパターンである。日本は、直ちに恭順を示した点が中国と異なる。中国は経済的に不如意であった時代から政治大国である。それが経済大国にのし上がったのだから、簡単に屈するわけがない。かたや、米国がくしゃみをすれば日本が風邪を引くという関係であった。力の格が違う。

 いや、それ以上に当時危惧したのは、今後の日本経済は、何を押し立てるべきかという主体的問題の回答が見当たらなかった。コンピューターはIBMコンパチブル路線であった。もし、日本がダウンサイジングを思いついていればというのは、後知恵だ。いま、中国が5Gで闘い、6Gで先陣を切ろうとしているのと比べるまでもない。日本は追い付いたが、追い越せなかった。中国は追い付いて、追い越そうとしている。この違いを失念したくない。

 第二に、経済・産業面だけのことではない。衣食足りて、さあ、どうするか! という逞しさが当時の日本人にはなかった。たまたま小金持ちになってバブルに踊っていたのであって、バブルが崩壊すればあたふたするばかりであった。

 企業は、生産・販売活動のモデルが確立している。それを貫くのは利益を上げて企業の存立を確保することである。かたや大衆の側は、雇用されて活動しているのだから、個人としては雇用がぐらつけば間違いなく非力である。産業界が雇用縮小に動く場合、雇用されている側は守勢に追い込まれる。ごく一部に、全面的に雇用を守り、同時に経営への参加を高めた組合があったが、大方は円満希望退職の名目で雇用縮小を全面的に認めてしまった。

 70年代半ばまで、労使は緊張関係の上に円滑な労使関係を維持していたが、その後の10数年間で、緊張関係を失っていた。80年代の組合活動は油断と怠惰に流された。バブル崩壊において、経営側が雇用縮小に動いたとき、緊張感を失った組合側は、心の準備も具体的対抗手段も打ち出せない。ずるずると後退したのである。

 企業的官僚機構に対して、組合が大衆組織として確立していれば、無防備に雇用縮小を受け入れることはない。60年代までは全面勝利とはいかなくても、長期的には組合の存在感を示し、恣意的経営に対する抵抗を示す結果として、次の世代の労使関係安定に寄与した。しかし、90年代の雇用縮小においては、組合が全面的に後退したから、21世紀の組合運動は、労使不対等になった。

 この四半世紀における組合活動家は、労使不対等を背景に活動している。いまの活動家は、労使不対等を対等に作り直す歴史的役割を担っている。労使対等を作るためには組合力を涵養せねばならない。組合力とは、大衆運動としての組合を再興することである。その対象が組合員という大衆である。

 組合員大衆は、漠然たる不安にある。企業においては官僚組織が確立しているが、一方、組合においては、せいぜい執行体制が存在するだけである。つまり、組合としての活動モデルは極めて細々としたものである。賃金闘争が組合員の関心を獲得していた当時ならば、細々とした執行体制であっても、いざとなれば全員参加の闘争体制に転じる。

 それが可能であったのは、漠然とした不安におかれている組合員が、組合活動を通して自分の要求を獲得していくという構造を支持していたからである。1人ひとりでは力にならないが、組合的大衆運動を構築すれば要求を獲得できると考えていたからである。21世紀の組合活動は大衆的学習活動が決定的に欠落している。

 組合員大衆において、「組合力Σ組合員力」が理解されねばならない。組織活動は組合に限らず、大衆を組織するために、組織主催者が大衆に働きかけることである。企業が商品を販売するのは換言すれば消費者大衆の組織化である。商品の価値を消費者に理解してもらい、商品を浸透させ、購買行動を起こしてもらう。組合流なら「教育する・宣伝する・組織する」の3段階を組合活動パターンとして確立することが鉄則である。

 コロナからの復興で危惧すること

 目下はコロナ対応に精一杯で見通しが立たないとしても、いずれコロナ騒動からの再興が最大関心になる。その際、産業界がめざすだろうキーワードを考えれば、企業は、1 Flexibility=いかなる状況にも対応できる柔軟性、② Agility=企業行動の機敏性、③ Resilience=全体としての復元力――などを押し出すだろう。

