月刊ライフビジョン | 論 壇

働く人の、働く哲学を

奥井禮喜

哲学したかった青年

 わたしが組合役員としてなんとか独り立ちした50年前の記憶である。20歳になったばかりのAくんが、雑談していたとき、「働いて生きるということはどんな意味があるのだろう?」と呟いた。虚を衝かれた。たまたま先輩面しているが正面切って考えたことがなかった。そこで講演会を企画した。

 神戸大学の哲学教授・清水正徳先生(1901~2004)にお願いした。先生は、「学生連中がちゃんと聞いてくれない。働く皆さんが聞いてくれるのはまことに嬉しい」と即刻快諾された。「働くことと人生」というようなタイトルだったと思う。Aくんは機械工場で働く技能者である。現場は中学卒が多かった。真面目で頭脳明晰な人が多かった。向学心はあったが経済的事情で就職した人がほとんどである。堅いテーマなのに、たくさんの仲間が聴講した。

 当時は、労働学校と称して組合員向けに、毎年、1単位2時間で8講座から12講座の勉強会を開催していた。哲学講演は特別授業であった。誰もが熱心に講演を聞いた。わからないところも少なくなかったと思うが、聴講した後のAくんの紅潮した顔を記憶している。哲学の知が十分に理解できなかったとしても、その意志は間違いなく理解されたはずである。

 数年前から「働き方改革」という言葉が登場している。職場段階では関心が低調だ。信頼度が低い政府が発案したから、そうはいくかいとばかりそっぽを向いている可能性が高いのだろうか。ならば、むしろ健全である。

 「働き方改革」が行政上の話題として登場してきたのは、経営者側がそれなりの問題意識を抱えているのである。率直に「働かせ方改革」として提起してくれたほうが的確だった。なぜなら、「働き方改革」と題するのであれば、働く当事者側から積極果敢に提起されるのが筋道だからである。

 果たして、いまの働く人たちは、50年前のAくんの気持ちが理解できるだろうか。働いて人生を作って行く「わが道」に迷いはないだろうか。

 組合活動が低調である。必要性が高いときには活動が高揚し、そうでないときには停滞するといえるほど結構な時代ではない。世界的に格差問題が渦巻いている。経営者の新聞を自認する日経新聞が「逆境の資本主義」という企画を提供する時期である。資本主義社会においては資本を巡って右往左往する。それを増殖することに腐心する経営者・資本家が社会・政治・経済的権力を揮うとしても、頭数では働く人層がメジャーである。働く主人公が「働き方改革」に無関心ではまずい。誤った! 「働き方改革」が進む危惧があるからだ。

労働観

 地球上に人類が登場して以来、営々と継続した活動が今日の世界を作った。活動の主たる軸が労働である、と規定しても間違いではないだろう。労働の担い手が働く人である。事件的歴史だけでは本当の歴史が見えない。

 労働とは、人間が自然に働きかけて、生活手段や生産手段を作り出す活動である。そこで駆使されるのが労働力である。労働力は、広く考えれば、労働力人口であり、科学・技術力である。人間は、自然の性質を正しく認識し(科学)、自然を加工・変質させる(技術)。人間、科学・技術が総合化されたものが産業である。働く人が労働のあり方に関心を持つのが当然である。

 労働は、目的意識をもった活動である。古代ギリシャに、praxis(実践・実行)という言葉があり、theoria(観照・観思→理論)という言葉がある。なにごとかをしたいという意志があり、praxisし、その活動の経過と結果をtheoriaする。PDCA(計画・実行・評価・改善)の源流というべきである。praxisがPD、theoriaがCAだ。

 これでは、いかにも味わいがないが、労働が価値創造をめざす人間独特の能動的行為であることは間違いない。関連して考えてみよう。

 画家が絵を描くのは、(彼が考える)芸術的価値の実現のための活動=労働である。研究者が研究するのは、真理という価値を求めるための活動=労働である。モノを作るのは、人間のなんらかの必要に応ずるための活動=労働である。なんらかの活動=労働は、いずれも人間の必要に応ずるためである。

 機械の美が注目を集めるようになったのは19世紀後半であるが、早くから建築物は単に機能だけではなく、鑑賞の対象としても考えられていた。これらは自然の美とは異なるが、人々の美的感性を楽しませる。卓抜したある技術者は「優れた機能を持つ機械の外観は美しい」と名言を語った。

 柳宗悦(1889~1961)は、庶民の手から生み出された手工芸品である民芸品の美を発見・発掘した。床の間に飾っておく骨董品が素晴らしいと同時に、人々の日常生活に手放せない茶碗1つを考えても、使いやすさや、愛着が沸くものは立派な芸術品である。底に銘があろうがなかろうが、日々の用に役立ち、愛されるものこそ立派な芸術品である。

 現代人はHomo sapiens(知性人)であるが、作る活動に着目したフランクリン(1706~1790)は、人間をhomo faber(工作する人)と呼んだ。人間は、他の動物にはない特質を備えている。

 哲学者は、「労働(活動の1つ)は、人間が、自分と自然の物質代謝を、自分自身の行為によって媒介し、規制し、制御するような、人間と自然との一過程である」と表現する。なかなか堅い表現であるが、その活動が、自分1人だけのためではなく、常に社会のためにおこなわれるという意義を考えれば、他の動物にはない、人間の活動であり、art(創造的)なのであって、大きな意味で芸術と呼ぶのにふさわしい。homo faberは芸術家でもある。

