月刊ライフビジョン | メディア批評

菅内閣で進む社会の分断化

高井潔司

 菅義偉首相がようやく国会で就任後初の所信表明演説を行った。「温室ガス2050年ゼロ」など「政策ずらり 実行力強調」(10月27日付朝日新聞見出し)と期待を持たせるような報道ぶりだが、「2000年以降では最も遅いタイミング」の所信表明演説であり、この間、学術会議の任命除外問題をはじめ国民に対する説明不足、説明責任の放棄、国会軽視が目立つ。問答無用と言わんばかりの説明責任放棄は、議論の深化と合意の形成という民主主義のプロセスの否定であり、社会の分断化をもたらす。いくら「庶民宰相」を強調してみても、安倍亜流政権の馬脚を現したかっこうだ。

 結論ありきで、その結論に至る事実の説明がないので、議論の対象となる事実もなく、議論の場が設定できないからだ。その結果、結論に賛成、反対だけの対立だけが前面に出て、賛成派と反対派の分断が深まってしまうのだ。

 学術会議の問題で言えば、野党が要求する6人の候補者を排除した張本人と見られる杉田和博官房副長官の国会招致を「事務方の国会招致は前例がない」と拒否した。菅政権は「前例を踏襲しない実行型内閣」が売りではなかったのか。6人排除も「前例を踏襲しない」「総合的俯瞰的に判断した」という説明にならない説明に終始してきた。要するにこの政権は、前政権同様、自身の都合に合わせて二枚舌を駆使するのがお得意だ。

 それに伴い、新聞論調の分断もますます鮮明になってきた。リベラル派の朝日は、例えば27日付紙面で、「『学問の自由』なぜ関わるの?」とう特集を組み「弾圧踏まえた『自律性守る原則』侵害」との菅政権批判の論陣を張る。しかし、保守派を代表する読売新聞は、学界や野党の懸念の声はほとんど取り上げず、政府見解を見出しにした記事ばかりで、社会問題として取り上げようという姿勢がない。この問題は「政治部マター」ととらえているようで、社会面での扱いがほとんどない。ちなみにこれは菅首相がいうところの「縦割り」の弊害が新聞社にも出ている。政治部記者は政府と政党にへばりついてその動向と発表の報道に重点があり、問題意識が弱い。政治部記者が社会面に、社会部記者が政治面に記事を書くことはない。朝日は社会部が前面に出て取材している。だから社会面に記事が出るケースが多いというわけだ。

 さて、同じくリベラル派の毎日新聞は朝日以上に力を入れて政府批判の記事を掲載している。特にデジタル版では「排除する政治、学術会議問題を考える」という連載のスタイルで幅広い専門家の意見を集めている。したがって、政府に批判的な意見と言ってもかなり多様だ。

 例えば23日配信では「学術会議は問題あるが…それでも小林節氏(慶応大学名誉教授)が首相を糾弾する理由」と、かつて学術会議を偏向していると批判してきた小林氏を登場させ、菅政権の問題点を深堀りしている。また25日には、「なんで、いま、みんな日本学術会議に関心を持っているの?新政権のツッコミどころだからというだけでしょう」との意見をツイッターに投稿して炎上させた西田亮介東工大准教授を登場させて、その真意を聞いている。

 この連載とは別に毎日新聞の投稿記事で、私が冒頭述べた見方に近い内容で注目したものを2本紹介したい。21日付夕刊に掲載された批評家、浜崎洋介氏の「『内容』と『形式』」という一文。「人事介入容認派は日本学術会議が反政府的な既得権益集団だとして批判し、対して反対派は任命されなかった6人の学問的中立性や業績の素晴らしさをもって擁護するが、問うべきはむしろその良し悪しを議論すること自体のルール(形式)を、その理由と法的根拠を示さないままに菅政権が否定したことにこそある」と指摘し、「私たちは他者との『共存』するための『手続き、規範、礼儀、調停、正義、道理』の観念を必要としてきた」と述べている。全文を紹介できないので、少々わかりにくいかも知れないが、次の一文と合わせて読めば、さらに理解が深まるだろう。25日付朝刊に掲載された藻谷浩介日本総研主席研究員の「民主主義の本質は議論」である。

