月刊ライフビジョン | 論 壇

「ヴェニスの商人」の含蓄

奥井禮喜

 シェークスピア(1564~1616)の戯曲は37篇ある。彼は、ラテン語は少しわかるだけ、ギリシャ語はまったくわからない人であった、――いわゆる文化人ではない――が、古今東西における偉大な作家である。作品は世界遺産というべきだ。イギリスの演劇は16世紀半ばから黄金時代であった。

 同時代の作家であるB・ジョンソン(1572~1637)は、シェークスピアへの追悼の言葉で、「彼は、1つの時代ではなく、すべての時代の人である」と述べた。歴史家のT・カーライル(1795~1881)は『英雄崇拝論』(1840)において、同胞であるイギリス人に対して、「諸君はインド帝国とシェークスピアのいずれを手放す気か——インドは、いつかは失われるが、シェークスピアは失われることがない」と高らかに語った。

 今回はシェークスピアの『ヴェニスの商人』から思いをめぐらした

あらすじ

 アントゥニオゥはヴェニスの商人で、手広く貿易を営んでいる。15世紀半ばから18世紀半ばのヨーロッパは重商主義(mercantilism)の時代で、大商人が商船を駆使して稼いだ。大商人の背後には国家がある。

 持ち船が帰港する前で、持ち合わせがなかったアントゥニオゥは、親友のバサーニオゥがユダヤ人の金貸しシャイロックから3千ダカット借金するために保証人になった。期限までに返済できなければ、アントゥニオゥの肉1ポンドで弁済するという奇怪な証文を交わした。麗しい友情である。バサーニオゥがおカネを必要としたのはポーシャと結婚するためであった。これは、証文をめぐる人間ドラマである。

 返済が期限に間に合わず、侯爵の法廷で裁きを受けることになる。ポーシャが変装して裁判官として登場する。裁きの時点ではすでにおカネが用意できている。何倍にしてでも返済すると提案する。シャイロックは聞き入れない。証文通り、肉1ポンドよこせという。裁判官はシャイロックの慈悲を促すが、シャイロックは「慈悲は強制されるべきでない」と怜悧である。ついでに付言すれば、自粛もまた強制されるべきではない。

 裁判官は、証文が正当であると認め、シャイロックが肉1ポンドを取ることを認める。いざ、シャイロックがアントゥニオゥに刃を差し込もうとする寸前、「ただし、血の1滴たりとも流してはならぬ」と注文をつける。

 やられたと思って立ち去ろうとするシャイロックに、裁判官は、「外国人がヴェニス市民の生命を損なおうとした場合、危害を加えられた市民は犯罪者の財産の半分を取得し、他の半分は国庫に没収する」。なおかつ、「犯罪者の生命は侯爵の裁量に委ねられる」と宣告する。

 シャイロックは「命も何もかも取ってくれ、許してもらわなくていい。家を支える柱を取るのならば家を取るのと同じだ。命を支える財産を取り上げられては生きていられない」と悲痛な言葉を吐く。

 結局、シャイロックは、キリスト教徒に改宗する条件付きで命は助けられ、財産はキリスト教徒と駆け落ちした自分の娘へ与えられる。

 (これがドラマの主旋律で、そこへバサーニオゥとポーシャたちの軽妙なロマンスがもう一つの旋律として絡まっているのだが、ここでは省略する)

喜劇か悲劇か

 『ヴェニスの商人』の幕切れは、心配されたアントゥニオゥの商船も無事で、商人と仲間たちにとっては大団円であるが、愉快ならざる違和感が残る。めでたしめでたしの喜劇というより、シャイロックの立場であれば悲劇である。

 まず、裁判官は、証文が「正当」だと認めた。その後、血の1滴も許さずと迫り、シャイロックが断念するや、今度はヴェニス市民を殺めようとしたのだから、お前の財産を没収し、生命については侯爵の心のままだとする。

 生体から肉を切り取る時、一切血が流れないわけがない。ならば証文は「不法」であるとすべきではなかったのか。あるいは、血が流れ生命にかかわるような証文は「無効」というべきであろう。なぜなら、犯罪の違法性は公序良俗に違反するからであって、この証文はそのような内容だからである。

 博打ですってんてんになった人が「もう1度だけ勝負しよう」と要求した場合、相手は「元手は何だ?」と問う。「わたしの身体だ」と言っても相手は応じてくれない。そんなものは1円にもならないからだ。ところが裁判官は証文は「正当」だとした。博打界的常識からも外れている。

 つまり、裁判官が証文を認めたのは、被告を救済するだけでなく、原告を罰するための策略であって、それでは本来の係争から大きく踏み込んで、裁判官が原告に対して復讐するのと同じである。もちろん、これはヴェニス市民にとっては当たり前であり、心地よいであろう。

 シャイロックは超人的守銭奴である。にもかかわらず、貸与したおカネよりもアントゥニオゥの肉1ポンドに執拗に拘る。それは、悲惨な社会生活を余儀なくされているユダヤ人の怨念であり、その復讐心のなせる意志である。

 ヴェニスの商人たちは、シャイロックはじめユダヤ人を対等の人間とは認めていない。だから対等の紳士同士の関係でもない。アントゥニオゥは常日頃、シャイロックの金貸し業を悪徳として痛罵している。にもかかわらず紳士として対等と認めていない相手におカネを融通してもらったのである。

