月刊ライフビジョン | 論 壇

『大衆の反逆』から90年―民主主義を理解しているか?

奥井禮喜

オルテガ『大衆の反逆』

 1930年、いまから90年前、スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセット(1883~1955)が著作『大衆の反逆』を発表した。

 第一次世界大戦が終わり、世界の人々は民主主義を謳歌しているはずであった。しかし、現実はそうではない。民主主義の民が必要とする精神的緊張感がみられない。人も社会も政治的その日暮らしをしている。大衆に哲学する心を提唱したい。それが同書に寄せた著者の切なる願いであった。

 日本で同書が読まれたのは敗戦後、1953年以降である。文庫本で出版されたのが67年、いわば日本的民主主義のピークの時代であるが、仲間内で話題にした記憶がない。わたしは、民主主義と組合に熱い気持を抱えて活動していたから、読めば大きな糧になったと思うが、その価値を認識したのは90年代後半である。もったいないことをしたものだ。

 簡単にいうと要旨は、――大衆が社会的権力の座に登った。しかし、大衆は本質上、自分自身の存在を指導することができないし、指導するべきとも考えないし、まして社会を支配・統治するなど及びもつかない。これが、欧州において、民族や文化が遭遇する最大の危機である。――

 著者がいう大衆とは、「平均人」を意味する。社会階層の上下に関わらず、人間(精神)の在り様によって、少数の「エリート」と多数の「大衆」を区別している。大企業の社長でも大衆であるし、臨時雇いであってもエリートに区分される。――大衆とは、(自身の)生の計画を持たない人間で、波間に漂う人間である。だから、彼の可能性と彼の権力がいかに巨大であっても、何も建設することができない。――

 社会的権力の座に登って、決定を下しているのは「大衆」であって、甘やかされた子どもの心理である。レビンが――人間行動B=f(主体P、環境S)――人間行動は環境の関数であると公式化したが、主体が環境に働きかけるのではなく、ひたすら環境に強いられてしか行動しない(できない)。これが大衆の実像である。だから、今日の人々は、過去のいかなる時代の人々よりも知的能力を有しているにもかかわらず、その能力がなんの役にも立たない。

 他方、「エリート」とはいかなる存在か。――優れた人間は、自分を超え、自分に優った規範に注目し、自分から進んでそれに奉仕するという、止むにやまれぬ必然性を自身の内に持っている。――

 奉仕(他人のために)に生きる人は大衆ではない。選ばれた被創造物である。「エリート」は、自分を超える何かに奉仕するのでないかぎり、生としての意味を持たないと考えて行動する。――常に自己を超克し、それを自身の義務として強く自覚している。既成の自己を超えていく態度を持っている。――

 オルテガ的分析からすると、政治的無関心をかざして、あたかも一人前の大人でございますというような気風が支配する社会は、民主主義制度であっても、ろくな意思決定ができず、つねにふらふらした政治でしかない。大衆は、その程度に応じた政治を手にするしかない。なぜなら、オルテガ的大衆がオルテガ的エリートを選ぶわけがないからである。

堕落した政治が無秩序を培養する

 選挙では大方の候補者が、「国民のために政治をいたします」と咆哮する。しかし、大方の国民は、そんな膏薬(公約)は直ぐに剥がれることを認識している。だから議会でまともな論議がおこなわれていなくても腹を立てない。そればかりか、インチキ膏薬を販売している側が、膏薬のインチキを指摘されると、「対案を出せ」と居直るのに共鳴してしまう人々が少なくない。

 1つのインチキを押し通すことは、無数のインチキに対して寛容! な政治文化を育ててしまう。寛容そのものは美徳だが、インチキに対する寛容は、インチキを批判する正論に対して不寛容である。無理が通れば道理が引っ込む。道理が引っ込むのだから、わざわざ政治をおこなっているのだが、政治自体が社会を無秩序の方向へ進めている。

 1つの嘘が、それを正当化するための嘘を呼び、その嘘がさらなる嘘を招く。安倍内閣8年間の政治的レガシーは、嘘をつき続けているかぎり、嘘が嘘と認定されないという政治的実験をおこなったことである。

 日本と形は異なるが、米国ではトランプ氏が同様の実験をおこなった。氏が乱発した嘘は、SNSを通じて嘘の世界を構築した。嘘も想像力の産物である。嘘は何でもありだから、現実世界よりも面白い。

 嘘を共有する人々にとっては、嘘が嘘であっても構わない。嘘は自由な! 世界である。幼児の世界である。幼児は思いつくままに嘘をつく。想像力が羽ばたくから幼児はすこぶる元気である。幼児の嘘は可愛げがあるし、大人になる通過点である。一方、大人になった人間が嘘をつくのは、本人のみならず、社会を堕落させる。

 「真実という縛り」がある世界は有限でも、嘘の世界の自由は無限大である。民主主義は自由を大切にする世界であるが、嘘の自由を認めた結果、社会は確実に無秩序となる。幼児の嘘の世界はせいぜいボクちゃんの周辺だから笑ってすませるが、社会全体が嘘の領域となれば、人々が拠って立つべき社会規範を失うから、面白い嘘だと笑ってはいられない。

 嘘の世界を支配する者が、政治や社会を支配するとき、彼はデスポット(専制君主・独裁者)である。そこではデスポットが思いつくことが真実であり、彼の舌先三寸が法律である。わたしたちは、ここ数年、下手な舌先三寸を駆使して言い逃れを図る為政者を見続けてきた。

民主主義とは何か

 古代ギリシャの詩人・アイスキュロス(前525~前456)は、――無政府の生活も専制政治の生活もいずれも讃えるな――という名言を残した。自由は、無秩序ではない。同時に、秩序は誰かによって与えられるものでもない。社会は、自由と秩序が共存しなければならない。

 社会を作っているのは1人ひとりだから、秩序を作るのは1人ひとりでなければならない。社会秩序の上に、1人ひとりが自由を謳歌する。これが、古代ギリシャのデモクラシーの精神である。社会にせよ国家にせよ、人々が、お互いの自由と秩序を創造するように参加しなければならない。

 2500年前にギリシャ人が到達していたデモクラシーの精神を、現代人は理解しているであろうか? 

