月刊ライフビジョン | 論 壇

ゾンビ政府――イギリスと日本

奥井禮喜

貴重なお手本

 イギリスの『The Times』紙は、6月21日、エリザベス女王が議会演説(内閣が起草した施政方針演説を議会開会に女王が読み上げる)した後、メイ首相が率いる政府を「ゾンビ政府の抜け殻」だと評した。酷く面白い。
 日本流なら死に体という辺りだ。政敵の労働党コービン党首が「選挙公約を十分に盛り込まなかったから、首相は権威を失った」と上品な! 批判をしたのと比較してもかなりボロクソである。
 イギリス国民投票でEU離脱(昨6月23日)が決まり、キャメロン首相が退陣してメイ首相が登場した。メイ首相の人気は高かった。彼女は、EU離脱のいわゆるハード・ブレグジットを推進するとして、6月8日の下院選挙に打って出た。一方に、単一市場や関税同盟に残留せよという声があるが、移民制限を最優先する離脱強硬派の考え方を押し出した。もちろん離脱交渉はEUとするのであるから、総選挙で勝利したからといって対EU交渉が有利になるわけではないが、内憂外患の内憂を解消したいという狙いであった。
 メイ首相の保守党は、4月18日時点で支持率44%、第2党の労働党は23%で、20%の差をつけていた。圧倒的多数を制して国内政治の主導権を握りブレグジットを進める戦略は「博打」的ではあるが、イギリスのメディアはもとより、EUも、イギリスのEU離脱が順調に進められることを期待するから、少なからず歓迎の雰囲気があった。
 ところがどっこい、メイ首相が打ち出した公約が、国内のさまざまな格差問題に不満をもつ多数の国民の批判を食らった。選挙戦でのメイ首相のスピーチ態度までもが酷評される始末で、第1党は維持したものの、330議席から318議席へ大幅に減らして、主導権強化どころではなくなった。
 一方の労働党に対しては、コービン党首がオールド・レフトで時代遅れだという見方が支配的であった。彼は、(愚直に)イギリス国民の格差に対する不満を汲み取ろうとした。蓋を開けてみれば、彼の戦略が奏功して、第2党の地位は変わらなかったが、229議席から262議席へ大幅に伸ばして、保守党との20%格差を帳消しにした。労働党の勝利は明白である。
 メイ首相が対EU問題を押し出したが、国民は国内(格差)問題を第一に考えた。というのは後付の理屈である。国民が、僅差とはいえEU離脱を選択した背景には、もともと格差をはじめとする国内問題が原因であった。コービン党首は「For the many, not the few」を掲げた。メディアは「意外なコービンの底力!」と評したが、極めて当然の主張をし、当然の支持を受けたとみられる。
 国民投票も、キャメロン首相自身がEU離脱を望んでいなかったのに、保守党の人気高揚をめざそうとする文脈から生まれた。メイ首相も多数派獲得を目論んで下院選挙に踏み切った。キャメロン前首相もメイ首相も、国民が政治に期待しているものが「なにか」を読み違えていたと考えねばならない。
 選挙結果をみると、保守党は42.2%、労働党は40%得票した。つまり2大政党は合計82.4%の得票をした。しかも保守党の得票率は1983年以来の高得票率である。労働党が、保守党との格差を縮めた理由は明確である。「多数者のための政治を」という声がまとまったのだ。
 その結果、イギリス政治は「hung parliament」(日本流なら保革伯仲だ)になった。メイ首相が狙った強いリーダーシップ確保はできなかった。『The Times』紙の比喩、「ゾンビ政府の抜け殻」は的を射ているようでもある。ただし、メイ首相による解散総選挙の前段では、メディアも、メイ首相を「なかなかやるじゃないか」と持ち上げていた。大博打が外れたと、メイ首相を嘲笑しているわけにはいくまい、とわたしは思う。
 それだけではない、メディアがコービン党首を骨董品扱い! する傾向が著しかった。労働党を(時代遅れの)抵抗運動と理屈づけして片付けていたのだが、労働党は国民的要求を代表していることが確認された。選挙で民意を確認するというけれども、とかくイメージ選挙に流れていて、国民各層によって作られている社会意識の基底に触れていないのではないか。そして、その一端はジャーナリズムにも十分に責任があるはずだ。
 デモクラシーというものは、まことに難しい。慎重にやらねばならない。
 女王が政府の施政方針演説を朗読する時代でなければ、国家戦略決定に際しては、少数の政治的エリートによる意思決定でことが運ぶ。しかし、いまは主権在民である。圧倒的多数の「しもじも」が、なにを考えているか。それを見抜いて政治的意思決定をしなければならない。要するに、今回のイギリス下院選挙もまた政治的エリートが、圧倒的多数の意識を読み取れなかったのである。

