月刊ライフビジョン | 論 壇

魑魅魍魎の時代を照らす理性を

奥井禮喜

政治の始まりの伝説

 『史記』の五帝本記に登場するのが魑魅(ちみ)である。魑は虎の姿の山の神、魅は猪頭の人の形をした神で、山林の異様な気配から生まれる山の神とする。魍魎(もうりょう)は水の神、精ということになっている。

 『史記』は紀元前91年ごろに完成した司馬遷(前145頃~前86頃)による歴史書である。司馬遷は前漢の人、陝西省出身。儒教を政治教とした武帝劉徹(在前141~前87)の下で太子令(皇子長官)であった。李陵(~前74)が匈奴討伐に出て善戦敢闘したけれども敗れた。司馬遷が、李陵がやむなく匈奴に降ったことを弁護したために、宮刑に処せられた。そこから発奮して歴史書作成に人生を投入して、不朽の130巻を生み出した。

 いまから2100年以上前に歴史書が書かれた。この文化の先進性を見落として中国とお付き合いするのは軽率どころか大いに危険である。まだお読みでない方は、ぜひ『史記』を読んで、未来の日中関係を考える一助にしてほしい。

 少し脱線する。先日の日中韓首脳会談で、安倍氏は「新しい三国時代を作りたい」と語ったが、中国では三国時代というのは220年から280年、後漢が滅び、魏・呉・蜀の三国が鼎立した戦乱時代である。『三国志』をご存知であろう。また、韓国に関していうならば三国時代は、4世紀から7世紀にかけて、新羅・高句麗・百済が鼎立して争ったのであって、「新しい」をくっつけたとしても、あまり上等な例えではない。歴史通の習・文両氏は内心せせら笑っていたかもしれない。

 話を戻す。神話時代の皇帝伏羲(ふっき)は、人頭竜であり、皇后の女媧(じょか)は人面蛇身である。魑魅魍魎といえばおどろおどろしいけれども、古い時代の人々が自然を畏怖し、あるいは外敵を恐れて、生み出した表現であろう。

 神話と歴史の境目の皇帝が堯(ぎょう)と舜(しゅん)である。

 堯はすでに並みの人間であるが、徳望によって中国全土を統治した。天のような仁慈、神のような知識をもち、人柄は温かく、富んでおごらず、怠らず、万人の範として不和争乱の起こらない国造りに励んだ。ついでだが、これが「百姓昭明、協和万国」(『書経』)で、元号の「昭和」はここから採った。

 有名な伝説がある。堯がお忍びで人里へ出ると子どもが「毎日こうして楽しく暮らせるのは皇帝さまのお陰です」と歌っている。すると老人が「日が出れば働き、日が入れば休む。井戸を掘って飲み、田を耕して食べる。皇帝さまの力など関係ないさ」と歌う。何も支配せず、人々に支配を意識させないのが理想政治だとする考え方である。

 堯は、周囲に優れた人材がいないので、民間の賢者である舜に試練を与えた後、舜の人格を認めて、自分の子どもではない舜に帝位を譲った。舜は帝位に就くことを固辞し、避けようとしたが、仕方なく帝位に就いた。舜はまた、自分の子どもに帝位を継がせず、治水に大功のあった禹に帝位を譲った。これが禅譲、帝王が世襲せず有徳者に帝位を譲るのである。

 政治権力を手にする者が、誠心誠意人々のために尽力し、後継者選びにおいても私情を挟まず有徳の人を指名するという考え方が極めてすがすがしい。そのような精神であれば、露悪な手段で権力を奪取しようとか、権力維持のために手練手管を弄することはない。ましてや権力を個人的利得のために使うようなことはない。

 所詮、神話的な話にすぎないと切って捨てるにはもったいない。むしろ、極めて素朴実直に政治と政治権力者の在り方を示唆する話として、みなさまにお考えいただきたく、古い話を引っぱり出した次第である。

政治は最高の道徳である

 1人の人間が自分の生を全うするのは容易ではない。大昔の人が魑魅魍魎を作り出したのは、単に自然や外敵の脅威だけではなく、避けられない厄介な生活において、1人ひとりが真剣真摯に人生を作り上げていこうという願いがあればこそだろう。それがやがて現代の文化文明につながる人間的精神の根本なのである。

 1人ひとりの真剣真摯な生き方に立つ政治は、必然的に道徳的でなければならない。政治が乱れては健全な社会を維持できない。かくして、洋の東西を問わず「政治は最高の道徳である」という言葉が登場する。

 もちろん、現実の政治は最高の道徳とはとてもいえない。「政治が最高の道徳である」という命題と実在が合致していないという意味では、これは真理ではない。では、「政治は最高の道徳たるべし」とすればどうだろうか。少なくとも、実践的行為において有効有益な考え方であることは否定できないはずだ。

 ところで、「政治に道徳を求めるなど愚である」という説もある。なるほど、あらゆる問題がすべての人に幸福な結論を期待できない以上、政治的決定がすべての人に満足を与えられないのは事実である。そこで民主主義においては論議を尽くして、論議が煮詰まれば多数決を行使する。満足できなくても決定に納得できれば、その決定は妥当である。

 ところが、論議を尽くそうが尽くすまいが多数決の結果が同じなのだから、論議を尽くす必要がない、というのが現在の政府与党的思考と行動である。先の1年、国会において十分な論議が展開されたと考える国民はいない。にもかかわらず、このような低次元の実利主義をリアルな見識だとするならば、その本質は問答無用の実力主義であって、まちがいなく議会政治の自己否定であり、必然的に議会政治の崩壊を招く悪しき政治である。