 これらはそれなりに意味がある。大きな困難を克服するには、誰もが理解できる象徴としての言葉が大事である。みんなが結束し、対応力を高めねばならないからである。参考までに、これを見事にしくじった一件がある。「復興五輪」「コロナに打ち勝つ」、以て「平和の祭典」という陳腐の極みで、評判が悪かった。むしろ、「世紀の災典」としたほうが支持されたのではあるまいか。

 組織力としてのチームワーク・コミュニケーションは、もともとよろしくないが、コロナ騒動下で、さらに後退・劣化していると見るべきだ。何を合言葉(象徴)にするにせよ、行動に力が入るのは、1人ひとりの共感と納得が不可欠だ。注意したいのは、――言葉として結構なものであっても、官僚機構においては、それぞれのポジション、あるいは力関係によって全体的整合性を欠くとか、力の弱い部分に不都合が押し付けられやすい。要注意である。

 90年代のバブル崩壊後、企業再建の大きな原動力になったのは、いわゆる企業内エリート層の活躍ではない。希望退職に応じて企業を去った人たちであった。膨大な解雇を達成した某自動車会社が、2年もせぬうちにボーナスを大盤振る舞いしたのは忘れられないし、苦く後味の悪い事態であった。いまは、企業内利権争いの後始末に追われている。企業は、手足を雇うのではない。企業活動への参加を求めるのである。これが分っていない。

 コロナ騒動からの再興期において、働く人を代表する組合の理論的・組織的体制が整備されていなかったならば、またぞろ、同じ轍を踏む危険性がある。組合は、大衆的世論の培養器でありたい。コロナ渦中、さらにはポスト・コロナの事態において、組合はいかなる基本方針で臨むか。まずは、メッセージを働く人1人ひとりに届けてもらいたい。(蛇足ではあろうが)

 企業内だろうが、組合内だろうが、関係する人々の世論をリードすることが次なる事態を作る。ところで世論というものは、あるのか、ないのか——本当のところは把握できないが、世論は破壊的にも建設的にも作用する。たとえば、経営陣が解雇策を取りたくても、会社に働く人々全員が一枚岩でNOといえば、経営陣は解雇策を発動できない。これは、組合内に「進むも退くも一緒」という世論が形成された場合である。

 逆に、世論形成ができない場合とは、多くの人が、何が中心的問題で、どうなっていくのかについて認識できず、自分が何をしたらいいのか分らず、途方に暮れているような事態で、自分の無力を隠すためのいい加減な態度が発生しやすい。こうなると、企業内権力を持つ経営陣の独壇場になる。

「グレート・リセット」論

 世界経済フォーラム(WEF)の、今年のダボス会議は中止になった。予定されていたテーマが、「グレート・リセット」である。

 グレート・リセットという言葉は、2008年世界金融危機の際、米国のR・フロリダが最初に使って話題を呼んだ。世界金融を巡っては、1980年代に英国のS・ストレンジが、――金融カジノの元締めが大銀行と大ブローカーである――として、著書『カジノ資本主義』(1986)で痛烈に批判し、大きな反響を呼んだ。フロリダ説も、カジノ資本主義に対する問題提起だが、それから10数年の世界金融がカジノを店仕舞するどころか、ますますお盛んだ。

 今度のグレート・リセットは、世界中が惨憺たるコロナ騒動にあるなか、WEF会長K・シュワブが著書『COVID-19:The Great Reset』で、――いま、行動を起こして社会をリセットしなければ、われわれの社会は深刻な痛撃をうける――と警鐘を鳴らした。世界は全般的危機にあり、あらゆる(人為的)仕組みを再び始動状態に戻そうと主張する。

 コロナ後の「新常態」を唱えて、新しいビジネスチャンス到来とばかり浮かれている立場とはまったく異なる。俗にいえば、全地球人的ガラガラポンの新規まき直し提唱である。その主張を煮詰めれば、経済成長至上主義のGDPカテゴリーを放棄して、世界を目的論的に組み立てる。めざす柱は、人々の幸福と地球の持続可能性の2つに絞り込まれる。

 まことに理解しやすいし、共感できるだろう。ただし、わかりやすい主張と、現実の取り組みとは無関係である。現代社会では、グレート・リセット論は、天動説が地動説に変わった以上の意味を持つ。地球に住む1人ひとりの価値観を引っくり返すといっても過言ではないからだ。

