月刊ライフビジョン | 論 壇

労使関係を根本から考えてみる

奧井禮喜

 なにごとも歴史を考えなければ現在の立ち位置がわからない。昔から日本人はせっかちで、すぐに結論を求めるくせがある。ビジネスの世界では、とりわけその傾向が強い。「儲かるか、儲からないか」「損か得か」、それだけが問題だというわけだ。しかし、急いては事を仕損ずる。少し遠回りしたら見えていなかったものが見えるかもしれない。

労働者の歴史は18世紀欧州に始まった

 中世の欧州で忘れてはならない大きな出来事がある。

 ①ドイツで始まった宗教改革(1517)、②イギリスの名誉革命(1688)、③フランス革命(1789)である。これらを貫くキーワードは「封建社会からデモクラシーへの流れ」である。

 ①によって、人々は神の言葉ではなく自分の言葉で考えるようになる。ルターは「1人ひとりが自分の司祭たれ」と言った。個性の自立である。②は、市民の自由・議会の権利を王様(権力)に認めさせた。③は、10年間にわたる激動の後、ナポレオンが登場して帝政に戻ったりするが、1830年に革命を達成した。つまり、封建制からデモクラシーへ転換した。

 イギリスでは、産業革命(1760)が始まった。資本家が台頭し、技術革新で産業の景色をがらりと変えた。自由奔放な生産活動で産業が一挙に発達した。1825年には初の恐慌に陥ったが、資本主義体制が確立した。

 生産を担ったのは労働者である。農村の小農業者を中心に都市の工場に流れ込んだ。賃金労働が発生し定着する。賃金と利潤の対立関係が開始した。

  資本家(工場主)にすれば、作れば売れる、売れるから儲かる、儲かるから有頂天になる。史上初めての体験である。のぼせ上らないほうが不思議である。資本家は資本が増えることが最大の喜びである。資本が絶対である。一方、経営は粗悪である。労働条件は劣悪である。華々しい産業革命を支えたのは労働者の悲惨な生活であった。

 18世紀後半から工場労働者が結束して闘い始めた。非人間的な扱いに対してサボタージュ・暴動・ストライキが頻発した。1836年から48年、労働者を中心として政治運動が高揚した。この綱領が「人民憲章」(People’s Charter)で、普通選挙権獲得をめざして活動した。成功しなかったが、労働者が政治の舞台へ登場した意義は小さくない。18世紀後半からの70年間にイギリスのGDPは50%増加した。資本家の所得は200%増加した。資本収益率r>経済成長率gである。資本主義は発達するが格差は拡大する。

明治から太平洋戦争までの労働運動

 労働運動は産業革命によって自然発生的に始まった。労資関係はとげとげしいもので、今日のような労使関係の段階に入るには、およそ1世紀を要した。

 日本で労働運動を始めたのは、1897年に高野房太郎(1869~1904)らが結成した労働組合期成会である。善戦健闘したものの、政財界の圧迫と労働者意識が容易に育たず挫折する。

 1912年に鈴木文治(1885~1946)らによる友愛会が立ち上げられた。大正デモクラシーの機運が盛り上がるなか、1919年には大日本労働総同盟友愛会と改称して、以下の主張を掲げた。

 1 労働非商品の原則、2 労働組合運動の自由、3 幼年労働の廃止、4 最低賃銀制度の確立、5 同質労働に対する男女平等賃銀制の確立、6 日曜日休日(1週1日の休養)、7 8時間労働及び1週48時間制度、8 夜業禁止、9 婦人労働監督官を設くること、10 労働保険法の実施、11 争議仲裁法の発布、12 失業防止、13 内外労働者の同一待遇、14 労働者住宅を公営にして改良を図ること、15 労働賠償制度の確立、16 内職労働の改善、17 契約労働の廃止、18 普通選挙の実施、19 治安警察法の改正、20 教育制度の民本化。

 友愛会は当初ゆるやかな労資協調主義であったが、社会主義的な闘争方針に転換したものと受け止められた。要するに「組合・労働者を認めよ」というに過ぎないのである。協調というものは自分だけでは成立しない。労働者の声、要求を天下に知らしめなければならない。しかし、依然として官憲や資本家の弾圧を覚悟せねばならなかった。

