月刊ライフビジョン | メディア批評

読売社説「コロナ対策で何を語るべきか」が問うもの

高井潔司

 コロナウィルス対策をめぐって、安倍政権の迷走が続いている。先月号では2冊の本を紹介しながら、その対策には政治の思惑ではなく、科学的姿勢が必要だと指摘したが、この一か月の昏迷は、アベノマスクしかり、非常事態宣言の遅れしかり、10万円支給への変更しかり、政治の思惑ばかりが先行し、結局、コロナ感染はその間にみるみる拡大し、抑止の見通しがまるで見えない状況に陥っている。

 唯一安心できたのは、“決める政治”を自任し、憲法改正を最大の公約に掲げていた安倍首相が、特措法改正によって非常事態宣言の実施権限を与えられたのに決断できず、小池都知事の要請に押し切られてようやく宣言に至ったことだろう。この人が単なる“改憲オタク”、“兵器オタク”で、政治をオモチャにしていただけだろうことが明らかになった。でもそんな安心は、コロナ対策の昏迷に比べたら、全く意味のないことだ。

 マスコミはもっとこの迷走の責任をしっかり問うことが必要だ。ところが、安倍首相会見の後に必ずと言っていいほどしゃしゃり出て解説するNHKの岩田明子解説委員は、毎回安倍発言をほぼオウム返しに説明するだけで問題意識ゼロの解説だ。解説というからには、安倍首相が打ち出す方針の実現可能性はどうか、その実現にあたって何が課題なのか、それまでの対策との整合性、矛盾はないのか――などについて掘り下げるべきだろう。別の角度から見れば彼女の解説は、NHKがいかに政権にこびへつらっているかを、見事に物語ってくれる。その意味では貴重な存在かもしれない。この人は解説委員というより“アベノサポーター”である。

 こう嘆いていたら、コロナ騒ぎが一段落した中国の友人や元教え子から、「先生、マスクは足りていますか?送りましょうか」というありがたいメールが届くようになった。一時は中国はどうなることかと見ていたが、震源地武漢の都市封鎖も解かれるようになった。

 ところが、中国に関する日本の報道は、感染抑止を曲がりなりにも実現した中国の対策に学ぶどころか、感染拡大の原因は情報隠しだかとか、都市封鎖は独裁体制の賜物だとか、感染者数、死者数の発表は嘘だとか、はてはウィルスは武漢のウィルス研究所から漏出したものだといった、真偽不明のマイナス面の報道ばかりに集中している。

 その極みが4月12日付読売国際面の「『謝れない党』の自縄自縛」という中国総局長のコラムだ。このコラムによると、「中国を揺るがす新型コロナウィルスは、共産党体制の『謝らない』体質をわかりやすく示してくれる」と書き出し、「中国の統治者が謝らないのは、伝統というわけではない。歴代王朝では疫病などの災厄が起きると、皇帝は詔を発し、民に謝罪する慣例があった。…たとえ天災であっても、皇帝たちは『天子(天の子孫)』としての責任の所在を明確にした。共産党体制は、王朝のような神託はもちろん選挙による民の信託も受けていない。その正統性を支えるのは、誤りのない統治という『無謬神話』だ。過ちを認めることには『体制の崩壊につながりかねない』(党幹部)という強烈なアレルギーがある」という。

 実にお見事な解説であり、主張である。だが、こんなコラムは東京にいても書けるはず。テレワーク中の論説委員にでも任せておいて、せっかく北京にいて、現場を取材できるのだから、どのように習近平政権が、出遅れたコロナ対策を打ち直し、感染拡大を防止していったのかを、伝えてほしい。そのプロセスで、神託も信託もない共産党の方がむしろ危機感を以て本気で対策に当たったのかが、見えてくるのではないか。過ちを認識しているからこそ、外から見ても危ういような徹底的な対策を取れたのではないのか。

 習近平も李克強も現場に出て医療関係者を激励した。わが安倍首相はSNSで人気歌手をフォローし、自宅でくつろぎましょうなどと演じて見せたが、医療の現場に行ったという話は聞かない。選挙で国民の信託を得ているので、危機感、緊張感は必要ないということか。国会で夫人の行状や対策の稚拙さを批判されても、「レストランに行ってはいけないのか」、「おたくの会社でも布マスクを売っているでしょう」などと気色ばむ対応こそ「謝れない」政治家というべきではないのか。その伝で言えば、「謝れない党の自縄自縛」という素晴らしい見出しは、いまや世界一の感染拡大を許してしまったトランプ政権にこそふさわしいのではないか。

