月刊ライフビジョン | 論 壇

パスカル『パンセ』で心を洗う

奥井禮喜

欧米キャッチアップ

 ざっと100年前、大正から昭和へかけて、学生さんはおおいに本を読んだらしい。歴史学者の貝塚茂樹(1904~1987)は「大正時代の学生の間では、カントを理解することはカントを超越することだという言葉がはやった」と語った。進んだ外国文化を採り入れて自分たちのものにするだけではなく、さらにその上を目指そうという心意気であったそうだ。

 残念ながら、その後の軍国主義による海外侵略方針に飲み込まれて、神がかり的国粋主義へと流されてしまった。一例を挙げれば、政府は、敵性語として英語を使わない方針を取った。戦時下において、アメリカが徹底的に近代日本の研究をおこなっていたのとは正反対に、ひたすらおらが大将で、孫子流「敵を知り、己を知る」という程度の常識すら放棄した。

 権力は民衆の愚昧の上に成立しやすい。いや、むしろ権力は民衆の愚昧の上にこそ胡坐をかくという体験を肝に銘じなければ、社会や国の発展などは夢のまた夢でしかない。これを75年前に大方の日本人が認識したはずであった。しかし、いまや当時の再生した心持を体験した方々は社会のしんがりに位置している。敗戦後再出発当時からみると、社会を中心的に担う世代は三世代目に入っている。

経済大国の幻想が吹き飛んだ

 敗戦後、幸いにも戦争という事態とは無縁に暮らしてきた。生活基盤を維持したのは経済である。そのピークは敗戦後40年の1980年代半ばであった。その後95年には阪神淡路震災、2004年中越地震、11年東日本大震災、14年中四国8月豪雨、16年熊本地震、17年九州北部豪雨、18年中四国近畿豪雨、19年台風19号関東、そして20年コロナウイルスと九州豪雨でほぼ毎年連続して大災害に見舞われている。とくに今年の災害はまだ復旧の見通しどころか、コロナウイルスの行方が皆目わからないし、「日本力」(なるものがあるとして)の脆弱さを政治経済社会の全面にわたって露呈した。

 すでにJapan as No.1の幻想に浸っている人はいないであろうが、さりとて、目下の困難を克服していく活力が発揮されていない。非常事態宣言を発し、たまたま! 沈静化すると、日本モデルでコロナウイルスを抑え込んだと調子づく。7月の感染拡大に対しては拱手傍観、基本的方針が右往左往、ただいまは神の国のご威光に期待をかけるみたいな不細工である。ために、行動の不自由と重たくうっとうしい気風が社会を覆っている。焦っても詮無いことである。もちろん、漂うだけでも仕方がない。

心を洗う

 転んでもただでは起きないというのは少し品がないが、この際、七転八起、心機一転の元気を引き出すために、いままでの垢落とし、心の洗濯のために、今回はパスカル(1623~1662)『パンセ』(思索・思想)を少し紐解いてみよう。

 はじめて『パンセ』を読んだのは50年前であった。書棚に上下2巻があり、おりおりに読んでは考えてきた。パスカルは、10代から20代にかけて数学・物理学の分野で天才的成果を上げた。30歳前ごろから人間の研究に没頭した。

 社会の問題はすべて人間の営みである。体系的学問として哲学するのではなく、人間を見つめることから出発した。およそ人間の状態は、気まぐれ、倦怠と不安のくり返しではないか。この世の空虚を悟らぬ人は、その人自身が空虚である。(だから)自己反省に努め、自分とは何か、どこから来てどこへ行こうとするのかを考えねばならない――これが一貫して流れている。

 まだ宗教改革(1517)の嵐が吹きまくっていた。西欧中世の精神史は、キリスト教会のマイナス面が大きく影を落としている。宗教界と俗界の権力と利権がこんがらがって大騒動であった。パスカルもまた、宗教の空虚、狂気、誤謬、迷妄、不条理を認識せざるを得なかった。