 だから、彼らは、社会にせよ国家にせよ有機体であって、組織ではないことを認識していた。組織とは、組み合わせとか組み立てる意味であるが、単に織物のように器官が構成されてるだけではなく、有機体であるべきだとする。英語では、前者がtissueでありであり、後者がorganizationである。

 生物としての人間は無機質的に織り上げられない。社会の参加者が、社会秩序を目的意識的に追求してこそorganizationといえる。目的意識的に秩序を追求する前提は1人ひとりの理性である。理性は、思慮的に行動する能力であり、判断力であり、そのようにあろうとする意志である。

 卑近な事例をあげよう。歩道上を自転車が走る。歩道は車道に圧迫されて極めて狭い。自転車に乗る人は車道を走るのが危険だから、歩道を走る。しかし、歩行者優先で徐行しなければならないことを失念しているか、無視する人が少なくない。車道を走りたくない自転車乗りの気持ちはわかるが、歩行者を無視して歩道を相当の速度で走るから、秩序が壊れる。

 道路交通法という法律が守られるならば秩序は維持されるが、守るか守らないかは1人ひとりの意志である。警察が自動車のネズミ捕り同様に歩道で監視を徹底しなければならないのは、恥ずべき事態である。誰かが秩序を与えることになるのだから。

 社会組織はtissueではなく、organizationだという事例である。小さい応用問題ではあるが、自由と秩序の関係は、こんなものだ。社会は1人ひとりの生活の総和として現れる。国家は、社会を作っている1人ひとりが、よりよい生活をできるように、それを目的とした活動体である。1人ひとりが自分のよりよい生活を求めるのであれば、個人としても目的意識的に政治に参加する必要がある。

 国家にかぎらず、組織には約束があり、約束によって組織運営には権力が発生する。リンカーン(1809~1865)の――of the people、by the people、for the people――というあまりにも有名な言葉がある。 

 封建社会では、ofもbyもない。なぜなら、――of the despot、by the despot、for the despot――であって、人々は、ささやかに善政を期待するしかないからである。

 いま、人々においてpeopleとしてのofとbyが十分に意識されているだろうか? 欧米においては数百年をかけて民主主義を育ててきた。わが国においては、わずか75年である。しかも、欧米では人々が自分たちの思想と行動において民主主義を生み出したのに対して、わが国では敗戦によって突然民主主義が与えられた。

制度が人を作るのではない

 目的意識的に追求したのと、与えられたのとでは、精神的重量感が大きく異なる。与えられたという面からすれば、明治の大日本帝国憲法も日本国憲法も同じ土台である。

 お隣の中国は、1911年に辛亥革命で封建清朝を倒して孫文(1866~1925)が民主主義国を創建したが、反動軍閥によって崩壊させられた。魯迅(1881~1936)は、「清朝を倒すのは復古だから容易だったが、民主主義は人々1人ひとりが意識改革しなければ育たない」と冷徹な予言をした。

 やがて中国は、日本帝国主義による満州事変(1931)、日中戦争(1937)、第二次世界大戦(1941)に耐え抜いて、第二次世界大戦の勝者に連なったが、さらに内戦に突入し、1949年に中国共産党が主導する中華人民共和国を建設した。アヘン戦争からざっと100年の苦闘の歴史が生み出した。

 現代中国は、20世紀に2度の革命によって生まれたのであり、国民自身が作り上げてきた国家体制である。日本とは政治体制が異なるだけではなく、国家に対する気持ちも日本的アパシーとは大きく異なる。

 中国は民主主義体制ではないが、人々の――of・by・for――意識は日本人の及ぶところではない。今後、中国は加速度的に日本との総合力格差を拡大していくだろう。その根源は、中国の人々が個人的生活と国家との結びつきについて極めて真剣に考えかつ取り組んでいることにある。

 中国共産党が、単純に国民を専制権力で抑えつけているのであれば、1978年以来の改革開放が成功するわけがなかった。

 総括的にいえば、中国という国家は実際に「有機体」として力を発揮しているのである。一例をあげよう。中国の人々はまことによくしゃべる。話好きが多い。おおいに自己主張する。他方、民主主義国であるのに、日本人はコミュニケーション能力が極めて低い。中国が力をつけたのは、1人ひとりが力をつけたからである。体制の違いにばかり着目し、嫌中感情を振り回して自己満足するような日本人的心情では、ジリ貧を加速するばかりであろう。

 いささか脱線気味になった。われわれは、民主主義を本当に理解しているだろうか? 1人ひとりが自由の素晴らしさを真剣に見つめないかぎり、民主主義は育たない。なぜなら、個人が育たないからである。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人