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降参75周年の思い――語り継ぐべきこと――

奥井禮喜
語り継ぐべきものは何か

 戦争の体験・記憶を語り継ぐ企画は、「歴史は繰り返す」という陥穽にはまらないための知的作業の1つとして意義がある。しかし、あえて言葉を添えたい。他でもない、体験や記憶は、その人の事柄であって、誰かの話を聞けばそれが必然的に聞いた人の脳裏に刻み込まれるものではない。

 第一次世界大戦(全欧州大戦)は、当初直ぐに終わると見られていたが、5年間も続いた。誰もが戦争はこりごりだと認識した。ところが、苦い記憶が継続している21年後に第二次世界大戦に突っ込んだ。果たして第一次世界大戦は終わったのか、それとも火種が残っていて再び燃え上がったのか。もちろん、開戦宣言があり、手打ちの講和条約が締結されたのだが、火種が温存されていたと考えれば、深い所で第一次と第二次の大戦は継続していたといえる。

 カント(1724~1804)『永遠平和のために』(1795)のなかには、「将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない。平和とは敵意が終わることである」と書かれている。忘れてはならない指摘である。

 わが国と中国・韓国(北朝鮮)との関係を考えた場合、依然として歴史問題が克明に残っている。戦闘行為や支配はつとに終わっているが、カント流ならば、敵意(差別)が残っているのは本当の平和ではない。

 とくに、中華人民共和国が本格的に戦後らしい活動に入ったのは1978年であり、しかも、香港(アヘン戦争以来)・台湾問題という戦時処理が終わっていない。南北に分割された朝鮮が継続している。それらの大きな原因を作ったのは日本である。最近の論壇は、都合のよいところからしか歴史を踏まえていない。踏みつけたものが、踏みつけられたものの気持ちをきちんと忖度しないかぎり、東アジアの円満な関係は構築しがたい。これを無視するならば、いくら時間が過ぎても過去の問題とはなりえない。

 わが国においては、戦争を体験しなかった世代がすでに圧倒的多数である。「わたしは生まれていなかったから責任がない」というような政治家が少なくない。それでいて、方々は国家国民のために粉骨砕身するという。しかも方々は国家に格別の思い入れがある。国家というものは個人とは違う。個人は生まれて死んでいくが、国家はいわば1人の人格として継続しているのであるから、国民を名乗る以上、生まれる以前のことは知りませんとは言えない。まして、国家主義者、愛国主義者諸君におかれては、国家が継続している程度は弁えておかないと、世界各国の方々から、まともに扱っていただけない。

 だから、先の世代が後の世代に対して、いかなる方法で自分たちの体験を伝えるにせよ、後世代が「歴史は繰り返す」の苦い歴史に遭遇しないようにきちんとバトンを渡さねばならない。いまを生きるとは、後世代への橋を架けることである。1人ひとりが橋である。

 さて、戦争に限らないが、すべての体験や記憶を語り継いだとしても、体験しなかった人にとっては所詮他人事である。まして、戦争を体験しなかった世代は少なくとも日々安穏な暮らしを続けているわけで、いささかの知識が増えたとしても、反戦平和意識を醸成するとは限らない。

体験ではなく思索をこそ伝える

 有名なところでは英仏「百年戦争」があった。1337年から1453年まで両国間では断続的に戦争が継続した。イギリスは1430年前後までは大陸に侵攻して、フランスの北部・南西部を支配下に置いた。ジャンヌ・ダルク(1412~1431)が登場して、フランス軍が巻き返し、カレーを除いて全国土を奪回して終結に向かった。

 今日においても、たとえば中東地域は常時戦争状態にある。人々は戦時下に生まれて戦時下に死んでいく。まさに百年戦争である。そこでは、戦争は日常生活そのものであり、誰もが戦争を体験しているのだから、語り継ぐような手間は不要である。戦争の悲惨はおそらく日々の会話のテーマであろう。しかし、いつまでたっても終結しない。いや、この「終結」という客観的な言葉が妥当ではない。戦争は、山火事ではない。人間が始めたのである。ならば人間が止めなければならない。「止める」という意思決定、あるいは「しない」という意思決定が確立しなければならない。

 語り継ぎ、聞いて学ぶべきであるが、戦争そのものの悲惨を語るだけでは問題解決の入り口に立っていない。わたしは先輩から戦争体験をよく聞いた。当然ながら戦地で戦った人は、戦闘そのものの話が多かった。その世代はすでに圧倒的に少なくなった。