 誰もが勝手に自分の神を設えているではないか。ただし、彼は、後のフォイエルバッハ(1804~1872)のように、人間が神を作ったとは考えない。どこまでも神と人間の関係において考え抜いた。――世界は1人の神の創造物である。作られた人間が神の言いつけを守らず、原罪(original sin)を背負った。そこから人間の悲惨が始まる。弱く、誤謬だらけ、見るべきものを見ない悲惨である。これに気づかねばならない――

 体力を消耗し病気生活に入らざるを得ないほどに思考を重ねた結果、パスカルが決定的に回心(conversion)したのは、1654年11月23日夜、31歳であった。それからパスカルは、宗教論「キリスト教の弁証論」を執筆するために取り組んだが、思索の記録を1,000近い断章として残して、39歳で亡くなった。この断章を編集して、『パンセ』を出版したのは甥のエチエンヌ・ペリエらの尽力による。

 パスカルの宗教的結論は――信仰は論理ではなく、心情である――

 ずっと後に、ニーチェ(1844~1900)が、(要約)キリスト教は奴隷道徳に過ぎぬ、人間の自由な精神を固めてしまうと批判するが、パスカルの信仰には「神任せ」の無責任性は一切ない。(論壇2020.6参照

 ――われわれ(人間)の行為は、それを生み出すから自身のものである。われわれの意志をして、それらを生み出させる恩寵のゆえに神のものである――

 自分の業(わざ)=おこないは、どこまでも自分の自負と責任である。わたしの先輩が余人をもって代えがたい立派な仕事を完成させられたとき、思わず感嘆の言葉を伝えたことがある。先輩は、「たしかに、これは自分にしかできなかった。しかし、なぜ自分にそれができたのかはわからない」と応じられた。先輩もわたしも無神論者であるが、これはパスカルの言葉と等しいと思う。

 ゲーテ(1749~1832)『ファウスト』には、ファウスト博士が、「はじめに言葉ありき」(ヨハネによる福音書の冒頭)を自分流で、「はじめに業ありき」と書く場面があるが、それとも底通しているであろう。

人間の研究

 『パンセ』は人間学(Anthropology)、人間の研究の本である。心理学ではない。もっと根本の人間とは何かを考えたものである。

パスカル流では――人間の本性は運動にある――

 これを解釈すれば、人間が生きることはつねに何かに向かって動く(しかない)のである。時間軸では、過去・現在・未来がある。人間は過去にも未来にも生きられない。ただ現在があるのみである。現在を生きるとは、ぺダルを踏まなければ動かない自転車と似ている。現在は、すべて自分に委ねられる。

 また、原罪は虚無性である。人間は本性が空虚であるように作られている。虚無という錨を引きずって生きなければならない。何ものも絶対確実ではない。これがまことに厄介極まりない。空虚なのだから、自分が意味を作って行動するしかない。「いかに生きるべきか」の答えは、わたし自身が作るしかない。「この世の空虚を悟らぬ人は、自分が空虚である」と前述したが、どこかに、あるいは誰かが答えを教えてくれると思う人は、空虚だということがわかっていないと指摘するのである。

 次の言葉はパスカルの名言として、誰もが知っているであろう。――人間は自然のうちでもっとも弱いひと茎の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。それゆえわれわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存する――

 これは、「あなたがたは何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか」(マタイによる福音書第11章7)からパスカルが考えたものである。パスカルの考えを煎じ詰めれば、「考える」ということに、生き方としての最高善、努力目標を置いている。

 ところが人間は考える前に、動きたがる。あるいは、何ごとかを理解する前に信じたがる。些細なことに慰めを感じたり、些細なことに悩む。これはすべて虚無性のゆえである。周辺に起こることの本質を見抜かねばならない。明るい光が見えにくいものを見えやすくするように、――光りを多く持て=思索することによって、人間の偉大さと愚劣さを発見せよ――という。

 人間は習慣の動物である。考えずに習慣化してしまうと、容易に覆せない。しっかりした意志をもって、まず考えていればダメな習慣に取り込まれないが、理解する前に信じる悪癖があるから流される。すべての行為を意志的になしているかどうか吟味せよというわけである。

