月刊ライフビジョン | ヘッドライン

目撃者として、推進者として

ライフビジョン学会

東アジア情勢を踏まえて、前途を考える
[奥井禮喜]

 1517年10月31日、マルチン・ルター(1483~1546)が、ドイツのザクセン・アンハルト州・ウィッテンベルクの教会堂の門に95カ条の論題を掲げて免罪符に反対した。誰でも知っている宗教改革の幕が切って落とされた。
 しばしば暗黒の中世といわれる。その最大のものは絶大な権力を行使したカトリック教会が、いわば教会ビジネスに堕落し、大聖堂建設の財源工面の方策として免罪符(罪を許す証文)を乱発したのみならず、それを批判する宗教者を弾圧して恥じなかった事実にある。
 ルターの前にも、多くの宗教者が教会再生のための行動を起こしては弾圧され運動を潰された。ようやくルターに至って宗教改革(Reformation)が本格化したのである。今年は、それからちょうど500年に当たる。
 ルターの宗教改革が成功した理由の1つに、活版技術が盛んになっていた事情が挙げられる。人々が、情報を入手し、問題の本質について考える条件が大きく進展していたからである。
 それを思えば、現代は、いかなる問題があろうとも、大方の人々が必要な事情を知ることができる。メディアクラシー(media cracy)で、メディアに支配されているとか、情報洪水であるとか、フェイクニュース(fake news 偽情報)が氾濫しているとか、けたたましいけれど、少し考えれば真偽を見抜けないわけがない。
 メディア・リテラシー(media literacy 見抜く力)という言葉がある。わたしは、そのために、「本当に、本当か?」を考える習慣を心掛けたい。わたしも、間違いなく、時代の目撃者の1人なのだから、メディア・リテラシーに基づくファクト・ファインディング(fact finding)に努めて、真実に接近する思索を重ねたい。
 情報=ニュースの本質は、わたしが料理をつくる=思索を組み立てていくための材料である。材料の品質(=fact 事実)がよろしいかどうか、そのまま料理に仕えるかどうかをまず吟味する。続いて、そのトレーサビリティ(=Cause 原因)を辿ってみる。そして、最後は料理の出来栄え(=effect 効果)を考えるという文脈である。

本当に、ほんとうか?

 人間が今日の文明を構築するに至ったのは、先人たちがものごとを思索したからである。とりわけ「懐疑」することが偉大な精神の核心であろう。ある事柄について「なぜ?」という問いかけをし、突き当たるまで、倦まず弛まず思索する。それなくして偉大な発見も発明もなかったであろうし、そのお陰で今日のわたしの生活がある。
 これは理屈でいうほど簡単ではないが、日々の生活において、しばしば身につまされる体験をする。以前読んで、アンダーラインを引き、メモをとった本を再読して、また新しい発見がある。さらに再再読すると、アンダーラインを引いた部分について、以前とは異なった解釈に思い当たる。いつまで経ってもなかなか1冊の本を卒業できない。
 印刷されている文章が変化するわけはない。読んでいるわたしが変わったのだ。たまたま小さなことでも嬉しくなるのは、書かれてあることではなく、言外の文脈を発見することである。新聞はボロ雑巾だ、と痛烈批判した作家がいたが、片や古典といわれるものは古くなっても言葉が立っているみたいである。立派な古典と新聞記事を比較しては気の毒だけれども、まあ、このくらいの違いがあることは疑いない。
 広い視野で問題を見つめなければならない。わたしが耳目する情報は、善玉・悪玉の2つに分けられるような事柄は少ない。たとえば、かつてブッシュJr.はイラク・イラン・北朝鮮を「悪の枢軸」呼ばわりした。一方、決めつけられた側からすれば、「(ブッシュくん)あんたのことだよ」と言いたいであろう。
 トランプはもっぱら悪玉的役割で、かの「America first」は、アメリカ以外からすれば、まことに不愉快千万な表現である。ところで、トランプと比較すれば天地の違いがあるかのように見える哲学者的オバマも「アメリカ例外主義の正当性を信ずる」と語った。表現こそ違うが、アメリカが世界を支配するのだという意思は、アメリカ大統領の一貫した「申し送り」みたいなもので、これがアメリカ外交を縛っている思考だという事実を見落としたくない。
 米副大統領ペンスが「平和は力によってのみ達成される」と公言した。なるほど2016年世界軍事費1.68兆ドルのうちアメリカ軍事費は6,110億ドル・36%を占める。中国は2,150億ドル・13%、ロシア690億ドル・4%である。まさに圧倒的な力を誇示している。同年、アメリカが世界の7か国に対して投下した爆弾は26,171発になるそうだ。

