月刊ライフビジョン | 論 壇

「これまで」と「これから」

奥井 禮喜

どんなことがあったか

 中国武漢で原因不明の肺炎が発生したのが昨2019年12月8日。今年に入って1月15日、国内初の感染が発生した。1月18日、毎日新聞は「新型肺炎国内で確認 春節の大移動期に注意を」と題する社説を掲げた。中国から大挙来日するから注意しようというわけだ。この辺りで目下のような騒動になると予測した人は多数派ではなかったであろう。

 ダイヤモンドプリンセス号が2月3日に横浜へ入港し、船内待機、いわゆる封じ込めが始まった。乗客の家族や近しい人々以外はやはり他人事であった。2月18日に神戸大学の岩田健太郎氏が船内に入り、翌日、体験談をユーチューブで発表したので一挙に注目を集めた。感染症専門家が常駐せず・レッドゾーンとグリーンゾーンの区別がない、感染症対策が不十分だという内容だった。

 国内初の死亡者が発生したのは2月13日。感染が拡大して、2月20日には感染者728人・死亡3人となった。後で気づいたが、1月下旬からマスクをする人が増えた。2月上旬にはネットに「新型コロナにはニンニクが効く」というようなデマが飛んでいた。

 安倍氏は2月24日、「今後1~2週間が拡大か終息の瀬戸際」だと語った。26日には、安倍氏は「イベント自粛」を要請し、27日には「3月2日から春休みまで小中学校休校」を要請した。法的根拠もなく、思いつきのような表明であったから批判も少なくなかったが、すでに人々に危機感が浸透していたからこそ、ぶつぶつ言いつつも受け入れられたと思われる。

 3月11日、WHO(世界保健機構)が、新型コロナウイルスのパンデミックを宣言した。119か国・地域で感染者11.8万人・死亡4,291人であったが、感染者は4か国(中国・イタリア・イラン・韓国)で90%を占めており、感染が少なかった国・地域ではまだ関心が低かったはずだ。(4月下旬では、上位10か国、アメリカ・スペイン・イタリア・イギリス・ドイツ・フランス・トルコ・ロシア・イラン・中国が世界全体感染数の60%程度)

 3月24日、東京五輪の開催延期が決まった。4月7日、緊急事態宣言が出された。さらに17日から緊急事態宣言は全国へ拡大された。緊急事態宣言の期限は5月6日、連休明けの予定である。感染者の数字は連日更新され、メディアによって報じられている。当然のことと言うべきか、緊急事態宣言を発したからといって、劇的に感染拡大が抑止できたという傾向ではない。宣言から2週間後の21日には、「5月6日の宣言解除は厳しい」と専門家が語る事態であった。

問題点

 中国で、新型コロナウイルス対策の先頭に立つ国家衛生健康委員会の専門家グループ長・鐘南山氏は、2月11日に「中国の感染ピークアウトは2月中旬から下旬」であると表明した。希望的観測かと思われたが、中国の感染者は伸びず、後にWHOが「(中国の)ピークは1月23日から2月2日」であったと発表して、専門家グループの分析・対策が的確であったことが追認された。

 安倍氏は五輪の開催が最大関心で、中止ではなく延期が決まってから行動らしきことを開始したという批判がある。仮に気持ちがそうであったとしても、それ以上に科学的根拠を持っていないことが最大の問題である。前述2月24日の「今後1~2週間が瀬戸際」にしても、期待であってなんら根拠があるわけではない。以後も瀬戸際、正念場という調子が何度でも出てくる。2月29日には毎日新聞が「政権の瀬戸際」であると皮肉った社説を書いた。

 安倍氏は4月10日に評論家・田原総一朗氏と会った際、7日の緊急事態宣言は意訳すれば、「第三次世界大戦と同じつもりで戦時体制たる緊急事態宣言を発した」と語ったらしい。しかし、本当に戦争だと考えているにしては、司令塔らしきものが見えない、戦争の基本戦略もまた見えない。安倍氏は「私の責任で万全の体制をとる」と語るが、4月末までに展開された政策や体制が万全だと見る人はいないであろう。いったい、万全の体制とは何か! なおかつ、後には「コロナで責任取っても仕方がない」とも語った。安倍流責任とはなきに等しい。毎度のことながら言葉の理解が薄っぺらである。