 何か月も、あと2週間が正念場とか、土壇場だとか、聞かされるだけで、見通しの立たない中、マスコミは、他国のことをあげつらうより、今この日本にとって、何が必要な対策なのかを、追い続けてほしい。他国をあげつらうことで、ストレス解消をしている場合ではないのだ。

 そう思っていたら、「コロナ対応で何を語るべきか」という興味をそそる見出しの社説にぶつかった。4月19日付の読売社説である。社説は「多くの国や自治体で経済・社会活動を制限する厳しい措置がとられている。民主主義国家におきて実効性を高めるには、住民にその必要性を認識してもらい、外出自粛や在宅勤務の動きを広めていくことが欠かせない。…指導者が科学的知見に基づく正しい情報を伝え、人びとを説得できるかどうかがカギを握る」と訴える。その上で米ニューヨーク州のクオモ知事、ドイツのメルケル首相、シンガポールのリー・シェンロン首相の国民、州民への発言、説明のすばらしさを紹介している。なかなかいい社説と思ったが、最後の4行でがっくりきた。その4行とは――

 「トランプ米大統領や安倍首相も日々、感染拡大防止策や経済対策の発信に腐心している。国民の目にはどう映っているのだろうか」

 いやはや、この社説は一番肝心の日米の指導者の発言に関する判断、評価を、自らは下さず、読者にゆだねているのである。まあ「前後からお察し下さい、わが社の社説としては正面から日米の指導者を批判するわけにはいかないのです」と言いたいのだろうか。NHKの岩田解説委員同様、それぞれの会社の体質を身をもって示してくれているのかもしれない。「コロナ対策で何を語るべきか」という見出しは、まさに自らに問うべきではないのか。

 ここまで議論を進めてきて、私の論調も感情的になってきたのか、重要な問題の指摘を忘れていた。それは政府の専門家会議で重要な役割を演じている西浦博北大教授の「対策なければ約40万人が死亡」とのショッキングな数字を明らかにした記者会見。会見を受けた報道は、40万人の根拠を解説する記事ばかりで、なぜ唐突な記者会見を行ったのかという西浦教授の真意に思い致す記事は見当たらなかった。この数字は、即菅官房長官が政府の公式見解ではないと打ち消しに懸命になったほどだ。西浦教授は蛮勇を奮って、会見を開き発言したに違いない。そもそもこの時点で「対策がなければ」と言っていることがおかしい。すでに政府は非常事態宣言を発し、政府をコロナ対策を打ち出していたはずだ。ということは、政府の対策がなっていない、経済対策はあっても感染症対策になっていないと批判が目的だったと言えるだろう。この人が8割接触削減ばかりいうので“8割おじさん”というイメージが固定化したのだろうが、この会見では人工呼吸器の数にも言及し、「重篤者数がいま手元にある数を超えてしまう」と述べている。人工呼吸器も、その他感染防止の装備が医療現場で払底していることが、40万人死亡の根拠になっていると語っている。非常事態宣言を受けた各種の対策が、とても8割削減を実現するには甘すぎるというのが会見の趣旨だろう。唐突の記者会見の背景に何があるのか、報道はもっと注目すべきだった。コロナ事件をめぐる記者会見や発表に関する報道は数字の説明に追われて、掘り下げた報道があまりにも少ない。

 PCR検査の体制と感染者の受け入れ態勢があまりにもお粗末で、需要に見合わず、その結果、判明する感染者数が少ないだけなのに、その現実を語らず、グラフを示して、一喜一憂している報道は欺瞞としか言いようがない。人権重視のわが国は中国、韓国のような対策は取らないと言っても、女優、岡江久美子さんのように重篤になって初めて検査を受け、すでに手遅れという悲劇がいくつも起きている。それどころか、亡くなってから検査で感染が判明した、いや亡くなっても検査なく葬り去られているケースも出ている。生存権さえ保障できない国をどうして人権重視の国と言えようか。実際、PCR検査の体制にしても、感染症対策にしてもテレワーク、授業に必要なITの普及にしても、中国、韓国に比べてあまりにもみすぼらしい。人権重視で、強権的な対策を取れないと言っているが、実際は強権的な対策を取るだけのハードウエアも、ノウハウも整っていないのが現状ではないか。長期政権、お仲間政治のツケがいまごろどっと押し寄せて来ている感じだ。

 あるアスリートが「日本人の誇りでがんばろう」とテレビで呼びかけていた。「誇り」でコロナが克服できるの? 一時的な元気は頂けても、高齢者や生活困窮者にとって、そんな励ましは、虚しく響くだけだろう。唯一の対策が「ステイホーム」では、不安は募るばかりだ。議論がますます感情的になるので、ここで止めることにしたい。


高井潔司  メディアウォッチャー

 1948年生まれ。東京外国語大学卒業。読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て、桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授を2019年3月定年退職。