月刊ライフビジョン | メディア批評

メディアとは?を考えさせる二つのテーマ

高井潔司

 本オンラインジャーナルの主宰者、通称家元の奥井礼喜さんのご努力で読者も拡大、「メディア批評」欄に対する批評を、直接メールで受け取るケースが増えてきた。批評に止まらず、こんな記事を読んだ?、こんな論調をどう評価する?といった情報提供やアドバイスも頂くようになった。

 今月はそのうちの二つを俎上に上げてみたい。一つは中国武漢に端を発した新型コロナウィルス肺炎をめぐる報道。もう一つは毎日新聞2月1日付の政治報道について論じた「時の在りか 政治記者なんて要らない」という編集委員のコラム。ともにメディアとは一体何かを考えさせるテーマである。

◇「不惜一切代価、本質上不是科学決策」

 まず最初の中国語の中見出しを説明しておこう。これは武漢の状況をSNSを使って日々発信し、削除されても削除されても発信し続けている女性(武漢在住の元湖北作家協会主席の作家、方方さん)の書いたブログの見出しである。翻訳すると、「あらゆる犠牲を惜しまずは本質的に科学的な政策決断ではない」という意味だ。彼女は、目下、武漢での状況が改善しつつあること指摘した上で、当初の対応の失敗を挽回するため、なりふりかまず、全てを犠牲にした対策を批判している。北京特派員の報道は相変わらず、現場にも行かず、中国当局の発表と習近平政権のメディア統制批判ばかりを伝えている。だが、こうしたジャーナリストが中国に存在することにも目を向けるべきだろう。同時に、私はこの見出しをみて、全国の学校に休校要請した安倍首相にも通じる批判だと感じた。

 このコラムの締め切りが迫ったころ、中国研究の先達、矢吹晋先生から「治癒退院者が感染者を越えた-1」のデータが届いた。「数日間の努力が実り、我ながらいいグラフができました。1枚目は、中国では2月17日辺りでヤマを越えて鎮静化に向かうことを示す。日本のメディアが「治癒退院者」を報じないのは、愚にあらざれば、誣(ぶ=ごまかし)の類か。感染者がすべて死ぬかのようなはしゃぎぶりは、常軌を逸しています。2枚目は患者累計と退院者累計、死者累計の概観です。このグラフは誰でも書ける」と先生らしい激しい口調で指摘している。

 実は、数週間前、矢吹先生から、アメリカでは、10万人を超える感染者、1万2千人を超える死者を出しているインフルエンザが流行しているのに、それを全く報道しないで、毎日、毎日、感染者が何人と新型肺炎ばかりを取り上げ、不安を煽る日本のマスコミはいかがなものかという批判の声が寄せられていた。私は、確かにそうした側面もあるが、感染のメカニズムが不明で、治療方法も見つからない中、感染が拡大する新型肺炎。しかも感染源の隣国に位置し、経済往来、人的往来もアメリカに比べ大きい中で、感染が広がる新肺炎に報道が集中するのはやむを得ないと答えた。

 それにしても、一連の報道を見ていて感じることは、新聞報道は日々の感染の拡大ニュースばかりに追われ、テレビのニュースショー、ワイドショーは、感染症の専門家を常にわきに登場させ、新聞に比べ比較的冷静な報道をした。それでも司会者、MCの主観的な誘導で、不安を煽っている報道に変わりない。

 新聞報道は、感染の進展に合わせた政府の発表をカバーするのに精一杯で、発表を受けて政府の対策はそれで十分なのか、それまでの対策は有効に機能していたのか、検証記事はあまりにも少ない。ダイヤモンド・プリンセス号という密室での感染拡大という突発的で、衝撃的な出来事があり、その報道に追いまくられて、冷静さを失ったという側面もあろう。

