月刊ライフビジョン | メディア批評

荷が重すぎる新会長密室人事

高井潔司

 ‟平成の失言王“、森喜朗東京五輪・パラリンピック組織委員会会長がようやく辞任した。しかし、橋本聖子新会長選任までのプロセスを見ていると、とても「めでたし、めでたし」と手放しで喜んでおられる状況にない。果たして無事、オリンピックの開催までこぎつけることができるのか、懸念は深まるばかりだ。

 今回の問題は森前会長がJOCの臨時評議員会で「女性がたくさん入っている理事会の会議は、時間がかかります」と発言したことがきっかけ。たちまち「女性蔑視発言」として世論の批判を浴びた。さらに謝罪会見での森前会長の発言と態度が「居直り会見」として一層の世論の反発を招き、辞任に追い込まれた。

 疑いなく森発言は女性蔑視である。世論の批判は正しいし、そこまで批判がまたたく間に拡大したのは頼もしい限りだ。だが、マスコミやスポンサー企業まで一斉に批判の陣営に与したのは、ホントに? あなた方の企業内部ではどうなの? という疑問が私には浮かんだ。森前会長だけでなく、私も含め女性軽視が日本社会に沁みついていないのだろうか。問題改善の覚悟もなく、自省なき批判の中で、女性会長選出だけで事が済む問題なのだろうか。

 また森発言は女性蔑視だけでは済まないと私は感じる。後段の「議論が長くなる」という部分は、民主主義の原理原則の否定である。この部分がほとんど取り上げられていないことに疑問を感じる。むしろこちらの方が大きな問題だと思うが、女性蔑視批判の大波に呑み込まれてしまった。

 日本の現在の政治は、談合と根回しのなれあいの密室討議で決まる。後は官僚が権力中枢の意向を忖度して、政策、法案を作成する。それを国会や各種審議会に諮り、与党議員や政府指名の審議会メンバーが了承し、お墨付きを与える。野党議員の質疑、批判は、女性理事同様、審議を引き延ばすだけの雑音に過ぎない。中国の人民代表大会が共産党の方針に同意するだけの「ゴム印国会」と揶揄されるが、日本の政治リーダーにとってゴム印国会が理想である。

 本マガジンの主宰者、奥井礼喜さんは最近のRO通信でデモクラシーのリーダーは、3つの規範と2つのタブーを拳拳服膺して活動しなければいけないとして、その規範の第1に「自分が絶対的価値を代表していないという認識を持つ」を挙げておられる。まさに森前会長をはじめ安倍内閣及びその亜流の菅内閣は、この規範に欠け、密室の決定を、議論なく効率的に進めようというスタイルを貫く。そこには、自身が絶対的価値を代表しているという「奢り」が看て取れる。議論など短ければ短いほどいいのだ。その場をわきまえ、用意された案を了承することが望まれている。立身出世には空気を読むことが肝要なのだ。男はそれに適っているということなのだろう。これは立身出世の道なので、男性蔑視とは言われない。

 森氏はその流れで後任会長を自分勝手に指名した。いや、一応、首相など関係者に根回しをしていた。首相はその過程で「若い人を、女性はいないか、と言った」とされるが、その後、森氏が川渕氏に就任要請を行ったのを見ても、議論にはならず、同意を与えたのだ。

 だがその後、後継人事はなぞだらけの経過をたどった。森前会長の後継会長指名、川渕氏の受諾は、最終的に「密室人事」としてつぶされてしまう。

 その流れはどのようにして作られたのか、どう見ても首相官邸から仕組まれた流れであろう。それは2月12日付の朝日、読売の新聞を比較するとわかる。朝日は森前会長の辞意を受け、「川渕氏を後任指名、受諾」と森の意向を疑問もなくそのまま伝えている。それに対し、読売ではその流れを伝えると共に、「疑念招く『密室人事』」という政治部次長の解説記事を一面に使って、別の流れを作ろうとする意図がうかがえる。誰が密室人事と疑念を抱いているのか、情報源のない記事だが、私は首相官邸の意向だとにらんだ。この記事が登場した頃から、世論は密室人事批判へと一変する。

 そうなると、菅首相自身も記者団に対して「国民から信頼され、歓迎されるようなそうした組織、(会長の)決め方が大事」と、密室人事を批判する側に回った。それまで会長人事は組織委の問題だと避けていたはず。「決め方が大事」というなら、森前会長の根回しの時に言うべきだろう。根回しでは、多少の意見は述べても、最後は「根回し役に一任」が慣わし。結局、ボス支配へと繋がるのが日本型意思決定の特徴だ。

 この流れを見ていくと、何のことはない、密室人事批判も、密室から出てきた。官邸から仕組まれていたのだ。そして、なぜ川渕氏では駄目なのかという本来の議論にはならなかった。ともかく密室人事は駄目の一点張りだ。