 内地での戦争体験は、空襲で逃げ惑ったことや、戦中戦後の飢餓体験が多い。家族離散して、とぼとぼ歩いているとき、どなたかがおにぎりをくれた。涙の塩とともに食べたおにぎりの味は心を打つ。気づけばささやかな美談で心和んでいる。さらに、夜の帳が下りて、静寂のなかで見た月の光を忘れないというような心情を語られると、なんだか甘く切ない心地がする。その苦闘・苦渋を克服された先輩が目の前におられて、奇妙にもホッとする。流れとしては、経過は悲惨であったが、無事団円なのである。

 誰しも、悲惨な体験や記憶は少しでも早く忘れてしまいたい。人として普通の心情である。苦しみ、辛かった体験を何年たってもそのまま記憶しているのでは、いまが辛すぎる。原子爆弾に見舞われた方々が精神と肉体に消しえない刻印を担って、反核運動を継続してこられた。辛さを乗り越えて後世代に伝えるべき確信を固めたわけで、しかも、これは狭い日本だけの愛国心ではない。

 何が大切なのか。語り継ぐべき本質は何なのか。概して、語り継がれている戦争は、戦争そのものであり、いわば結果としての現象である。空から雨あられと焼夷弾が降ってくる。防空壕がないから道端の側溝に隠れる。こんなことはもちろんごめんだ。要は、なぜそんな事態を招いたのか。戦争の原因は何だったのか。これは、逃げ惑う1人の問題のみならず、原因を特定して解決しないことには、理屈上、依然として戦争が終わっていないのである。

日本的軍国主義

 語り継ぐべきは、戦地での戦闘、あるいは戦火に脅かされた原因は何なのかについてであり、1人ひとりが戦争の原因を考える地平に立ち戻らねばならない。戦争の総括をしなければ、本来語り継ぐべき核心がない。それを全面的になさなかったがために、日本の侵略戦争論を唱える人を自虐史観などと罵る人々が登場した。

 なぜ戦争したのかについて辿ると、明治時代に軍隊が組織されたところから始まる。明治政府が軍隊を組織した最大の理由は、政権基盤が軟弱であるから、国民に対して武威を示して、従わせることにあった。明治政府の官吏は圧倒的に旧士族が占めた。軍隊も警察も右に同じだ。守ることであれ攻めることであれ、軍隊の仕事は戦闘である。軍人の事業は戦闘によるしかない。

 太平の徳川幕府時代が終わり、明治になると、旧士族はかつての身分を失った。明治以来、わが国の殖産興業の中心的役割を果たしたのは旧士族であるが、誰もが産業のリーダーとして身を立てられたわけではない。軍隊は、不平不満を抱える旧士族のたまり場であったことも否定できない。北海道開拓使、台湾征伐、琉球処分、日韓併合、日清・日露戦争など、1つの見方として、不平不満旧士族対策の側面があったことは無視できない。

 日清戦争の勝利は望外であった。たとえば福沢諭吉(1834~1901)がうれし涙を流した。日露戦争も然り。アジアに突如登場した一等国という己惚れが朝野を圧したのも不思議ではない。夏目漱石(1867~1916)が、お調子に乗ってはいかんと警告したが、極めつけ少数意見であった。

 そこで、東洋経済新報社時代の石橋湛山(1889~1973)の見方を紹介しながら考えてみたい。

 湛山は、1902年年(明治45)に、「哲学的日本を建設すべし」と題する主張をした。いわく、わが国の人々は薄志弱行である。自分(我)というものを忘れており、しっかりした考えがないから腰が据わらず、右顧左眄して、声の大きなほうに引きずられやすい。ご都合主義、なれあい、無定見である。ものごとを根本的立場から考えない。大局を見ない。これではいけない、まず自分でよく考え、自分の見識を明らかにせよ。1人ひとりが、よくよく考えるようにしよう。それを哲学的日本と表現したのである。

 それから半世紀たたないうちに、わが国は亡国の寸前まで行って連合国に降参した。大方の人は、国の方針に異を唱えず、あるいは不承不承であったとしても1931年の満州事変から45年の敗戦まで、それぞれの立場で戦争体制を支えた事実が残る。

 1912年(大正1)には、湛山は、明治時代を回顧して「ミリタリズム(軍国主義)全盛、インペリアリズム(帝国主義)一点張りであって、それは肯定したくない側面である。その最大事業は、政治、法律、社会の万般の制度(確立)および思想に、デモクラチックの改革をおこなったことにあると考えたい」と記した。しかし、デモクラチックの改革が湛山の期待通りでなかったことは歴史が証明している。

