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てんやわんやの時代ではありますが

奥井禮喜

苦しい時の紙頼みか

 なにはともあれ、COVID-19に立ち向かわねばならない。津波対策には、てんでんこ(手に手に、各自勝手に)という言葉が注目を集めたが、見えざるウイルスとの戦いにおいては、これをやってしまうと、われがちの騒動を巻き起こすのであって、てんやわんやになりかねない。混乱が混乱を増幅すれば被害を拡大する。目標は、ウイルス被害を可能な限り早く収束させるにある。

 トイレットペーパーがお店の棚から消えた。昨今は、一時期ほどではなくなったが、まだまだ別格商品の扱いだ。1回1メートル程度として、1巻きあれば60回、弾んで2メートル使ったとしても30回、大家族が少ない時代だから、1パックあれば4人家族でも3か月は間に合う勘定である。

 マスクもまたお目にかからない。マスクを着用しても自衛手段にはならない。他者に迷惑をかけないのが用途である。とすれば、自分が買い占めるよりも、できるだけたくさんの他者が購入して着用してくれるほうがよろしい。消毒液もまた手に入らない。これも、たくさんの人が使ってくれてこそ意味があるのだから、目くじら立てて買い占めるなんてことは、むしろ「個人的自衛」目的からも外れるのではあるまいか。

 わたしはマスクが嫌いで着用したくない。出かける際にはハンカチを複数携帯して、いざという時に備えている。過日のオーケストラ公演では、鼻がむずむずすることもなかった。来客に備えてドアノブの消毒には、張り込んで! 焼酎を使えばよろしい。ヘアトニックでも間に合うだろう。

こんなとき哲学は役立つか

 あれこれ思いめぐらす。最初に浮かんだのは、行動する哲学者としても有名だったB・ラッセル(1872~1970)が、テレビのコメンテーターと交わした会話である。

 質問者 ① 哲学とは何ですか?

 ラッセル 正確な知識がまだ得られない事柄についての思弁からなります。

 質問者 ② では、哲学の効用とは何ですか?

 ラッセル まだ科学知識までなり得ない事柄についての生き生きとした思弁を続けることです。

 ①も②も、こんな時に役立つようには思えない。たぶん、コメンテーターもわかったようなわからない表情をしていたに違いない。

 すると、ラッセルは次のような話をした。「わたしは自転車でウィンチェスターへ行きたかった。ある村道で出会った人に、ウィンチェスターへの近道を教えてくださいとお願いした。その人は、知らないと応じた。だから、わたしは自分で考えて行くしかなかった」

 要するに、人に聞けば教えてくれると思うのではなく、自分できちんと考えなさいというのである。なんとなれば、哲学とは、「自分が」よりよく生きるための「問い」を反復することである。

 自分自身の思索に頼らずに、他者、とりわけ権威や伝統に頼ろうとするのはよろしくない。人間の一般的態度は、さまざまの先入見によって真実に到達することが妨害されている。F・ベーコン(1561~1626)は、一切の先入見やイドラ(偶像)を捨て去り、経験(観察と実験)を唯一の知識の源泉とせよと提起した。そのたとえに「劇場の偶像」というものがある。劇場で手品を見て信じ込むような調子ではいかんと指摘した。いまなら、テレビで流される内容にすらすら乗せられるとか、SNSの出所不明の情報(?)に惑わされるなということになる。

呪物信仰

 「もろもろのシンボルは呪物の表現という性格を帯びる」と、含蓄ある指摘をしたのはT・アドルノ(1903~1969)である。いつの間にか、日本全国ユルキャラが出没している。かわいいという評判だが、大人が、作り物のぬいぐるみにきゃあきゃあいうのも、何やら思考停止の1つに見える。シンボルが、一種の社会的強制(ソフトではあるが)効果を発揮している面も見過ごせない。

 五輪のマークも、ある種の呪術的効果を発揮している。埼玉スーパーアリーナでの「K-1 World GP」が、県の自粛要請に応じず開催したことに対して、保守の人士には「国賊」発言まで飛び出した。なるほど、消毒、マスク、もろもろ注意しても100%の安全は確保できない。国賊発言はともかく、けしからん発言が出るのも無理はない。ところが、五輪延期に関しては、「何をぼやぼやしとるのか、さっさと決めろ」という声が聞こえなかった。

 IOCが3月23日、五輪延期の方向で検討に入った。IOCのバッハ会長は「中止は誰のためにもならない」と言う。そうだろうか――「誰」とは誰か? 五輪至上主義で考えれば、政治家、スポンサーも含めた開催関係者・選手・熱心な観客が相当するだろう。

 いまの延期論は、なにがなんでも開催したいという文脈にある。しかし、もっと視野を広げて、目下の世界の――五輪のみではない――世界の事態は、なんとしてもCOVID-19の収束を実現せねばならない。収束には、人・モノ・カネの可能な資源を効果的に投入しなければならない。これは、IOCや選手、開催国、スポンサー、観客も含めて世界的課題である。

 以前から五輪がおカネまみれになっているという批判は強い。東京五輪に関しても、開催のための重大な条件であった。たまたま日本の政治家が口先だけで、その約束を無視した開催準備事情になっているが、その事情はIOCも先刻承知のはずである。さらに延長することになれば、カネまみれがさらに膨れ上がることは常識的に予測できる。

 安倍氏は感染問題対策に「マグニチュードに見合う巨大な政策を打つ」と語った。巨大な政策なるものの中心がおカネであることも否定できない。そのおカネたるや安倍氏の懐から出てくるのではない。税金であり、国民の負担である。面倒みてやると大見得を切るが、面倒みるのは国民自身であってそれ以外ではない。