 「(学術会議の)次の標的はNHKと地方自治体なのだろうか。菅義偉首相はその先に何を狙っているのだろう。ひょっとして『シャンシャン総会』に全精力を注ぎこむ大企業総務部のごとく、異論が表に出るのを封じること自体が自己目的化しているのではなかろうか」「そもそも『民主主義イコール多数決』という発想は間違いだ。何事も多数決の裁断に従うというのは、絶対王制における『王様』を『民衆の中の多数派』に替えただけのことである。王様だけでなく、折々の多数派も間違える。だからこそ人類は憲法を考え、法体系を整備し、多数意見とは異なるかもしれない事実を発見すべく学術を発展させ、さらには権力を持つ者に内省を促すべく倫理規範を創り上げてきた」と述べている。藻谷氏は菅政権の手法を「日本政治の中国化」とさえ批判している。

 菅首相は、学術会議には「国税が入っている」、「国家公務員になる」と問題のすり替えに懸命だが、「国家=政府=多数与党」という発想から政権与党の意にそぐわない学者を排除しようとしているのは明々白々だ。それは、政府や国家の私物化であり、安倍政権の踏襲でしかない。戦前の日本の全体主義思想に通じ、現在の「中国共産党の体制」と変わるところがない。

 国税が政党助成として百数十億円も入っている自民党。その一部を選挙違反資金に回した可能性の高い議員夫妻を除名処分にさえできない党が、10億円の国税で運営する学術会議の人事に、口をはさむ資格などあるのだろうか。刑事被告人の夫妻は依然、国会議員のままである。

 ところで、事務方の官房副長官の国会招致は前例がないとの自民党の森山裕国対委員長の対応だが、16日付東京新聞は過去に出席例があったと、西松建設の違法献金事件とリクルート事件での事務方副長官の出席例を報じている。学術会議問題をめぐって、自民党幹部から次々と学術会議を貶めるフェイク情報が投げ込まれる。下村博文政調会長(元文科相)の「学術会議は2007年以降、答申がない」。長島昭久議員、細野豪志議員の「6年間学術会議会員になれば終身年金が出る」。甘利税調会長の「学術会議は中国の(海外人材支援プロジェクト)千人計画に協力している」。年金、千人計画への協力は全くのデマ。答申がないのは、政府が諮問をしないだけのこと。元文科相として事情を知りながら、意図的にデマ情報を流す人物が、学術会議の改革を議論する自民党の会合を主導するとは笑止千万もいいところ。マスコミには、政府や与党幹部の発言を常にチェックしていく任務がある。

 それにしても、与党のこうしたやりたい放題、言いたい放題を許している野党も、この社会の分断化を促す一因を作っている。数々のスキャンダルが起こるたびに、もう鬼の首を取ったかのように威勢のいいコメントを繰り返す立憲民主党の安住淳国対委員長。森山国対委員長のフェイク情報をあっさり受け入れ、議論を閉会中審査にも持ち込むことができなかった。この人はまるでオオカミ少年のようだ。問題提起だけして、議論の場さえ設定できないのでは、国民の間にストレスだけを残すことになる。社会の分断化はアメリカだけの問題ではなくなっている。

 いまいくつかの国立大学で、学長の選任をめぐってトラブルが起きている。これも大学自治への外部の介入が背景になっている。ことはもはや学術会議にとどまらない問題となっている。 

 野党には国会で粘り強く議論を詰め、国民の納得の行く打開策を見出してほしい。そうでなければ、ますます分断の亀裂を大きくするだけある。


高井潔司 メディアウォッチャー

 1948年生まれ。東京外国語大学卒業。読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て、桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授を2019年3月定年退職。