月刊ライフビジョン | 論 壇

現代日本のファシズム

奥井禮喜
多様な知の地平を切りひらく?

 朝日新聞夕刊に「にじいろの議」という欄がある。――多様な知の地平を切りひらく気鋭の寄稿を月1回掲載します――と説明がついている。4月14日(水)夕刊には「コロナ失策からの発見 崩れる民主主義の常識」と題した成田悠輔氏の寄稿が掲載された。

 全文紹介せずに書くので申し訳ないが、知の地平というには、文章が粗くアジテーション的で、同氏はポピュリズムを批判しているが自身がポピュリズムに思える。(あえてか)一般人を馬の骨、世論を凡人の日常感覚と表現するなど、衆愚政治嫌いであり、かつ衆愚が大嫌いな新進気鋭のエリートらしい。

 同氏の核心的主張は、「民主主義への疑問が再燃している。格差と憎悪の拡大、SNSによる情報汚染、ポピュリズムの台頭――だいぶ前から危機にさらされてきた民主主義に、止めの一撃が加わった。コロナ禍だ。」とする。しかし、これらは民主主義への疑問というよりも、政治・経済・社会における、人々の現状の問題であって、民主主義という制度のせいではない。人々の在り様をこそ問題にしなければならない。

 過激に表現してヒットを狙ったのか、「民主主義こそ20年に人命と経済を殺めた犯人だ。それがデータからの発見である。世論に耳を傾ける民主主義的な国ほどコロナで人が亡くなり、経済の失速も大きい。逆に、専制的な国は封じ込めに成功し、経済の打撃も小さい場合が多い。これは米国と中国だけに限らない世界的現象だ。しかも、この関係は因果関係であると判明した。民主主義がコロナ失策を引き起こしているようなのだ。」という記述は、直ちに賛成しかねる。

 どんなデータなのかはともかくとして、専制的な国だろうが、民主的な国だろうが、制度体制がコロナを抑え込んだのではないし、抑え込めなかったのでもない。政権を担っている政治家が采配し取り組んだのであって、民主主義が人と経済を殺めたと断ずるのは比喩にもならないし、明確に間違いである。

 さらに前EU委員長クロード・ユンケルの発言を引用した。「何をすべきか政治家はわかってるんだ。すべきことをしたら再選できないこともね」。政治家はまず自分の地位に執着するという指摘は大いに共感する。ただし、ユンケル発言は、コロナ騒動以前であり、一般論としてはその通りだが、コロナ騒動に関して政治家が自分の地位保全に汲々して、なすべき施策をなさなかったのではない。要は、有効な施策を思いつく知能ではなかったのだ。

 この寄稿は、このままでは民主主義があかんと大声疾呼していることはわかるが、知の地平を切りひらくどころか、与太話みたいなのですっきりしない。調べてみると、同氏のインタビュー「選挙も政治家も、本当に必要ですか」(2020年10月22日付、朝日GLOVAL+)を見つけた。それによると、

 ① 人間が意識的に意見を形成しようとすると、周りの声や一時の情動、情報などに簡単に流されてしまう(ので)

 ② 選挙しても、投票対象は政治家・政党でしかなく、個々の政策論点に細かな声を発せられない(ので)

 ③ 選挙の代わりに、人々の意識しないレベルの欲求や目的を何らかの形で集約したらどうか(同氏の専門のデータと数学によって)

 ④ これを無意識民主主義、センサー民主主義、データ民主主義と呼ぶ

 ⑤ マイノリティの声もアルゴリズムで自動的に吸い上げられる

 ⑥ かくして、選挙や政治家も不要になる(やがては)

 つまり、参加する民主主義などと実現不可能なことをいわず、すでに、いろいろおこなわれているように、人々の意志を徹底してリサーチすればよい、というのである。知の地平云々は、ここへきてその意味がなんとか分かった次第だ。

 これが成就すればおめでたいのかもしれないが、なにやら、いちばん大事なところへブラックボックスを持ち出されたような心地がする。人間の思考は、論理的なもの・無意識のもの・遺伝情報によるものがあるというが、意識しないレベルの欲求を集約するといわれると、手品もどきに思える。

 生命体は閉鎖系であり、AIは開放系である。閉鎖・主観と開放・客観の関係については基礎情報学のテーマだと聞くが、そもそも機械は誰かしら人間が設計したルールに基づいて作動するものだと考えるし、この結構な意識調査のアルゴリズムは、果たして公正・公平だと断じられるのであろうか。

 そこで、人が意識せざる意識なるものを、機械が正しく読み取ったと仮定する。マスで結論を出すのだから構わないというのだろうが、「これはあなたの意識ですよ」と言われても、本人は意識していないのだから、「はあ、そうですか」と受け入れられないだろう。これでは民主主義の進歩に貢献しない。

 同氏は「どこの馬の骨ともしれない街頭の一般人アンケート」による民主主義をパチッと否定している。一方読者としては、「無意識・センサー・データ民主主義」という提案は、どこかの広告代理店がやっている市場調査と同じようにしか考えられない。目下の政権与党がやっているように「広告代理店民主主義」と名付けるのがよろしいのではないか。

現代のファシズム(=全体主義)

 ファシズム思想は、個人に対する全体の絶対的優位を主張する。全体絶対優位の立場から、あらゆる集団・組織を一元化し、すべての個人を全体の目標に総動員する思想であり、その体制である。ムッソリーニのファシズムや、ヒトラーのナチズムは周知のように、ヤクザに権力を与えたようなものだった。いまの日本について、大方の人は、まさかファシズムとは思えないという気風だろう。

