月刊ライフビジョン | 論 壇

偉大な交響曲「再生」へのオマージュ

奥井禮喜

――交響曲第2番ニ長調作品36から――

久々のオーケストラ公演

 コロナ騒動のお陰だろうか、今年は3月からの半年の過ぎるのが格別に早かった。日々の暮らしに変化が少ないからだと考えてみるが、そもそもわたしの生活は以前とほとんど変わっていない。出不精であり、事務所で机の虫しているのが生業であるし、世間の雰囲気を窮屈に感じるとしても、自身が物理的に窮屈なわけでもない。なぜ短く感じるのかは、少し不思議である。

 楽しみのクラシック・コンサートは、この間おおいに影響をうけた。わたしは、ただ聴くだけのクラシックファンであるが、オペラシティ・コンサートホール・タケミツメモリアルの年間公演もコロナ騒動で、中止や日程変更、さらに座席の再指定手続きなどがあり、主催者の苦労がしのばれる。

 ともあれ8月末は4月公演の振替日で、ひさしぶりにいそいそ出かけた。チケットは自分で半券をちぎって箱へ、パンフレットを取って2階の舞台を見下ろす指定席へ行く。隣席を1つ空けるだけで年間予約席と同じである。むしろゆったりしてありがたい。客の入り具合は、目測で3割、多くても500人程度であろう。ここからは舞台の指揮者の正面が見えるので気に入っている。

 当日のお目当てはベートーヴェン(1770~1827)の『交響曲第2番ニ長調作品36』、いままでパンフレットもちょいちょいと見るだけだったが、今回は心を入れ替えて事前に少し調べてメモを取った。ひょっとするとコロナ騒動がなければ例によって気持ちよく演奏を聴くだけだったかもしれない。

ハイリゲンシュタットの遺書

 ベートーヴェンの交響曲は9曲、制作年は、第1番が1800年、第2番が02年、第3番「エロイカ」が04年、第4番が06年、第5番「運命」と第6番「田園」が08年、第7番が12年、第8番が14年、第9番「合唱付き」が24年、第10番は未完である。

 第2番は、素人の情けなさで相対的にあまり有名ではない(と思っていた)。しかし、ベートーヴェンを語るについて第2番は極めて大きな意味を持っている。ベートーヴェンは最初モーツァルト(1756~1791)の影響をうけていたが、ベートーヴェンがベートーヴェンになったのが交響曲第2番の創作による。当時の音楽界はモーツアルトが最高権威であり、それと異なる作風に轟轟の批判がある中で新しい音楽を確立していく。これだけでも偉業だが、もう一つ、28歳で難聴を患った。音楽家にとって聴覚を失うことは致命的である。

 致命的な身体異変に襲われたベートーヴェンは自殺をも考えた。1801年6月29日に書かれた「ハイリゲンシュタットの遺書」には、その苦悩と、苦悩を克服した心の動きが記されている。一部抜き書き要約する。

 「幼いころから、立派なことを成し遂げたいと志してきたが、不治の病になるやもしれぬ。音楽家にとって、自分にとって申し分のない完璧さであった聴覚が衰えたなどと他者に知らされようか。隣に立っている人には横笛の音が聞こえているのに、僕には聞こえないという屈辱。

 僕はほとんど絶望し、もう少しのことで自殺するところだった。――ただ彼女が――芸術が僕を引き止めてくれた。僕は自分に課せられていると感ぜられる創造を全部やり遂げずにこの世を去ることはできないと考えた。

 死が、わが芸術的全才能を繰り広げる機会に恵まれないうちに来るようなことがないように願う。死の来るや遅きを願う。――よしや死が来たとても、僕は満足する。死は、果てしない苦悩から僕を救い出してくれるのではなかろうか。――来たれ、汝の欲する時に。僕は敢然と汝を迎えよう」

 これは遺書であるが――自殺を考えたが、芸術の創造に対する自負をおめおめと潰してなるものか、という気迫が感じられる。そして、芸術の創造を達成せずして死にたくない。もちろん、それがいつかは来る。しかし、自分が求めるのは死ではなくして、芸術の創造だという逞しい雄叫びである。

音楽人生を哲学した

 ベートーヴェンが育ち、終生愛着をもったボンは人口1万人の小さな町であった。啓蒙主義の香が高い町であったという。ベートーヴェンもまた、プラトンやカントを勉強していた。音楽、芸術は生きる自分が生を表現するのであり、充実して生きるために作曲するのである。音楽は哲学することである。これがベートーヴェンの真骨頂であった。

 ベートーヴェンの作風は、楽想をスケッチして、くり返しくり返し検討を加えたそうだ。楽想を練ること自体が生である。芸術の内容を深く掴む。努力する価値があるからこそ芸術であり、芸術だからこそ生の価値がある。音楽は、その魂から火を打ち出さねばならない。この辺りがベートーヴェンである。

 1812年に、ベートーヴェンは尊敬するゲーテ(1749~1832)と邂逅する。ゲーテは63歳、ベートーヴェンは42歳。ゲーテはその印象を、「これまでに彼以上に強い集中力をもつ精力的な内的に充実した芸術家を見たことがない」と書き残した。ゲーテは、まちがいなく偉大な芸術家であった。若い時代の疾風怒濤期のゲーテであれば、両者間に火花が飛び散ったであろうか。

 ベートーヴェンの評伝を書いたロマン・ロラン(1866~1944)は、「ベートーヴェンは嵐の1日にも似かよう全生涯をもった」、ゲーテとの関係については、「ゲーテは、ベートーヴェンの音楽に賛嘆していたが、それに恐れを感じていた。ゲーテの心の安定を奪ったからである」と書き残した。