 1923年9月1日の関東大震災をきっかけに、日本全土に反動的な嵐が巻き起こる。さらには1931年満州事変以後、度々の軍部クーデターが続き、1937年日中戦争へ、軍国主義・全体主義国家へと突き進み、1941年の太平洋戦争開始後、労働運動は全面的に壊滅した。

 ここまでの労資関係を概括すれば、資本家は、「働かせてやる」という考え方であり、今日のような労使対等論などはまったく持ち合わせていない。賃金引上げを要求するのは、一種の「一揆的」な雰囲気が漂っていた。

春闘全盛時代の気風

 1945年8月15日の敗戦以降、労働運動が息を吹き返した。占領軍が、日本的デモクラシーを育てるために組合結成を推奨したこともあり、組合が続々結成された。敗戦直後の生活難で、賃金闘争を中心に盛り上がる。

 1955年には春闘が生み出された。日本中の組合が同一時期に賃金引上げに取り組もうというのである。これは大当たりであった。1970年代までは、外国にまで「Shunto」という言葉が鳴り響いた。年が明ければ、組合員が執行部に「今年はいくら要求するのか?」と尋ねたものである。

 賃上げ交渉が始まれば、組合事務所はいつも賑わった。要求額が低いと文句をぶつけ、交渉で手を抜くなと突き上げる。交渉の各段階で組合員に経過を報告し、いよいよ山場に至り、妥結目途を論議する。これが一筋縄ではいかない。かんかんがくがくの論議が延々と続くのが普通であった。

 本部交渉団が妥結すれば、今度は「なんで職場の意見を聞かないんだ!」と突き上げる。要求を慎重に決定しようとすれば、どうしても組合員からすれば低い。なんとか収まっていたのが、妥結目途論議で再燃する。妥結目途が1円欠けてもストライキだと鼻息が荒いのであった。

経営参加論の時代へ

 1970年代半で経営参加論が登場した。これは欧州の組合が先鞭をつけた。もちろん現実に経営参加していたのである。

 前述したように、戦前は経営者からすれば「働かせてやる」のであって、当然、賃金は経営権そのものである。経営権に他者の介入を許さず、である。

 戦前は相変わらずの封建思想で「忠君愛国」、「君に忠、親に孝」である。会社といえば親も同然、社員といえば子どもと同じだ。孝行するべき子どもが親に小遣いをねだるのは道に反する。黙々と尽くしていれば、愛い奴だというわけでなにがしかの恩恵を与えてくださる。ここには労使対等の欠片もない。

 ところで、賃上げ交渉は、労使が対等の立場で賃金を決定するのであるから、経営参加の1つである。ただし、賃金交渉が組合(労働者)の経営参加であるという理屈は、当時皆無であった。

 ILO(国際労働機関)の根幹的原則は、①労働は商品ではない。②表現と結社の自由、③貧困は世界全体の繁栄を脅かす—-、④貧困に対する闘い、である。ILO第26回総会で採択されたフィラデルフィア宣言(1944)である。前述、大日本労働総同盟友愛会の主張の1、労働非商品の原則も同様であるし、労働組合期成会も「労働の神聖」を掲げていた。

 いわんとするのは、雇用関係においては、単に労働力を商品として扱うのではなく、人として尊重し、完全雇用をめざすべきだというのである。

 賃金は労働の対価ではなく、労働力の価格であるが、スーパーで大根やニンジンを買うのと同じように扱われたのでたまらない。労働者としては至極当たり前の、なおかつ切実な要求である。

 その考えを展開していけば、会社は、資本・経営・労働の三位一体が円滑であってこそ成果を上げるのであるから、労働者は経営の対象としての労働だけではなく、働き方を通して、主体的に経営に参加・参画するという理屈になる。

 これは、「経営とは働き手を得るのではなく、協力者を得るのである」(桐原葆見)という考えである。ただし、現在に至っても経営者の多くは、労働者を働き手としてのみ考えているのではあるまいか。

 第二次世界大戦後、イギリスでは「handからHeadへ」という言葉が登場した。働き手ではなく働く頭、人間だというのである。わが国の1970年代は、労使関係は概ね安定して協調的関係が進んでいた。そこへ組合が経営参加を唱えたのである。