 そこで、「人間とは何か」という命題が必然的に登場する。われわれは現実に存在する。形成されてきた歴史の流れは、巨大な慣性であり、われわれの現存在は歴史的存在である。まずは世界の人々の多くが、歴史において、自分はいかなる存在であり、いかに生きるべきかを切実に問い詰める必要がある。どなたさまかにお任せしていては、空想の域を出ない。

 換言すれば、自分の生を歴史から引き出さねばならない。1つの歴史の見方として、歴史の発展とは、すべての人間が有形無形の束縛から自由になることである。個人は、自我という作用に支配されており、同時に、自分自身の環境世界*を持っている。世界は、78億人、1人ひとりの自我と、その環境世界との体験的連関の巨大な総和である。まことに茫々漠々としている。*ここでは、人の数ほど「世界の見方」があると理解しておいてもらえばよい。

 世界にはさまざまの危機が発生する。人々が1枚岩であれば、多くの危機は克服できる。しかし、現実には1枚岩どころか、人々の間における信頼が欠如している。人間は、前提として信頼関係を持っていない。また、人々の信頼を前提とした政治が信頼を高めているであろうか。信頼関係は、1つひとつの問題現象を納得して処理するなかから構築されるが、現実の政治(家)は信頼関係を破壊することにばかり熱を上げている。

 それでもなんとか、それぞれの国において政治が機能しているのは、人々が政治を権威として受容しているからである。にもかかわらず、権威たる政治自身が、あちらでもこちらでも頽廃している。コロナ禍という、全人類的災難にあって、災難が全体で共有されているのであれば、同じ災難でも人々の心構えに力が入る。ところが、政治家は権威主義的な説明しかできないから、人々の理解も共感も得られない。

 わたしは、グレート・リセットの考え方がよろしくないというのではない。賛成である。世界中がコロナ危機で呻吟し、苦しい体験を共有しているのだから、もし、圧倒的多数の人々が、人間という、か弱い存在に気づき、みんなで事態を克服していこうと考えるようになれば大きな一歩を生む。

 われわれは、あたかも大海において漂流しているようなものだ。ところで、人々は全人格としてのお互いを認め合っているだろうか。社会は生産を軸として動いている。人々が生きるため、つまりは必要な消費をするために生産するのであるが、人々は生産のための機能の一部として扱われているではないか。目的が見失われ、手段が目的化している。しかも、人は手段の手段と化している。人々の幸福という目的は、働く人こそが押し立てるべき課題である。

 このように考えると、グレート・リセットを推進するためには、働く人1人ひとりが、自分が自分としての自由な生を追求するために、あてがわれたものをこなすだけではなく、社会的目標を自分流に構築する努力をしなければならない。社会において、「よりよきものを求める」思索に立ちたい。

労働の喜びから幸福論へ     

 子ども時代に海辺で砂のお城を作った。意味があるか、ないか。そんなことは脳裏にはない。作りたいから作る。ただそれだけである。一方、労働は価値を生む。しかし、砂のお城を作ったときの無心、充実感ではない。子ども=人間であったが、働く人は、人間と労働者の2つに分離しているみたいである。

 人生において労働の意義は大きいし、関わる時間も長いから、労働条件も含めて、労働の喜びを感得できるか否か、これは大問題である。従来の組合活動は、主として労働の喜び、働きがいを求めてきた。賃率が高いほど、労働時間が短くなるほど労働条件(環境要因)としては好都合である。

 労働条件には格別の不満がないとする。それでも、砂のお城的充実感には到達しないだろう。人間と労働者は1つにならないからである。人間とは人生であり、労働はその部分である。労働を人生より上位に鎮座させてしまうから、たとえばパワハラのような問題が発生する。大方の場合、加害者には加害の認識がないわけだ。

 人々の幸福とか、地球の持続性可能性を社会の目的とすれば、会社にしても、仕事にしても、間違いなく手段である。顧客を上手に欺いてでも儲ければよろしいというような痴見(誤字にあらず)が挟まる余地がない。

 人々の幸福を掲げるとすれば、人間とは何か、自分はいかに生きるべきかというテーマにぶつかる。わたしが展開する人生設計セミナーでは、各人の幸福論を考えてもらう。つい先ほどまで、「幸福に生きたい」と話していたのだが、あなたにとって「幸福とは何ですか?」と尋ねられると、即断回答できない。