労働と人生

 文学の労働者であるトマス・マン(1875~1955)は、「芸術家は、人生に意味と形式を考える」、「いかなる意味においても(人を)活気づける」のが使命だとし、「芸術は孤独から生まれながら、その働きは人生を結びつける」と主張した。この言葉もまた、文学者の立場に留まらず、人生における活動=労働の意義が何であるかを物語っている。

 人は、気がつけば生まれていた。お願いして生を享けたのではない、加えて、人生は結構なことばかりではない。たぶん、厄介のほうがはるかに多い。日々の現実に手応えを感じながら暮らしているかというと、自分の意のままになるような手応えを感じないほうが多い。

 そこで「この世界に意味があるのか!」と呟きたくもなる。若きAくんの呟きと共通していたに違いない。おそらく、(生きる)目的を無意識に意識していないのが人間だとすれば、この世界の意味など考えようもない。

 デカルト(1596~1650)は『哲学原理』(1644)で、哲学とは、知恵の探求の意味であるとした。生活、健康、技術などあらゆる側面で、完全な知識を求めようとして努力する、それが哲学することである。人間は、精神が主要部分であるから、その栄養は知恵である。知恵の研究をするのが哲学である。(デカルトの時代は、哲学は総合的な学問を意味した)

 デカルトのお勧めは、真理を探究するにはできる限り疑え、疑わしいものは虚偽と考えるべきである。ところで、疑っているとき、自分が存在していることを疑うことはできない。これが、有名な「ego cogito, ergo sum」(われ思う、ゆえにわれ在り)である。考える自分が存在することは疑いえない。考えることは(思惟の様態)には、認識と意欲の2面がある。確実な認識だと思えるまで懐疑せよ。認識にゴーサインを出すのが意志である。

 デカルト的思考は、明晰・判明を求める。問題に対峙したとき、考えるのは自分である。これしかないと思える地平まで考える。画家が絵を描くのも、人がモノを作るのも、煎じ詰めれば出発点はpraxisであり、到達点はTheriaである。人生における活動(労働)は、これのくり返しである。

 もう1つ、デカルトは哲学するためには「あらゆる先入見を除け」と主張した。先入見を除いて、ものごとを明晰・判明にする。実際、われわれはあらゆる直面する問題について、この態度があまりにも不十分である。ここで政治を語る意図はないが、ちゃらんぽらんにして無軌道な政治が現実に許容されているのは、主権者1人ひとりが、政治とはこんなものだという先入見に停滞しているのであるし、自分が政治の主体者だと考えないから、明晰・判明など他人事になっているわけだ。

人間「疎外」をこそ力とせよ

 1970年代後半に、わたしの組合では「人間疎外」という概念にぶつかった。当時、専門委員会を立ち上げて作成された答申書は、残念ながら十分とはいえない。それでも、なんとか問題の入り口までは辿りついていた。その内容を紹介する暇はないが、今日のみなさんに役立ちそうなことを私流で記したい。

 ヘーゲル(1770~1831)の疎外論を紹介して考えたい。ヘーゲルは、精神が自己を否定して自己にとってよそよそしい他者になることを疎外と置いた。たとえば、画家が絵を描く。絵には画家の精神と技術が投入された。しかし、出来上がった絵は画家自身ではない。画家と絵の関係を疎外だとした。

 描く過程では、自分の意志で自分の精神と技術を投入するのだから、創作の苦しみがあるにしてもその活動は楽しい。出来上がった絵を見て観照して、しばし楽しむ。しかし、これで全て完成したとは考えない。画家にとって、すでに描いた絵が自分の全てではない。

 画家Aと絵Bを対立した存在とすれば、画家は、さらなる高みをめざして再び画筆をとる。次なる作物は、以前のAとBを止揚した絵Cが制作される。ヘーゲルは、この活動を繰り返すことによって、画家が成長するとした。

 この理論はその通りである。ところが、芸術家の1人であるはずの労働者の場合は様子が違う。活動=労働を通して画家的でありたいと願う人は少なくないし、客観的に、人は労働を通して成長する。そうではあるのだが、資本主義下における労働は、その目的が資本の単なる増大にあり、単純化した画家の話のように牧歌的ではない。

 ゴッホ(1853~1890)のように、絵を描くことが自分の人生だと考えるような仕事に就いている人は少ない。「この仕事は、おれの仕事だ」と断言する人も存在するが少数派である。多くの労働者は自分の生存のために働くのであって、作物を制作する過程を楽しみ、できた作物を観照して楽しみ、次なる制作に新たな意欲を燃やすような気風ではない。

 何のために働くのか。生活の糧獲得のために働くだけであれば、労働から得られる喜びがない。理屈でいえば、そこでは人生のために活動=労働するのではなくて、労働が目的化している。わたしは、仕事の段階を3つに区分して考える。生活の糧獲得が目的の場合をlabor、自分の能力発揮を目的とする場合をwork、労働が芸術的思考に充たされる場合をactionと置く。actionとして労働する場合が疎外を生きる力に転換している。

 自分が直接携わる労働に関してactionの思想を確立することはできるが、働く人が生活している状況を考えると、単に自分がそのような心がけで働くだけではactionを実践できない。誰もが、労働を通して人生を作って行く。誰もが気持ちよくactionをめざして働けるように、それこそが働く人にとっての「働き方改革」である。

 これを異なる言葉で表現すれば、アンガージュマン(engagement 仏)である。いわく、意志的実践的社会参加の意味である。狭い意味の生活の糧獲得に足踏みせず、actionをめざすために、自分の思考の前提にアンガージュマンを確立したい。そこから当たり前の「働き方改革」への道筋が開くのである。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人