 労働者が、もらうもの(賃金)をもらえばそれでよいというという考えではなく、働き方を通して経営に参加するというのは、経営者にとってもおおいに歓迎すべきことである。

 しかし、多くの経営者は依然として、労働者の「会社想い(忠誠心)」は歓迎するが、経営参加は迷惑だという考えが少なくない。労働組合活動に経営が口を挟むと不当労働行為になる。経営に組合が口を挟むのは「不当会社行為」ではないかと理屈を言った経営者もいる。

 中小企業の経営者には「わしの会社だ」「鉛筆1本までわしのものだ」「わしが会社だ」という意識が強い。会社は社会的公器であると大上段に振りかざさなくても、経営者が会社を発展させようと願うのであれば、労働者が「HandからHeadへ」意識的変革してくれるほうがはるかに上等なはずである。

 組合の経営参加が言われるようになって久しいが、さして前進しているようでないのは、煎じ詰めれば、「経営とは働き手を得るのでなく、協力者を得るのである」という理屈が理解・浸透していないと言うしかない。

職場が荒れている!

 内外の経済を概観すると、先進国経済は1974年でピークを打ったことがわかる。1980年代から徐々にその現象が現れてきた。この間、生産性は伸び悩んでいるし、社会的に格差が大きく拡大した。一見、経済が円滑なようであるけれども、実物経済が停滞し、金融経済が拡大したのである。

 金融緩和をいくら進めてもGDPにさしたる貢献がない。GDPは実物経済の動きである。金融の売買が価値を生むわけではない。

 日本企業の利益剰余金は463兆円ある。儲かってため込んでいるのであるが、実は投資する先がない。日本の産業が弱体化しているのは疑いない。

 世界の債務残高は180兆ドルになった。そのうち日本は18兆ドルである。世界の債務残高はすでに2008年世界金融危機前の1.6倍という巨額に上っている。言いたくないが、いつバブルがはじけても不思議ではない。

 経済成長という、見てくれ数字ばかりを頼っているうちに、経済の質は極めて劣化している。経済の質が劣化しているのは、労働面からいえば労働の質が劣化しているというしかない。

 弁護士さんによって過労死110番が立ち上げられたのは1988年であった。1990年代になると年を追ってパワーハラスメントが問題になった。90年代はじめに和製バブルがはじけて、人員整理が吹き荒れた。

 それから徐々に経営は回復して、利益剰余金をしこたまため込む次第になったけれども、不安定かつ安い雇用の労働者が全労働者の40%を占める。長時間労働も有給休暇取得も相変わらず改善の動きが見えない。

 労使協議が平穏無事であるのは結構だが、それは表面的な平和ではないのだろうか。たとえば、コミュニケーションが円滑だという話をまったく聞かない。1990年代後半から事態は確実に悪化している。労使協議で、コミュニケーションについて真剣な議論がなされたという話も聞かない。

 人間社会は、コミュニケーションが成立したから発展してきた。コミュニケーション不全だということは、その社会(組織)の劣化と同義語である。労使関係者に危機感がないのは極めて不思議である。

 蚊帳の外からの懸念をいえば、労使対等が組合執行部だけの段階に止まっており、本来の、集団的労使関係の対等と無関係になっているのではないのか。

 パワーハラスメントが問題になっているのは、1つひとつの職場が閉鎖社会化しているからである。単に1人の上司と1人の部下の間で発生しているのではなく、ハラスメントを許容する気風が支配しているのではないのか。

 ハラスメントの原因を理屈で追求すると、労使対等がどこかへ吹き飛んでいるからである。労使対等を堅実に追求するために、労働者は組合力を養わねばならない。その流れを起こすために、執行部は組合内部のコミュニケーションを再建しなければならない。

 極めておおざっぱにいえば、職場で組合員同士のオープンな会話が成立するようになれば、ハラスメントの大方は消えていく。同時に、それができれば必然的に組合力が身につく。

 いま、確かに労働運動創生期の険悪な労使関係はない。しかし、その範囲を非正規労働者にまで拡大してみると、粗悪な経営や劣悪な労働条件が想像できるのではないのか。

 労使対等は資本主義において、永久に続く課題である。組合が労使対等を担うのであるから、まず、組合力を養わねばならない。組合力は、組合員相互のオープンなコミュニケーションなくして育ちえない。

 そして、もう1つ。歴史を忘れないでほしい。それは他でもない。労働運動の発展はデモクラシーの発展と歩みを同じくしている歴史を銘記してほしい。執行部・活動家のみなさんの奮起一番を期待する。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人