 ここまででわかったことは、① 感染経路が不明、② 検査体制が不備、③ 医療体制の不足――3つの不である。緊急事態宣言といえば、相手に対する開戦宣告と表裏一体である。もっとも相手は開戦宣告されても関知しない。国内における非常事態宣言は、安倍流なら戦争をするための体制が確立していなければならない。前述①②③のような実情であるから、宣言という形式があっても中味が伴わない。これ、戦争司令部がパニックではないのか。

 ついでに戦争に例えるなら、①②③を戦う、つまり最前線で戦う体制ができていない。人々への「自粛」の訴えは、いわば銃後の民間人に、敵襲があれば弾に当たらぬようにせよというのと等しい。戦闘部隊が戦うために、あらゆる不便を耐え忍べというのである。「欲しがりません勝つまでは」の再現だ。

 そこで問題は、戦闘部隊の体制が整えられつつあるのか。戦闘体制(医療体制)が崩壊しないように、感染拡大をできるだけ先延ばしするという意味はわかるが、医療体制の整備を進めなければ、弾(ウイルス)に当たらなくても、各人の生活が崩壊してしまう危険性が大きい。

 手を上げれば国民1人に10万円支給というが、その10万円でどのくらいの期間を耐えろというのか。与野党含めて、10万円の根拠についての説明がない。5月6日になっても、さしたる戦果は期待しにくい。次なる10万円の心積もりがあるのだろうか。相手が見えないのは事実であるが、それにしても戦争ならば基本戦略・戦術というものが構築されなければならない。もともといまの政権は問題策送り体質で、言葉を飾ることを戦術としている。今回の戦争が、先送り型でうまく片付くと考えているのであれば極めて危ない。

 医療においては、――早期発見・早期治療――が大原則である。今回、医学的見地からすれば、コロナウイルスのパンデミックによる医療崩壊を警戒して、人から人への感染であることから、人と人の間隔を一定に保つための「自粛」が最大かつ第一の理論と実践とされている。人と人が接しなければ伝染しないのだから、この理論と実践は妥当だと考えられる。

 しかし、だからといって、早期発見にこだわらず重症者中心の医療体制にすることが正しいとは言えない。なぜなら、早期発見に取り組まなければ、いかに社会的距離に注意しているとしても、感染者がまったく他者に感染させないという事態は期待できないし、その間、感染者は重症化するわけで、看護体制(人と治療資材)が圧迫されるからである。

 とりわけ、今回の一連の取り組みにおいては、医療体制崩壊の危惧が固定的観念として前提され、早期発見・早期治療の原則が無視されて、感染者予備軍である人々に「自粛」が最大・第一の理論と実践として押し付けられているから、社会全体として見れば、すでに医療体制が存在しないのと等しい。

 世界最大の豊かな国であるアメリカで、感染爆発し、感染者も死亡者もダントツで記録更新している。国民医療保険がなく、貧しい人々が受診しないからだとされるが、国民健康保険制度が充実! していても、受診できないのであれば日米ともに結果は同じである。

 マスクを国民に配布するのがお手柄だと考えるようなオツムの為政者では、とても信頼するに足りない。マスク着用すれば、いったいどの程度感染防御に貢献するか、たかがマスク1つでも決め球となる証明はできていない。極論すれば、マスク着用しないよりしたほうがよいという程度であるのに、マスク着用すれば自分は安心だという気風が育っていると思われる。だから、湘南海岸に車の渋滞を体験しつつ! 人々は出かけるのであるし、他県へパチンコ遠征する蛮勇を揮っているのである。

 われわれから見れば外出禁止という状態にあるにもかかわらず、世界各国の感染者が容易に減らない。「自粛」戦略はコロナウイルスの封じ込めの決め手ではないことがすでに実証されている。

 要は、「自粛」戦略で爆発的感染を抑制している間に、早期発見・早期治療の体制を着々整えていかねばならない。4月下旬に、たとえば東京の江戸川区・中央区などでPCR検査の体制を前進させた。これがなぜ全国的にもっと早くから取り組まれてこなかったのか。これについては、医務技監の鈴木康裕氏が「検査は誤判定もある上、陽性でも8割は無症状や軽症だ」と言った(日経4/11)と報じられた。この発言が本当であれば、科学的知見に反している。では、いったい何によって検査するのだろうか。

これからどうする?