 読売報道によると、2月25日政府は基本対策として、自宅などで勤務する「テレワーク」や「時差出勤」を企業に呼びかけたほか、状況に応じて学校の臨時休校を要請したが、翌日26日になると、多数の観客が集まるスポーツ・文化行事の主催団体に対し、今後2週間は行事の中止や延期、規模縮小などの対応を取るよう要請したとある。なぜこんな小出しに対策が出されるのか。感染者が急増したのか。イベントによる感染拡大の事実があったのか。掲載されている感染者数の表を見ると、急激に感染者数が増えたわけでもない。としたら、イベント自粛は25日に一度に打ち出せば良かったはず。政府の対策は、後手後手に回っていることの例証ではないのか。その結果、各種の世論調査で内閣支持率が低下、安倍首相はそれを恐れ、何か対策を取っているかのように、次々と小出しに方針を打ち出し、27日には与党の幹部でさえ「唐突」という全国の学校の一律休校の要請まで打ち出した。

 北海道では、緊急事態宣言を発し、外出自粛さえ呼びかけた。それほどの感染者数の激増が起きているかといえば、そうでもない。いや、そもそも感染者数が増えていないのは、ウィルス検査の体制が遅れ検査数が少ないからだ。すでに感染ルートがわからないケースが各地で出ているというのに、武漢からの帰還者や感染者との濃厚接触者などに検査を限ってきた。そういう問題点が隠されているから、「本格流行回避の正念場」(読売社説)で、ここ1,2週間といわれても実感がない。本当のところはもう本格流行は始まっているのではないか。そうした疑問から発信する記事がない。検査体制さえ十分機能していない中、対策が「外出自粛」、「イベント開催自粛」ではあまりにも無策ではないか。

 そもそもインフルエンザと新型コロナ肺炎を比較してみると、実は日本国内で毎年インフルエンザの感染者は約1000万人、亡くなる人の数は数千人単位(厚生労働省HPから)であり、新型肺炎の感染メカニズムなどはわかっていないが、死亡率はそれほど高くなく、また症状も多くの人の場合、軽症である。議論も報道もそこから出発しないと始まらないのに、矢吹先生が指摘するように「感染者がすべて死ぬかのような」報道ぶりである。こうした調子に合わせる報道を重ねているので、2月27日、中国におけるSARS、新型肺炎の権威的研究者で、政府の専門家チームのトップ、鐘南山氏が記者会見して、「4月末には感染がほぼ抑制されると信じている」という発言も、日本のメディアではほとんど報道されていない。ちなみに朝日、日経、毎日は報道ゼロ、読売、産経、東京は国際面3段の扱いだった。

 今回の新型肺炎をめぐる報道と政府の対応はまるで太平洋戦争時を思い起こす。大本営発表と煽動的な報道によって、異なった視点からの冷静な分析を欠き、猪突猛進の様相である。「安倍政権支持の論調をつかさどる新聞社」の幹部はワイドショーで、休校要請をした首相の判断を「政治的な決断」だと評価していた。冷静な判断を欠いた場当たり対応を「英断」などと評価すると、とんでもない禍をもたらすことになりかねない。

◇「政治記者は要らない」とうそぶく新聞界のドンの真意

 もう一つの政治報道に関する毎日のコラムは、「今は政治記者が要らなくなりました。なくても新聞は困らない。政治はあっても、政局がなくなってしまった。(中略)政治記者が失業するぐらいの世の中のほうが、国民にとってはいいのかもしれないとさえ思うよ」 という月刊誌「文芸春秋」2月号に掲載された「わが友、中曽根康弘との六十年」という読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄氏の文章を枕に、日本政治の現状を論じた記事。

 渡辺論文もこの毎日コラムもお読みになっていない読者も多いと思われるので、コラムから長目に引用してみよう。

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 「御年93歳の渡辺氏は2年前、自分の墓碑銘を中曽根氏に依頼し、『終生一記者を貫く』と墓石に彫ったという。それほど思い入れの深い大物をして、今やわが職業も用済みと言わしめるとは……」