 伝説的・理想化された堯舜の政治を期待するつもりは全くないが、政治が社会において不可欠の制度であるとすれば、その制度が無定見、乱暴に扱われるような事態は毅然として否定しなければならない。そもそも、ばらばらの人々を1つにまとめ上げていくのが政治であって、人々が政治(という制度)に愛着をもたないのであれば、原始的な無政府主義に逆行してしまう。

 多くの人々が政治に対して背を向けてしまうのであれば、世の中は乱れる。政治が好きでない人であっても、いまより悪くなる政治を希望する人はいないはずだ。昨今、政治的道徳というような言葉が語られることは少ない。一方、政治に道徳無用論を押し立てる人がいるとしても、それを本来の政治だと歓迎する人が多数派ではないであろう。

政治が魑魅魍魎と化した現代政治

 いかなる政治においても、言葉の価値が尊重されなければならない。言葉というものは、個人と個人、個人と社会を結びつけるコミュニケーションの柱である。元来、欧米の政治家においては「嘘つき」呼ばわりされることを最大の恥辱とし、自分が語る言葉に責任をもつのが政治道徳の基盤である。

 たとえば米国初代大統領ワシントン(1732~1799)は、1775年以来の独立戦争を指導し、83年に独立を成就して、建国の父と呼ばれ慕われるが、つねに強調されるのは正直で嘘をつかない人柄である。

 正直というのは人と人が交際する上で信頼関係の基盤である。わが国の職場では、コミュニケーションがよろしくないといわれて久しい。コミュニケーションとは、社会なくしては存在できない人と人、人と社会の信頼をいうのであって、「社会=信頼」を表現する言葉である。巷間、人間関係をよくするためにコミュニケーションをよくするというような使われ方をするが、全面的にまちがいであるとはいわないけれども、コミュニケーションを単なる手段の次元に引き下げた理解である意味において正しくない。

 わが国でコミュニケーションという言葉が広がったのは戦後である。しかし、それが非常に表面的に理解されて、「社会=信頼=コミュニケーション」という根本の理解と認識が欠落している。それは、戦後、民主主義になったものの、民主主義の根幹が理解されていないのと同じである。

 また、「社会=信頼=コミュニケーション」が理解されていたはずの米国において、トランプ氏という現代的魑魅魍魎が登場した事実を考えないわけにはいかない。トランプ氏が大統領ではなく、辣腕だが信頼できない実業家であれば大問題にはならない。氏が米国大統領という現代世界における最大の権力を握っているから大問題なのである。

 トランプ氏の最大特徴はフェイク発言に示される。民主主義においては、言論の自由が極めて尊重される。言論の自由は、かつて権力者が恣意的に権力を行使し、人々の自由を抑圧したことから、権力に対する人々の自由を守る武器として憲法に掲げられた。その背骨は、「社会=信頼=コミュニケーション」であって、その公式にフェイクが混じる隙間はない。

 ところが、いまや、フェイクを発すること自体が表現の自由だと解釈するような事態になっている。米国において、政治家的正直の価値が確立しているならば、大統領弾劾騒動を起こさなくても、トランプ氏が政治家として不適格だということは自明の理である。その自明の理を大統領の権力において根底から覆しているのだから、魑魅魍魎だといわざるを得ない。

 フェイクというものは、直接的に嘘をつかなくても成立する。この間、安倍氏が国会においてさまざまの疑惑を追及されてきたが、質問に対してまともに答えたことは一度もない。ある事実を問われた場合に、きちんと答えないのは嘘をついているのと等しい。

 そればかりではない、安倍氏は支持者に対して、「国会で政策論議以外の問題ばかりで、政策論議を十分にできなかったのは申し訳ない」と語った。安倍氏自身の疑惑に対する質問にきちんと答えず、つまり、間接的に嘘をついておきながら、そのような事態になったことを他者に転嫁する。これを確信犯というのである。

 参議院で議員が質問中に、安倍氏は「共産党」という野次を飛ばした。ここで共産党と表現したのは、大正デモクラシーの時代に、「共産党⇒アカ⇒危険分子」として、国家権力とその取り巻き、無知蒙昧の人々が、デモクラシーの芽を摘み取り葬り去ろうとした動きを彷彿させた。デモクラシー国家になって74年目の国会で、もっともデモクラシーを尊重し、それによって発言し行動しなければならない首相の口から飛び出したのである。

 自民党は国家主義政党である。わが国は主権在民であるから、国民のための公僕たるのが政治家・官僚であるが、自民党の大方の議員は、政治家・官僚は国民に対して君臨するものだと考えている。たとえば基本的人権を語る奴は左翼だという。ここでも、「左翼⇒アカ⇒危険分子」が意味されている。自由民主党として自由と民主が看板であるが、看板に偽りありと批判せざるを得ない。

 自由と民主の国で、首相が率先してひたすら国家主義へ逆戻りしようとする政党が戦後70余年のほとんどの政権を担ってきた。国民が自民党議員を選ぶからである。3000年以上昔の魑魅魍魎は自然や外敵であったが、21世紀のわが国は内部に魑魅魍魎を抱え込んでいる。

 国民1人ひとりが民主主義者としての理性を取り戻し、民主主義を本気で育てる以外にこの状況から抜け出る道は存在しない。

 敗戦直後の1945年10月2日、米国女性ノーベル文学賞作家のパール・バック(1892~1973)が日本人のために寄稿した文章の一部である。

 ――民衆が自由で独立的で自治的である国は、いかなる国でもつねに善なる人々と悪なる人々との間に闘争がおこなわれる。もし、この闘争がおこなわれないならば、それは暴君が支配して、善き人々が力を失っていることを意味する。……善なる人々において、万一自由を享受して、しかも責任を負わずに生活できるような国を夢想しているとすれば、彼らはその空中楼閣的な夢から呼び覚まされなければならぬ――


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人