 わたしが提案してきた「人生設計」セミナーでは、「定年後の24時間」というゲームがある。ゲームの約束事は簡単である。自分が定年で離職する前提で、定年後の普通の1日24時間に、おこなうであろう行動を24時間目盛りの円グラフに記入する。単純な話、睡眠など必要生活時間以外の時間が容易に埋まらない。なんとか埋めても、少しも手応えがない。

 パスカルが指摘する意志的時間なるものが問われる。果たしてわたしは、納得できる意志的時間を持っているだろうか。このゲームは40年ほど前に開発したのであるが、大方の人は、(かつて仕事時間であった時間に)「何をしたらいいのか?」と悩む。世間のへぼインストラクターは「趣味をお持ち」などと安直な提案をするが、こんなものが有益でないことは、少し考えれば! わかる。実は、考えないからわからないのである。

 なるほど、人間は気晴らしが必要である。気晴らしがなければ気分が窒息してしまいかねない。ただし、気晴らしは所詮気晴らしである。なぜか、それは意志的でない。気晴らしは外からくる。外からくるものだから依存的である。猫じゃらしと同じである。ひょっとすると、昨今の「自粛」において、「わたし自身の時間」の手応えについて感じられたかもしれない。そうであれば、まんざらコロナウイルスも悪いことばかりではない。

 パスカルはこう書いた。――人間のあらゆる不幸は一室にじっとしていられないことから来る――

 これがキリスト教的原罪の本体なのかもしれない。しかし、それが可能な人にとっては、原罪どころか恩寵である。GoToトラベルで右往左往しなくても、世界は——わたしの頭のなかにある。

考える意味についての断片

 わたしの父は寡黙であったが、あるとき「軍隊というところは、前からではなく、後ろから弾が飛んでくる」と言った。軍隊内の理屈にならないパワハラの意味である。無理が通れば道理が引っ込むどころか、はじめから道理がない。あるのは上官に一意専心尽くし抜くことのみである。

 15年戦争での戦没学徒の文章を記録した『きけわだつみのこえ』に掲載された、1人の学生の「わたしは考えない、考えることができるゆえに——」という言葉に触れたとき、わたしは頭をどつかれたような心地がした。考えることをしないというのは人間であることを否定するのである。

 ナチの強制収容所から奇跡的に生還したV.フランクル(1905~1997)は、「人間には最後の一瞬まで内心の自由がある。強制収容所はそれだけは取り上げることができなかった」と書いた。そして、「苛酷な拘禁・収容にあっても、内面的な前進と向上を果たした人々がいた」とも記した。

 単純に比較すれば、日本軍はナチの強制収容所以下だったことになる。軍隊の足並みは揃うものであるが、考えない頭になるのではとても戦争に勝利するなど考えられない。戦争指導部は、アメリカはデモクラシーで兵士の士気がたるんでいるから弱い軍隊だと豪語したらしいが、兵士がものを考えなくなる前に指導部の頭が空っぽであったというしかない。

 わたしは戦後の75年を平和に暮らしてきた。ところで、わたしは、日々本当に考えて生きているのだろうか? 戦争において、考えない兵士が作られたのは恐るべき事態であるが、平和において自由にのびのびと思索しているであろうか?

 いま、わが国のみならず世界は累卵の危機そのものである。なぜこのような事態に至ったのか? 真剣真摯に社会や政治を考える為政者が少なくなったのは疑いがない。見方を変えれば、為政者が人々を頭数でしか見ていないからだといえる。熟慮しない為政者の言葉は発する瞬間から腐乱する。

 中味のない、単に耳障りのよろしい言葉を語っておけば国の運営ができると考えるような為政者を作り出した原因は、まちがいなく政治家を選んだ人々の責任に帰する。ガラガラポンを夢想しても意味がない。

 人間の行為のなかで何がいちばんの価値だろうか? やはり――考える――ことであろう。考える行為があるからこそ、さまざまな活動が生まれる。考える人が増えなければ社会も国も発展できない。

 わたしは、日々現実を見ているが、それは原因ではない。ただ見るだけでは見えないもの――それが原因であり、原因は精神によってのみ発見できる。「考えなさい」というパスカルの声を忘れたくない。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人