 五輪をいかに美辞麗句で塗り固めようと、それは祭りであり、祝典である。現実を無視して祭りの開催にひた走るのは賢明ではない。規模においても埼玉スーパーアリーナのK-1どころではない。つまり、五輪マークは、国を挙げて「国賊」呼ばわりされることもなく、なんとか実現してほしいという声が圧するだけの「呪術的」効能があるわけだ。

 わたしは「国賊」呼ばわりなどしないが、五輪は延期よりも中止のほうがベターだと考える。COVID-19対策の出口はまだ全然わからない。いまは、感染問題対策にきめ細かく集中するのが正しい段取りというものだ。

ウイルス以前の世界経済

 いまのCOVID-19の名前がなかった時期、2020年の経済は、政府の予測によるとGDP成長率1.4%であった。これはGDP570兆円をめざす。同時期の民間主要機関の予測は0.3~0.5%で、政府のは予想というよりも願望でしかなかった。その願望には、高い税収を想定することによって、予算編成がラクになるという、まともならざる意図があった。当時でさえ、個人消費がさえないことは誰の目にも明らかだった。

 誰にもわかる数字を上げれば、観光などで来日客が使ったおカネは2019年に4.8兆円あった。20年は5兆円と算盤を弾いたのだが、こんな数字はすでに吹っ飛んでしまっている。大きなイベントの後は景気が悪化しやすい。それどころか五輪前にして取らぬ狸の皮算用と化したわけだ。

 もちろん、かかる顛末は招かざるウイルス旋風のせいである。しかし、よくよく頭に入れておきたいのは、それにしても、慎重な予算を組んでおけば発生する被害は少ないということである。

 そもそもウイルスなど話題にもならなかった時期、世界の累積債務はGDPの3倍となっている。まったく世界は資産バブルである。たとえば、アメリカ経済の2/3は個人消費である。消費動向は全面的に株価に依拠している。低金利で資産増加を続けてきた。2012年から20年の企業利益拡大分の2/3は、17年にトランプ氏が大統領に就任しておこなった大型減税による。資産バブルを維持するためには、以前の減税効果を維持するためのさらなる減税を継続するしかない。というところへ、ウイルスが襲来したわけだ。

 しかも、アメリカの下位所得者80%の実質賃金は1974年の水準にある。1974年は先進国の鉄鋼使用量が頭を打ち、つまり、それ以降の先進国経済は中身が発展したのではなく、まさに金融技術によって市場未曾有の株高、好景気を演出していたのである。かくして、そんな都合を知ってはいないウイルスの襲来によって、世界中が大迷惑をこうむっている。

民主主義者としての哲学

 3月18日、ドイツのメルケル首相のウイルス対策についての演説は、見事な内容であった。誰もがこれからどうなるのか、疑問や心配でいっぱいだという立ち位置から話を始めて、状況は深刻であり、まだ見通しが立っていないことを率直に指摘して、思いやりをもって理性的に行動することを訴えて締めくくった。長いので、話の流れにそって抜き書きする。

 ① 政治的決断を透明にし、説明する、私たちの行動の根拠をできる限り示して、それを伝達することによって(皆さんの)理解を得られるようにする。

 ② 自分が語る内容は、連邦政府とコッホ研究所の専門家、他の学者、ウイルス学者との継続審議から得られた所見である。

 ウイルスに対する治療法もワクチンもまだない。唯一できることは、ウイルスの拡散速度を緩和し、時間を稼ぐ——これが私たちの行動指針です。

 ③ 医師、介護サービス、医療施設で働く方々に対する心からの感謝。

 ④ イベント、見本市、コンサートは中止、当面学校も大学も保育所も閉鎖――このような制限は絶対的に必要とされる場合にのみ正当化されるもので、民主主義社会において決して軽々しく決められるべきではありません。

 ⑤ 経済的影響を緩和し、とくに雇用を守るために可能なことをすべておこないます。

 ⑥ 食料品供給が常時確保されること——買占めは無意味ですし、つまるところ完全に連帯意識に欠けた行動です。

 ⑦ 同胞のために尽力してお店の営業を維持する方々への感謝。

 ⑧ 今日、何が必要なのかについて真剣に考えることです。——無関係な人は1人もいない。私たち全員の力が必要なのです。——私たちには対抗策があります。つまり、思いやりからお互いに距離を取ることです。握手はしない、頻繁に手を洗う、最低でも1.5m人との距離を取る。——今は、距離だけが思いやりの表現なのです。

 ⑨ (政府などは)学習能力を維持し、いつでも考え直し、他の手段で対応できるようにします。

 ⑩ 私たちは民主主義社会です。私たちは強制ではなく、知識の共有と協力によって生きています。これは歴史的な課題であり、力を合わせることでしか乗り越えられません。

 格別難しい表現はない。格別知らなかった内容はないかもしれない。根拠をもって、明確かつ判明に記述し、その内容を透明にして伝達する。これこそが、(政治)哲学を持つ政治家の言葉である。

 政治家が持てもしない「責任を持って」言葉の大段平を振り回すのではない。自分の言うことだけ語って質問をちょん切る態度ではなく、すべてを透明化して伝達する。なぜなら、みんなが知識を共有し協力しなければ、社会を維持することはできないからである。

 民主主義の為政者の真剣にして謙虚な発言態度が充ちている。自分が「真剣に、謙虚にやる」などの無用な修飾語は1つもない。

 すべては、国民1人ひとりの双肩にかかっている。これはengagement(アンガージュマン)、すなわち、1人ひとりの意志的実践的社会参加をお願いしたものである。

 メルケル首相の手堅い言葉の背骨は、哲学である。


奥井禮喜 有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人