 それにしても、政権批判学者を排除する学術会議人事をはじめどれだけ密室人事をやってきたかわからぬ首相が、よくもまあ「開かれた議論、人事」を口にできるなとあきれてしまう。同じ国会では息子ら放送会社幹部と総務省官僚の会食問題では「プライバシー、別人格の問題」などと論議を避けておられる首相が。

 今回の森騒動はこのようにジェンダーの問題だけでなく、民主主義のレベルの問題でも、日本が大きく立ち遅れていることを世界に知らしめた。だが、その自覚もあいまいなまま事態は森辞任、橋本新会長選出で終息してしまった。

 さて、このようなプロセスを経て決定された新会長だが、若返り、女性、アスリート出身という以外に、なぜ彼女が選ばれたのか、さっぱり不明で疑念が広がる。確かにオリンピックに7回も出場した輝かしい経歴の持ち主だが、それならオリンピックで4連覇したレスラーなどもっと輝かしい成績を持つ女性アスリートは何人もいる。国民の目下の最大の関心事は、このコロナ禍中、本当にオリンピックは開催できるのか、どうかだが、これについて彼女がどう考えているのか、何の表明もない。

 何のことはない、この人事も首相の意向を反映した密室人事ではないのか。令和おじさんの密室人事はさとられぬようにやる。さとされたら、「人事の問題はお答えを差し控える」と逃げる。陰湿そのものだ。これに対し、失言王はあからさまにやるから密室人事がすぐばれ、さらに失言のネタになってしまう。全くの道化である。陰湿なのは多少とも罪の意識があるのだろうが、道化の方は絶対的価値を代表すると思い込んでいるので罪の意識に欠ける。五十歩、百歩、目くそ鼻くその類いである。  

 余談だが、首相の息子の総務省幹部接待問題は誰が文春に漏らしているのだろうか。大手マスコミは文春の後追いばかりでなく、少しはそういうところに目を向け、独自の報道をしたらどうだろうか。案外総務省の当事者が令和おじさんの陰湿さに嫌気が差し反乱に乗り出したかも。録音など当事者でないとできない相談で、情報源を突き止めることもできるはずだ。

 話を戻すと、橋本新会長には15年程前、直接会って話したことがある。北大の教員時代、学生と餃子パーティをやっている教員宿舎に、某新聞社幹部に伴われ、サプライズで参加してくれた。アスリート出身らしく、とても気さくで楽しく会話は弾んだ。彼女にはたちまちファンに引き込んでしまう魅力がある。

 菅首相は就任の際、「オリンピックはコロナに打ち勝った証しとして開催する」と決意を述べたが、現状はとても「コロナに打ち勝った」とは言えない。この公約から言えば、中止は当然の措置だろう。世論調査でも、半数以上の人が中止や延期を回答している。しかし、政治の事情は中止など口にすることは許さない状況だ。「どんなことがあっても開催する」とは、前会長の失言の一つでもあるが、政府の本音をそのまま発言したものでもある。そんな中で、橋本新会長が政治から独立した判断をできるのだろうか。森前会長は彼女を「娘」と公言し、彼女も「お父さんです」と慕う間柄を考えると、とても無理な相談ではないだろうか。「自民党籍」を外した位では済まない問題だ。ノーと言わない好人物が、政治からの要請を拒絶するなど想像もできない。国会議員になることも彼女自身の選択ではなく、森“お父さん”からの要請だったのだ。

 2月21日のTBSテレビ「サンデーモーニング」で、姜尚中氏は「膨張期や成長期はイケイケドンドン、これは日本がお得意な分野なんです。過去の歴史を見ると退却したり、中止したり辞めたりするのがかなり難しい歴史を日本はもっている」と指摘し、橋本会長の今後について「進むも退却するも茨の道だと思います」と述べた。過去の失敗に学ばぬ与党の中で育てられた橋本新会長にこのポストは、菅首相同様、荷が重すぎるのではないのか。

 五輪開催に向けた重要決定の段階で、改めて日本の意思決定プロセスの問題点が浮上することになるだろう。一連の問題は、森氏一人の辞任では済まない。政治風土の問題である。森問題が女性蔑視だけに特化した結果、川渕氏から橋本氏に代わっても森氏の‟レガシ-”を残す人事となってしまった。橋本氏もこの難局をよく理解しつつも、スポーツウーマンとして、逃げることができないと考えたのだろう。議員出馬したことから定められた宿命だろう。スポーツファンそして橋本ファンの私にとって心配の種は尽きない。


高井潔司  メディアウォッチャー

 1948年生まれ。東京外国語大学卒業。読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て、桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授を2019年3月定年退職。