 東京・神奈川・埼玉・千葉の4都県のGDPは日本全体の30%を占める。生産が3週間停止すれば日本のGDPが1%下がると試算される。この調子でいけば相当なダメージを受けるのは誰にもわかる。ある時点で展望が開けて日本全国一斉大車輪ということになってほしいが、これまた期待でしかない。

 資本主義社会においては、大企業経営者が産業の支配力の中枢である。彼らが人類の文明・永続的利害を自分の手に握っているのだという認識を持っているであろうか。生産は消費者の動向によって活発化するが、マスク1つをとっても、希望する消費者の手に届かない。これがわが産業の実情である。

 政財官の鉄のトライアングルが世界に輝く「日本株式会社」を構築してきたはずであるが、この間、財界総本山の日本経済団体連合会の雄姿が見られない。たとえば、PCR検査器にせよ、人工呼吸器にせよ、医療用防護マスクにせよ、医療用防護服にせよ、医療用ガウンにせよ、医療用手袋にせよ、消毒用エタノールにせよ、つとに機材不足が知られている。極めて不思議であるのは、これらの必需品不足に関して、企業がおっとり刀で生産活動を展開しているという報道がない。医療資材は何かと規制が多いというけれども、安倍流戦時体制において、力のある企業群の大活躍が見られないのはまことに遺憾だ。

 目下はお休みだが、通年、安倍氏と財界人の会食が「首相日々動静」で報じられている。いざ鎌倉という事態に、安倍氏と財界人との蜜月効果がほとんど発揮されないのはなぜなのだろうか。まあ、メシを食って歓談しているだけならば、いかにも不細工な話である。「ものつくりニッポン」というのは誇大宣伝にすぎなかったのであろうか。企業の社会的責任論もまた姿を隠している。

 4月14日、IMF(国際通貨基金)が2020年、2021年の経済予測を発表した。

世界 日本 アメリカ ユーロ 中国
2020 ▼3% ▼5.2% ▼5.9% ▼7.5% 1.2% 
2021   5.8%   3.0%   4.7%  4.7% 9.2%

 これは、経済活動が2020年下半期に再開する前提の数字であって、素人にも楽観的にしか見えない。

 IMFはコロナウイルス騒動が長引けば、さらに3%低下するとも予測しており、さらに21年に再度流行ということになれば 8%低下する。併せて11%低下すると予測している。このもっとも厳しい予測がむしろ実際に近いような感じである。

 安倍流の日本経済は、コロナウイルス以前は「好調」という看板であった。果たしてそうだったのであろうか。日本全国、第一にコロナウイルス騒動の決着をめざそうとしているにしても、それに向けて大企業の活躍がなく、徒手空拳の働く人々と同じように沈黙しているようにしか見えない。これが日本企業の等身大の実力なのか。あるいは儲けにつながらなければ社会的責任もへったくれもないのであろうか。いずれにしても、現下の様子を見る限り、仮に騒動が沈静化した暁に大車輪の活力が出るとは思いにくい。

 いったい、日本経済の成長とは何だったのか。政財官の鉄のトライアングルが、徒手空拳の人々の「自粛」にひたすら依存する事態は異常である。言いたくはないが、このままでは、わが国のリーダー層の恐るべき無能と無気力が歴史に刻印されるのではあるまいか。「世界に輝くニッポン」という言葉がかつて語られた。所詮、口先だけのリーダーシップであることがわかっただけでも意味があったと考えるべきであろうか。

とにもかくにも

 いまの日本人の80%程度は戦争体験がない。なんと言ってもこれは価値があることに思いを馳せたい。右も左も真ん中も、戦争を知らずして、かつ戦争など起こるわけがないという無意識の意識によって防衛論争をやってきた。ここでは戦争について考えようというつもりはない。一般的な意味において人生で遭遇するさまざまな事態に対する心構えを考えたい。

 社会的リーダー層に対する批判を前述したが、だからと言って自分が揺りかごに入っていると思っているのではない。巷間「自粛疲れ」がささやかれるが、それなら「人生疲れ」と同じである。たかだか100年の人生に疲れるほどの艱難辛苦を闘っているわけではない。「すべての運命は忍耐によって克服されるべき」であり、不都合と闘い続けるのが人生だと思う。

 わたしは社会抜きには生きられない。社会はわたしであり、わたしが社会である。社会のすべてはわたし1人から始まる。だから社会的アパシーを断乎否定しなければならない。アパシーは他者に対する不信感であり、社会から見れば、わたしがわたしに対して不信感を抱いているのである。不信感はお互いが状況・目標を共有するとき拭い去られる。「自粛」に対して嫌な心地がするのは、普段意識していなくても社会とわたしが同一だからである。とりわけ目下の状況では、わたしの意志的実践的社会参加が問われている。それゆえ、不承不承追従するのではなく、懐疑して納得づくで、状況と関わりたい。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人