 幸福とは、自我の側面である。自我は無意識のうちにある人生の構え方である。各人が棲息する環境世界において、周辺に配慮して、ひりひりするような自我には触れない場合が多いから、容易に思いつかない。人間も動物である。動物は感性のみで、悟性とか理性というものはない。人間の悟性・理性は、大きな歴史的慣性においてさまざま体験して育つ。それらをひっくるめて自分の環境世界との緊張関係のなかに、自我なるものがある。

 自我は自分自身である。歴史的慣性とは時間である。いまの自我もまた、いま(現在)という時間である。過去にさかのぼって学ぶことは可能だが、時間は不可逆性であるから、そこで学んだものは新しい、現在の知恵である。生は本質的に未完成である。人間というものの完成品がないから、すべての生は未完成だ。しかも、人は未来にも過去にも生きられず、いまにしか生きられない。

 哲学者・三木清(1897~1945)は、「人間の本性は運動にある」と主張した。なるほど死は運動がなくなることである。未完成の人生を運動し続けて死ぬのだから、経験することの果実が目的だとしても、本人は目的を自分の手に掴み取られない。そうすると、人生なるものは、目的ではなく、プロセス=経験こそが最大の価値だとも考えられる。

 人生における経験は、つねに新しい。極めて日常的行為を繰り返していても、人が生きている時間・環境は時々刻々変化して止まらないからである。同じことを繰り返していると気づくのは自我である。退屈が湧いてきた。退屈を退屈と規定するのは自我の作用であり、経験のマンネリ化に嫌気がさしたのである。では、どうするか。自分が納得できる、somethingを求めるであろう。

 考えるべき課題は無限にある。1日は24時間しかない。人生のマンネリ化から飛び出すためには、もっと時間がほしい。労働時間と余暇時間というようなカテゴリーでのみ考えれば、労働時間短縮作戦になる。しかし、これは価値の関係において、「労働価値>余暇価値」という意識を培養してきた。

 余暇時間というのは、労働を優先する考え方から規定されている。果たして100%の満足感をもって労働する人がどのくらいおられるだろうか。報酬と交換して働く以上、労働は報酬と見合わなければ、自分の短い貴重な人生を犠牲にしている。つまり、その時間には人生がない。たまさか高い報酬だとしても、労働に消費した時間が手元に戻ってくるわけでない。時間は不可逆である。

 経済学では、労働時間は非効用の立場を取る。効用とは、財・サービスが人の欲望を満たし得る能力である。つまり、労働自体は欲望を満たし得るものではない。だから等価交換として報酬を必要とする。労働によって余暇時間が減少するのは、すでに自分の不満足を増加しているのだから、報酬を手にして儲かったというのは錯覚に過ぎない。

 経済学は、「余暇時間が1時間増加=賃金1時間」という見解である。つまり、余暇を1時間失って賃金1時間を得ても、儲かったのではない。1時間になし得たであろう自身の活動を失って賃金1時間を手にしたのだから、効用時間にはならない。労働供給時間は財ではなく、余暇時間こそが財なのである。

 この考え方が、働く人には極めて少ない。「労働時間=短く、価値ある人生=人間時間(を長く)」するという認識が薄いかぎり、労働時間問題・賃金問題での前進は思わしくない。しかも、労働に価値を置きすぎる時間は、人間としての自分の意思が他者によって統御されている。これでは、「Great Reset」など夢のまた夢でしかない。

 「Great Reset」が、産業界の流儀で推進されるならば、大義名分の形がついても、結局、シワを寄せられるのは働く人々であろう。かつて、ケインズ(1883~1946)は「目的を手段よりも重んじて、有用なものよりも、よりよいものを求める」ことが、本来の経済学の目的であると指摘した。

 しかし、経済学者が展開しているのは、まさしくその逆である。いわく、「手段が目的を無視し、よりよいものよりも、儲けを最優先する」と言わねばならない。

 労働運動は、人間解放の活動である。人間は、歴史的に前進しなければならない。働く人が、よりよい社会について考えず、ひたすら宛行扶持の労働に挺身する限り、資本主義は人間性を無視して巨大化するだろう。もちろん、一発逆転のResetを期待するのではない。人間の幸福、よりよい社会をつねに視野に入れて、組合活動を作っていきたいのである。

【組合研究会2021⑨2021.07.14 発表より】


奥井禮喜 有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人