 「安倍政権支持の論調をつかさどる読売新聞最高首脳の淡々とした語り口の底に、政治の閉塞状況に対する苦い困惑と諦念のうなりが聞き取れるようではないか」

 「権力闘争の緊張感がないところには、政治すら存在しなくなるのではないか。今あるのは、報道はおろか国会のチェックも利かない一握りの官邸官僚が差配する統治、事務的行政と言った方が近い」

 「そこでは政治記者に限らず、政治家も有権者も要らなくなる」

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 さすがにベテラン記者の手練れの文章であり、ざっと一読すると納得させられる文章ではある。だが、メディア論を学び、日本の政治報道について、「政局報道はあっても政治報道はない」という批判が内外のメディア研究者の間で論じられていることを知っている筆者にとっては、渡辺氏の議論も、このコラムの結論も、「政治報道イコール政局報道」を前提としたもので、最終的に「有権者も要らない」という本末転倒の議論になってしまっていると感じた。

 ご両人の議論を煎じ詰めて言うと、政局とは権力闘争であり、権力闘争のない政局は政治報道の対象がないのも同然で、したがって政治記者は要らないということになる。しかし、政局のない政治こそまさに現在の日本の政治を停滞させ、閉塞状況に追い込んでいるのではないか。なぜ政局がない政治になっているのか。この現状を批判的に捉える政治報道があって然るべきではないか。かつての政権交代の可能性の低い中選挙区制を政権交代可能な小選挙区制へと転換させたような議論があってもいいし、小選挙区制の結果、いまや政権交代可能な体制どころか、それがむしろ“お仲間政治“の温床となっている現状をどう変革させるのか。官邸主導の起動力ある政治といいながら、それが忖度政治につながっている。その政治制度や構造の欠陥、弱点を論じ、その是正策を議論する政治報道がなぜ出てこないのか。もちろんないわけではない。政局報道こそ政治報道という勇ましい政局記者が政治報道を軽視し、おしつぶして来たのだ。

 そもそも渡辺氏の文芸春秋の文章を読んでみると、コラム氏が述べているような「政治の閉塞状況に対する苦い困惑と諦念のうなりが聞き取れる」ことは、全くない。あるのは、かつてのさまざまな政局のたびに、いかに渡辺氏自身が暗躍したかの、自慢話のオンパレードだ。追悼文の対象である中曽根氏はかつて政界の風見鶏と言われ、いくつもの政局を作り出したわけだから、その盟友、渡辺氏にはその思い出話、自慢話がいくらでもあり、その自慢話がとりもなおさず中曽根氏に対する追悼になっているのだ。コラム氏の言うような、「安倍政権支持の論調をつかさどる読売新聞最高首脳」に、「政治の閉塞状況に対する苦い困惑」などあろうはずがない。

 当初、このコラムを読んだ時、「困惑と諦念」というのは、コラム氏の皮肉の表現かとも思ったが、どうもそうではない。渡辺氏も、コラム氏もともに、政治報道イコール政局報道だという姿勢で記者生活を歩んできた人ではないのか。政局記者は、政局を通じて、政治家(権力者)たちと手を結び、それを資本にメディアを牛耳り、政治報道を抑えてきた。この事を、文芸春秋の渡辺氏の文章は、臆面もなく、自慢気に語っている。例えば、彼がワシントン支局の特派員として赴任する時、時の佐藤栄作首相は彼を呼び出し、現在の読売本社ビルのある国有地を、渡辺氏への餞別として読売に払い下げると告げたと書いている。その政局報道のなりの果てが、批判を許さぬ安倍一強のお仲間政治と政治の閉塞状況であり、「有権者」不在の政治報道だったと言えるだろう。


高井潔司 メディアウォッチャー

 1948年生まれ。東京外国語大学卒業。読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て、桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授を2019年3月定年退職。