 ゲーテは、当時も生涯の大作『ファウスト』を書いていたし、小さなドイツの芸術家たることに満足するのではなく、あまねく世界の芸術家たることを目指した人である。先輩の大芸術家であるゲーテが畏怖したとすれば、それはまたハイリゲンシュタットから再起再生して、生涯を芸術に打ち込んだベートーヴェンの人間的な迫力や偉大さを示している。

 「芸術家は、自分の人生を、言葉や形象や思想の中に固定し、人生に意味と形式を与える」(T・マン 1875~1955)という。この言葉は固いが、人生のいかなる意味においても、人生に活気を吹き込むものが芸術であろう。とかく世の中は我が意に沿わぬことばかりである。そのような逆境において、人生を芸術するという態度は、専業芸術家! に限らず、1人でも多くの人が頭に置きたいことではなかろうか。とりわけ、今日のような時期には――

ベートーヴェン的精神

 「音楽は、新しい創造を醸し出す葡萄酒です。わたしは人間のために精妙な葡萄酒を搾り出し、人間を酔わすバッカスです。酔いから覚めたとき、彼らはあらゆる獲物をもっており、それを正気の世界に持ち帰るのです」

 音楽は何よりも感性に訴えかける。理性よりも感情である。たとえは俗っぽいが、昔のパチンコ屋の軍艦マーチの扇動力はいまも忘れ難い。一方、わたしの友人のT氏は、意に沿わぬ職人人生に入って悶々としていた10代後半のある日、たまたま街を歩いていて、聞こえてきた美しい讃美歌に引き込まれて教会へ入った。以来、生涯をプロテスタント労働者として生きられた。

 音楽の魔物性を指摘する見解は少なくない。たとえば禁欲的な教会音楽からすれば、どこへ向けてか知らぬが、音楽を聴いた人がいままでの精神的殻を破って大胆に発散するとすれば、デーモニッシュということになるかもしれない。ショーペンハウアー(1788~1860)は、「音楽は他の全ての芸術のように現象の模写ではなく、直接に意志そのものの模写である」と指摘した。

 ニーチェ(1844~1900)の流儀であれば、「(キリスト教において)生はもともと非道徳的なのだから、音楽を聴いた人間が生において陶酔する」のは、悪魔の所業ということになるのかもしれない。ニーチェは、音楽の芸術的衝動は陶酔であり、それこそが音楽の根本的衝動だとする。

 しかし、ベートーヴェンは音楽を悪魔的と考えてはいなかった。「神聖なものと人間のかかわりあいは信仰であるが、われわれが芸術から得るものは神の聖なる啓示であり、人間の能力が到達すべき1つの目標となる」という思想である。「わたしはなんら恐れることなく神と交わり、いつも神の力を感じ、またそれを知っています。自分の芸術には何の不安も抱いておりません。わたしの芸術に悪い運命などあるわけがありません」

 この思想は、先月紹介したパスカル(1623~1662)とよく似ている。いわく、「われわれ(人間)の行為は、それを生み出すから自身のものである。われわれの意志をして、それらを生み出させる恩寵のゆえに神のものである」。自分が一所懸命考えて、想像して、創造する。その行為は自身のものだが、それは神の恩寵のゆえである。このような考え方には、ベートーヴェンが難聴に襲われ、また、他にも病気を抱えていたが、それをきっぱり運命として受容し、その中で自分がやれることを力いっぱいやる、という達観した精神力が感じられる。

再生の記念碑

 ベートーヴェン『交響曲第2番ニ長調作品36』の初演は、1803年4月5日、アン・デア・ウィーン劇場で、ベートーヴェン自身が指揮した。

 同時期の作曲で大人気であるのは、『ピアノソナタ第14番「月光」作品27-2』である。この曲は、わたしが社会人2年目の、やや虚無的傾向! を抱えていたとき、独身寮同室の4歳先輩がダイヤトーン・スピーカーで聞かせてくれた。照明を落とした部屋に月光が差し込み、家々の屋根に反射して、故郷の穏やかなときの日本海を想像した。

 難聴でやがてほとんど聞こえなくなった大音楽家ベートーヴェンの曲だという程度は知っていたが、それが人生の大苦悩を克服して大作曲家への道を歩み始めたときの曲だということは知らなかった。知っていても、さして心を打つものがなかったかもしれない。

 また、この時期にベートーヴェンは『交響曲第3番変ホ長調「エロイカ」作品55』にも取り組んでいた。ナポレオンに謹呈するつもりで構想していたが、彼がフランス革命の混乱に終止符を打とうとしただけでなく、革命以前に戻そうとしたこと、侵略戦争に転換したことから、ベートーヴェンは自分の幻想に気づき、表紙を書き換えたという有名なエピソードがある。

 ベートーヴェンは作品について、「芸術の真の創造物は、生み出した芸術家から独立しており、また、もっと力のあるものです」という考え方である。作曲家自身は、自分が生きるための問題を解決するために音楽に挑むのであるが、それが形になって自己表現した暁には、作品は独り立ちする。価値ある作品は、それからの時代を自身が生き抜いていく。

 それは、ニーチェ的バッカスの世界とは異なる。1819年7月27日には、ベートーヴェンは「自由と進歩のみが、すべての偉大な創造におけると同様に芸術の世界の目的です」と語った。これも、学びたい言葉である。

 『交響曲第2番ニ長調作品36』の演奏は、心地よく、生誕250年に当たるベートーヴェンの、長くはなかったが、「芸術家は火と燃えています」という人生をしみじみ追慕した。この曲には愛称がないが、わたしは、「再生」という言葉を付けてみた。目下は、トスカニーニ指揮のCDで楽しんでいる。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人