 もちろん、湛山の情勢分析が甘かったのではない。明治ミリタリズムの深刻さを熟知し、日本的インペリアリズムの本質的軽佻浮薄さを憂慮したからこそ、あえてデモクラチックの側面に期待をかけたのである。制度的改革は誰かがリーダーシップを発揮すれば可能である。しかし、思想やデモクラシーは、1人ひとりがその気にならなければ浸透しない。

 大正デモクラシーはさまざまの書物から、牽引した方々の開明性、先見性、並々ならぬ努力を知ることができて、頭が下がる。しかし、人間社会の変革にも作用反作用の法則が当てはまる。個人主義や自由の思想を、支配権力は徹底して嫌悪し排除した。それにもまして、デモクラシーは1人ひとりの思想的革命である。各人の思索なくしてデモクラシーは育ちようがない。

 湛山は「最高の支配権は全人民にある」(1915・大4)、「帝国議会を年中常設とすべし」(1916・大5)とし、議会に対する国民の監視の重要性を主張した。さらに「中央集権・画一主義・官僚主義を破殻して徹底せる分権主義を」など、まさに戦闘的デモクラットとしての主張を展開した。孤軍奮闘の観だ。

 そして、すでに軍部横暴の声が水面下で定着した1940年には、「今日のわが政治の悩みは、決して軍人が政治に関与することではない。逆に、政治が軍人の関与を許すがごときものだ。黴菌が病気ではない。その繁殖を許す身体が病気だと知るべし」と主張した。

 いわば、黴菌たる! 軍部の跳梁を許したのは政治家であり、たるみ切った政治家を許したのは1人ひとりの国民である。湛山の主張を辿っていくと、結局、敗戦まではデモクラシーがなく、国民1人ひとりの主張などは支配階層の官僚主義によって徹底排除された。戦後の「軍部悪玉」説は、いわば結果であって、原因を手繰れば、国民1人ひとりに返ってくる。ここから考えなければ日本的デモクラシーは育たない。

 もちろん、国民ならぬ臣民しか存在しなかったのではあるが、1人ひとりの問題の本質とは、前述「哲学的日本を建設すべし」に帰着する。さて、そこで、わたしは格別の思いが起きる。湛山の主張の時代と、デモクラシーの現在とは社会状況が大きく違うのであるが、では、ただいまの日本的デモクラシーは十全に機能しているのだろうか? 湛山氏に、「ここまで来ました」と報告できないのが残念無念である。

依然として日本は戦後の廃墟にある

 湛山が「哲学的日本を建設すべし」と主張したのは、明治の後半であるが、それが再び問われたのが敗戦後であった。湛山は1945年8月25日に、「更生日本の針路」と題する主張をした。降参で終わったことは、「更生日本の建設に邁進しうる恵に浴す」と高らかに宣言した。

 そして、「今後は、世界平和の戦士として、その全力を尽くさねばならぬ。ここにこそ更生日本の使命はあり、またかくてこそ偉大なる更生日本の建設がある」と書いた。

 わたしは、8歳のとき広島で30歳の母に連れられて映画『原爆の子』(1952)を見た。何も知識がなく、心底恐ろしく、画面に見入った。「なんでこんなことになったの?」と母に質問したが、具体的な返事はもらえなかった。街では被爆された方がたくさんおられた。母の手をきつく握って歩いた。

 ――自分は戦争に賛成ではなかったのだが、引きずり込まれてしまったという、その仮面を剥ぎ取るがよい。言い逃れをかなぐり捨てるがよい――(エラスムス)という言葉に出会ったとき、母の気持ちがわかったと感じた。

 いったい、20数万人の軍隊をもって1億2千万人の国民を守られるであろうか。いずこの国も似たようなものだ。米軍「番犬」説を唱えた大物議員もいたが、いまも、トランプ氏にゴマをすりつつ腹の底では同じことを呟いているのだろうか。イージス・アショア(AA)の導入停止が決まったが、そもそもの前提はAAで撃ち落とせるようにロケットが飛んでくるという物語であった。わたしはとてもそのようなご都合主義的物語りに従う気分にはならない。

 起きた(誰かが始めた)戦争の対処策を考えるのが国防であろうか。ならば端から絶望的である。実は、そのような事態にはならないと無意識のうちに考えているから軍備拡充ゲームにうつつを抜かしているようにしか見えない。原因があるから結果がある。ハードに大枚注ぎ込むことに思考を重ねるのではなく、戦争の原因となる問題を1つひとつ克服していくべきである。

 それが1945年8月の希望と志であったはずだ。戦争を語り継ぐことは、戦争の原因の地点にまで遡らなければならない。恰好だけつけている愛国人士にはお任せできない。大言壮語、コピー政治にはおさらばしたい。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人