 ムッソリーニやヒトラーと比較すれば、大概のことは民主的! に見えるかもしれない。そこで、拳骨的ファシズムではなく、頭の中のファシズム、知らずしらずのうちに忍び寄るファシズムという視点を立てよう。たまたま成田氏の原稿に触発されたので、氏をケーススタディさせてもらう。

 同氏の原稿を読むと、民主主義を直接否定するのではない。むしろ、歯痒い民主主義事情をなんとかしたいという思いらしい。だから民主主義を支えたいと考える(多分)朝日新聞が、気鋭の論客として押し出しているのだろう。

 いただけないのは、民主主義に時間がかかることを嫌気するあまり、「広告代理店民主主義」に一切の疑問を抱かない短絡性である。これがすでに、全体の意思決定を最優先して、個人(国民全員の意味ではない)の事情を軽んじている。もちろん、ご本人はまったくそんな気持ちはないと言われるだろうが、これがファシズム(的)なのである。

 人間社会で発生している無数の問題の多くは、実用と効率のみで人生の価値が測れる(測ろうとする)便宜主義が背景にある。あるいは、極めて直接的な利害損得の考え方が支配的である。現代の複雑怪奇な利害関係において、気の長い相互理解の手順を省略したがるのは、性格的短気というだけではなく、結局、権力によって一挙解決を図ろうとする専制主義と重なってしまう。

 この世界には問題解決を妨害する、限りないムダ・ムリ・ムラ(⇒悪)がある。これらはできるだけ縮小するのが好ましい。ただし、それらを全面的に絶滅させようと考えるならば、政治においてはファシズムでしかない。イタリアのファシストでも、ナチでも、1人ひとりに対すれば、まじめで正直で、正義感溢れる人々が多かったのは事実である。その正義感を絶対とする熱情が狂信的ファシストへの近道でもあった。

 同氏は最先端の科学的手法を駆使して民主主義を追求したいらしいが、人間の無意識の意識を読むのだという科学的自信の裏返しとして、他人の無意識の意識が読めるという、客観的にはなんら裏付けのない自信を表明している。最新の科学的方法という言葉を掲げるが、実は(AIによって)、他人を支配しうるという超人意識=エリート意識が臭う。他者に対する正義感的情熱とエリート意識は、ファシストの心情の2面である。

 人間は弱い。たまたま社会的地位があり、経済的困窮から逃れているとしても、一皮剥けば、退屈と苦悩という、魂の救済を必要とする立場にある。これが一切ない人間は、いかに優秀な知識人であろうとも、魂がないのだからある種のAI人間であり、技術だけのテクノクラートである。科学技術を絶対とする思考もまた、1つの信仰であり、暴走すればファシズムである。

 B・ラッセル(1872~1970)の、「われわれは手段についての巧妙な技量と、目的についての人間の愚かさとの競争の真っただ中にいる」という言葉を想起する。さらに、「人間的愚かさは、科学的知識・技量のゆえに加重する」という視点を大切にしたい。大局的に人類を眺めれば、核兵器1つを考えても、ラッセルの言葉のとおりではあるまいか。

 社会は太古から超発展してきたのに、なぜ、相変わらず野蛮なのか? 社会の組織化と分業化が、全人格的発展を妨害していないだろうか。なるほど、学問・科学は進化したであろう。一方、科学・技術の専門分岐・技術化が全人格的科学者・技術者を生み出さず、職人化(=ロボット化)させている面を考えなくてよろしいだろうか。

 科学思想において、技術的操作や効用ばかりに目がくらむと、そこから現出する世界は人間機械論的世界観でしかない。科学においても哲学が不可欠である。科学・技術だけが超進化しても、人間性が野蛮であれば、科学・技術を駆使できるどころか、人類の終末を早めるだけである。

 わが国では現実に、民主主義が根本的に人々の会話に上がることは少ない。学校で十分に学んだからだろうか。違うだろう。民主主義を学ばず・考えずに21世紀の日本があるというのが現実である。もちろん、民主主義が崩れることは看過できない。ただし、制度が円滑に(実は機能的に)運用されていないことだけが問題なのではない。もっと、根本から考えねばならない。

 人類は2000年以上前から、人が人を暴力的に支配する社会で苦労してきた。結局、個人が集まって社会を作っているのであるから、各人が自発的・主体的に社会に参加・参画する民主主義が政治制度として大事だということに気づいたのである。だから、「人間の尊厳=基本的人権」から出発しなければ、技術的な問題をいじくりまわすだけでは本当の解決につながらない。

 民主主義でない国もあるし、民主主義を掲げてはいるが、中身は専制主義、権威主義で、ファシズムに向かっている国もある。なぜ、民主主義が進化しないのか? 各人が、出発点に立っていないからだ。人間観が個人的にも社会的にも育っていない。だから優秀なテクノクラートが輩出しても、いや、輩出すればするほど、日本的政治はずる賢いものに傾斜する。いまの官僚政治の腐臭紛々たる事情が示す通りである。人の知性と品性はまったく別物である。民主制度の技術を云々すること自体が日本の現代的ファシズムを意味している。

 1912年、封建清朝を打倒して中華民国が建設された際、魯迅(1881~1936)は、「封建制を倒すのは比較的容易だったが、これからはそうはいかない。なぜなら、民主主義革命は、1人ひとりの精神革命だからだ」と指摘した。わが国は、厳密にいえば封建制を打倒しなかった。民主主義もまた、空から降ってきた。民主主義の機能を論ずる前に、民主主義的啓蒙をこそ、われわれは取り組まなければならない。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人