問題は問題設定のあり様にあり

 しかしながら、かくも圧倒的「例外」のアメリカであるが、アメリカがニラミを効かせているにもかかわらず、世界は安定するどころか、ますます不安定感を増している。なぜだろうか? 問題の設定を間違えているのである。平和構築という概念は政治的概念である。ペンスは、軍事によって平和を論じている。軍事的概念で問題解決を図ろうとするのだから政治的概念ではない。
 軍事的概念で平和を構築できないのは歴史が証明している1つの事実である。1962年、米国防長官マクナマラが、いわゆる「マクナマラ・ステーツメント」を発した。当時、もし米ソが核兵器を使って戦えば、いずれが先制攻撃しようとも、双方ざっと1億人の死者が出るとした。そこから、ニュークリア・アイロニー(nuclear irony 核の皮肉)で、核兵器は使えないという話になった。これが「力の均衡」論の突き当りで、使えないから核兵器が平和を維持するというような荒唐無稽論が登場した。なにが荒唐無稽かというと、今度は戦術核兵器なるものの開発に勤しみ、「力の均衡」論のバカバカしさを克服するどころか、ますます武力開発競争に励んだのである。
 平和を論ずるのであれば、政治的に平和を追求するしかないのは、論理的帰結である。しかし、誰も、それを認めようとしない。この構図は、すでにシビリアン・コントロールが機能していない。政治家がひたすら軍事に頼るのだから、つまり、世界の運命を握っている主人公は軍事の専門家だという苦い話になってしまう。
 アメリカにはdeep state(国家のなかの国家)という言葉がある。アメリカ国家安全保障局(NSA National Security Agency)である。国防総省の諜報機関で、ここには諸外国に関する超高度機密が掌握されており、大統領といえどもそれにアクセスできないというのである。本来は国の機関の1つとして作られたのに国家の最高責任者すらタッチできないというのであれば、もはや、なにをかいわんや。軍事のための軍事体制が牢固として確立してしまえば、平和という政治概念などなきに等しい。
 すでに、アメリカの制服組が暴走開始しているという見方もある。わが国でも1945年の敗戦までは、軍部がやりたい放題に暴れ回った。いまと比較すると、当時の軍事力はチャチなものだといえるが、いまは間違いなく世界壊滅の危険性を抱えている。
 オバマ時代に、アメリカは2020年までに、アメリカ海軍の2/3をアジア太平洋へ配置する戦略を決定した。その最大の狙いは、いざという場合のマラッカ海峡封鎖にある。言わずと知れた中国包囲網である。インド洋と太平洋を結ぶマラッカ海峡は全長900km、幅70km程度である。中国が南シナ海で躍起になっているのは、これへの対抗戦略である。
 2016年9月には、太平洋軍司令官ハリー・ハリスが、「報復主義のロシアと強引な中国に対抗する準備がある」「相手がナイフを使うなら、こちらは銃で、相手が銃を使うなら、こちらは大砲で——」云々と語った。この文脈上には必然的に核兵器の使用も辞さずという話になる。
 トランプは「核兵器をもっていても使わないのであれば意味がないから、必要があれば使う」と語った。従来であればタブーである言葉を、あっけらかんと口にする。「使わないものをもつ意味がない」、これは正しい。しかし、「使ってはいけないものを使う」のは間違いである。ゆえに、正しくは「使わないものをもつ意味がない」から「廃棄する」というべきである。タフなビジネスマンだかなんだか知らないけれど、このような人物がアメリカの大統領である。
 もう1つ、心配がある。北朝鮮問題に関して考えてみる。北朝鮮の真意は、アメリカによる敵視政策を止めてほしいことにある。一方、アメリカには「抜本的改善を望んでいない」という見方がある。つまり、米軍の展開上現状の敵対関係こそが望ましいというのである。これは共和党・軍関係に強いという。
 もし、朝鮮半島が文字通り平和になれば、アメリカ本土以外の基地は縮小しなければならず、駐留経費も縮小されることになるし、さらに兵器商売の産業が困惑するというわけだ。「deep state+軍事産業」の期待という視点から考えて、ありそうな話である。もうこうなると、平和云々など幻である。