 なにゆえシャイロックが超人的守銭奴になったのか考えてみると、ユダヤ人は社会的職業から排斥されている。職業選択の自由などない。生きる手立ては厳しく制限されており、やっとこ生きている状態である。その際、生命の柱となるのは、まさにおカネだけである。法廷で、シャイロックが「財産没収するなら生命も取ってくれ」と叫ぶのは、損得勘定による守銭奴の叫びではない。なぜなら財産没収は死刑の宣告と等しいからである。

 シャイロックにすれば、汚い守銭奴呼ばわりされているが、そうなったのは、ヴェニス市民たちのお陰である。あらゆる市民的権利から放り出されているのだから、頼みの綱はおカネだけである。そのおカネを稼ぐのは命がけである。一方、ヴェニスの商人たちは、国を背景とした重商主義で大商売をやっているわけで、表向きはともかく中身が本当にきれいかどうかわかったものではない。

 シャイロックはヴェニス市民が奴隷を抱えていることを批判する。立派なことを言うならば奴隷を「自由にしてやったらどうだ!」。ヴェニスの商人たちは大金持ちになり名誉も得る。一方、シャイロックはおカネを持てば持つほど守銭奴扱いされる。ドラマは大団円で終わるが、愉快ならざる違和感が残るのは、テーマが差別であり、差別している紳士淑女のアンコンシャス・ヒポクリット(意識せざる偽善者)がモチーフだからである。

 血が流れなかったのだからよかったのは事実である。ただし、人道のためになされたからといって裁判官が不法をなすとすれば、事の本質は喜劇とは言えない。怨念であったにせよ、復讐からであったにせよ、シャイロックが求めたのは法の正義である。証文は裁判官が正当と認めた以上、それを盾に取ったシャイロックが悪漢呼ばわりされるのは妥当でない。

 法の正義が歪められても人々が楽しむとすれば、その時代にはやはり正義はない。奇怪な形ではあるがシャイロックが求めたのは正義であって、それが叶わなかったのはユダヤ人が差別され、虐げられていたからである。

 当時、シェークスピアが論文を書くような調子で『ヴェニスの商人』を書いたとすれば、劇場で上演できなかったであろう。もちろん、シェークスピアがそのような問題意識を持っていなくても、当時の気風が正確に描かれていることによって、この作品には人間社会の生きた歴史がある。

 芸術は人間の「美」を描くものである。そこに直接描かれたものが「醜」であっても、それに接する人が「美」に気づけば目的は達せられる。作家が現実の「醜」を描く。聴衆が「醜」を感じ、そうあってはならない。これは「美」ではないと気づけば、聴衆は「美」なるものを理解する。かくして社会変革の源が生まれる。

 リアリズムの価値は、現状自体を描写することにあるのではない。ふだん人々が気づいていない「醜」を引き出すことによって、これではよくない、こうありたいという意志を生むことを助ける。本当のリアリズムは単なる現状肯定ではなくて、少しでも理想の高みをめざすものである。

 『ヴェニスの商人』を喜劇とすれば、シャイロックは愚かで、道化的役割であるが、19世紀になると悲劇的に演じられるようになったという。「醜」に気づいたのは進歩である。名作は時代を超えて生き続ける。シェークスピアが時代を切り取って活写した作物は自らの生命を保っているわけだ。そして、これがまったく過去の愚かしい時代の気風であると言えないところに、現代のわたしたちが対峙する問題がある。

権利は座して手に入らず

 現代のわたしたちは、シャイロックの根性に学ぶべきものがある。

 彼は、ユダヤ人差別が至極当然として社会的慣習化しているなかにあって、堂々と異議申し立てをした。社会全体に対して非力のコブシを振り上げてもぶつける対象が見つからない。たまたまではあったが、アントゥニオゥは具体的標的であった。シャイロックは差別という不条理に対して敢然と闘った。そして敗北した。しかし、「歴史的には勝利」の方向へと進んだ。

 正義は勝つ、不義は敗ける――という公式はほとんどの場合成り立たない。力が正義の側にあるか、それとも不義の側にあるか。社会における人間関係もまた物理的である。たまたま力ある者が正義にあり、不義の力を上回った場合に正義が勝利するのであり、力なき者が正義にあるだけでは勝利は覚束ない。

 だからといって「正義は力なり」というのは大きな誤りである。なぜなら正義と力は別物である。力の大きい者が勝ったとしても、それが不義に立っていたのであれば「不義は力なり」である。とかく世の中は力のある者が支配しやすい。力のある者が自己利益第一に力を行使することが多いから、古今東西、あらゆる社会は倫理・道徳ひた走りとはいかなかった。

「正義は力なり」と認識してしまうと、社会はますます闇に向かう。「不義は力なり」と明晰に認識するとき、「打倒不義」コールが起こる。長い時間がかかったかもしれないが、不義は正される。永遠に力のある悪がはびこることはない。差別は正されてきた。差別に限らない。世界は諸悪のルツボである。一見、美しく見えても、悪臭紛々する事態のなんと多いことか。これに対して、人間生活のあらゆる面において偉大な価値観が台頭した。それが「人間の尊厳」(Human Rights⇒基本的人権)思想である。

 哲学者I・カント(1724~1804)は主張した。――自ら虫けらになる者は、あとで踏みつけられても文句は言えない。自分の権利を投げ捨てる者は自分自身に対する人間の義務に違反することである。――

 日本人の人権意識は敗戦後に始まった。日本人はいまだ人権意識が弱すぎる。だから、おかしな政治がまかり通る。人権意識を涵養することが、日本的デモクラシーと深くつながっている。あえていう、シャイロックの気骨をときどき思い浮かべてほしい。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人