日本的政治状況を照らしてみれば

 イギリスの政治から学ぶものは少なくない。
 丁寧な政治がおこなわれなければ、社会のさまざまな格差は必然的に拡大する。とかく人々の視線は経済に集まりやすいが、経済が活発でもそうでなくても、資本主義は経済的弱者を常に作り出す。
 いわば、自由放任に流れやすい資本主義経済を前提すれば、デモクラシーの政治は、いかにして格差を減らすかという視点が最大価値(=存在理由)でなければならない。株が上がって経済が成長すればすべてよし、と考えるのはあまりにも軽率である。
 いずれかの政党が議会の主導権を掌握して、「決める政治」がおこなわれるべきだというのは短絡的思考である。2大政党であろうが、多数政党であろうが、大事なことは1点に絞り込まれる。つまり、結果として「圧倒的多数の人々の意識」が政治全体に反映されるかどうか。「最大多数の最大幸福」という言葉は、少なくとも社会がいままでより改善される方向になければナンセンスである。「最大多数の最大幸福」を看板として、多数決で決定すればよいのではない。
 実際、社会が複雑になればなるほど、2大政党よりも多数党政治になると考えられる。政局の安定とは、政党同士の関係(=議会の意思決定)が円滑なことを意味する。ところで、政局の安定が政治の安定と同じ意味であろうか?
 圧倒的多数党が議会を牛耳っていれば政局は安定するが、政治が安定するとは限らない。政局の安定と政治の安定は違う。求めるべきは政治の安定であって、政局の安定ではない。わが国の政治は、この問題が見失われている。
 民主党が圧倒的多数で政権を奪取したときは、その政治力量の未熟さが目立った。なにしろ戦後政治において、自民党以外の政党が政権を担ったことはほとんどない。その結果、再び自民党が政権に復帰した。では、自民党の圧倒的多数による政治が安定しているであろうか?
 たまたま民主党は、政治改革の本丸を官僚支配政治の打破に絞ったから、官僚体制と衝突した(と、わたしは思う)。もう少し慎重にやれば、それなりに新しい展開があったかもしれないが、不十分なままに野に下った。
 政権復帰した自民党のお手並みは巧みであって、政官蜜月時代が構築されたように見えた。しかし、いまや、街頭にも出るし、さまざまな方法で現在の政権運営に対して、国民が異議申し立てをしている。一部、官の異議申し立ても飛び出した。(*これは十分に意義があるが今回は触れない)
 かくして、「政局の安定が政治を不安定」にしているという皮肉な事情にある。
 なるほど、政局は1強時代であるから、議会の審議がまるで成り立たなくても多数党が意思決定できる。その意思決定が政治を不安定にしている。という事実に対して、国民の厳しい視線が目立つようになった。この厳しい視線こそが、デモクラシーを育てる栄養である。大事にしたい。
 この間の自民党政治家の妄言・失言・暴言の乱発は酷いものである。わが議会が「hung parliament」であれば、かの発言をした連中は残らず舞台から退場させられたであろう。なんといっても、ボスの安倍氏が好き放題に喋り、真っ当な答弁をせず、野次将軍と化しているのだから、自民党内部の品位無き状態が好転するわけがない。
 政治は言葉である。政治家が言葉を大事にしないのは決定的に深刻な問題である。憲法を変える以前に、わが議会政治はデモクラシーから脱線した。政府人が、議会で説明責任を果たさないだけでない。平然と嘘をつく。嘘をついても政治家でいられるというのは、彼らが政治を好き放題に牛耳られるからであって、問答無用の野蛮な時代に逆走しているのである。
 ゾンビ(zombie)とは、呪術によって生き返った死体である。西インド諸島にブードゥー(voodoo)という呪術的・魔術的性格が強い宗教があるそうだ。ところで、戦前のわが国を支配した国家主義は、明治維新が生んだ呪術的・魔術的な精神を押し出した国家主義であった。もちろん、デモクラシーの精神とは全然相容れない。
 今上天皇がデモクラシーにおける象徴天皇のあり方を一所懸命追求しているような姿と比較すると、安倍氏を領袖として暴れ回る政治家ならびに取り巻きの諸君は、わたしにはゾンビにしか見えない。ゾンビであるから、現生の人々の言葉が通じないらしい。これ、現実の政局である。
 『The Times』紙がメイ首相に奉った「ゾンビ政府の抜け殻」は、酷評に過ぎる。わが国の「ゾンビ政府」こそが、本もの! である。欧米のデモクラシー基盤の強さは、メディアをして、そのように辛辣な批判を謹呈する。デモクラシーの精神からすれば、まことに健全である。
 デモクラシーというものは、畢竟、「権力」をいかに掣肘できるかが勝負である。なぜなら、権力は、それが行使される対象(国民)に対して不寛容だからである。多くの国民が不寛容な政治家に寛容を期待している。踏みつけられて、後でぶつくさ言うのは手遅れである。
 政治における意思決定において、真っ当な審議がなされない事情における権力の行使は、人々をことさら政治から遠ざけるであろう。
 人は醜悪なものを避けようとする。政治が腐臭紛々である。もともと、わが国民は政治的無関心の傾向が強い。ますます、個人生活の安心・立命へと駆け込もうとする人々が少なくないかもしれない。しかし、それではなにも改善されないだろう。
 噛みしめたい言葉がある。
 ――かつて人々は自由に思考することを許されなかった。
 いまや、それが許された。しかし、自由に思考することが許されたときには、自由に思考できなくなった。――(オズワルド・シュペングラー)


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 
経営労働評論家 
OnLineJournalライフビジョン発行人