アパシーに逃げ込んではいけない

 軍人さまに世界の未来を委ねることはできない。第一次世界大戦後(1919)、第二次世界大戦開始(1941)までの間、世界の良識は、「人間とはなにか?」「生とはなにか?」「世界とはなにか?」「なぜ生きるのか?」というような哲学的命題の回答を求めようとした。偶発的に発生した第一次世界大戦でヨーロッパは惨たんたる結末を迎えた。2度と馬鹿はやりたくないという切実な気持ちであった。しかし、日本とドイツが第二次世界大戦を引き起こしたのである。
 いまは、第一次世界大戦終了からほぼ100年の時点にある。この100年、果たして人類は英知の進歩を獲得してきたのであろうか。第二次世界大戦後、タブーとしてきたことを平然と口にする人物がアメリカ大統領になった。少なくとも、これ、わたしが遭遇している現実の世界である。
 奇妙でグロテスクな政治家が登場するのは、やはり、社会が病んでいると考えなければならない。アメリカもグロテスクであるが、わが国も負けてはいない。むしろ、わが国のほうがアメリカの先を行っていると言うべきである。憲法・法律を好き放題に解釈し、議会論議で真っ当な説明責任を果たさない。そして、なによりも、そのような政府・与党に対する支持率が下がらない。他に頼られる存在がないというのは一見理屈ではあるけれども、本当にそのように考えているのであれば、能天気を通り越して無知蒙昧であるし、もっといえば奴隷根性である。
 奇妙でグロテスクであるから、見たくないし聞きたくないのが本音であろう。嫌なことは「見ざる・聞かざる・言わざる」というのが、アパシー的な対応策であるのは間違いない。しかし、アパシーを続ければますます事態が悪化する。さらには、そのような態度を選択することは、わたしが社会の1人ではなくなることを意味する。そのような自由は公民権(civil right)の放棄である。
 いや、もっと大事なものがある。1955年12月1日、モントゴメリー市営バスの座席に座っていた黒人のパークス夫人が、運転手から座席を白人に譲れといわれたが拒否して逮捕された。これが公民権運動に火をつけ、56年11月13日、連邦最高裁は彼女に無罪を判決した。理由を聞かれた彼女は「人間としての尊厳(human right)の問題です」と応じた。
 普通の人が、人間としての尊厳を念頭に生活する。理屈でいえば、デモクラシーの世の中であるから至極当然である。しかし、どうであろうか。わが日本国においては、素晴らしく輝く言葉にみえるのではあるまいか。デモクラシーの核心は「of the people・by the people・for the people」である。わたしは、なによりもofとbyを意識して生活したいと思う。for=わたしのために、どなたさまかがよろしい政治をやってくださるのではない。歴史が証明している。
 社会は網の目みたいなものだ。わたしは、網の目の1つである。全体にすれば極めて矮小な存在に過ぎないけれども、1つの網の目が綻びて、それが連鎖すれば大きな綻びになる。デモクラシーの社会とはそういうものだ。デモクラシーのために、わたしなりの努力をしよう。それが時代の1人の推進者としての立場だと確信する。


世の中の現状について、私は「目撃者・推進者」である

ライフビジョン学会2017年度  総会学習会報告 1

 2017年5月20日、ライフビジョン学会の総会を行いました。
 恒例総会学習会では、このところザワザワしている世界の政治情勢を背景に、メインタイトルは「世の中の現状について、私は「目撃者・推進者」である」として、全4時間のミーティングを行いました。
 報告第一弾はテーマの趣旨について、ライフビジョン・奥井禮喜が誌面で問題提起いたします。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 
経営労働評論家、日本労働ペンクラブ会員
OnLineJournalライフビジョン発行人