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桜美林大学高井潔司教授最終講義報告Ⅰ

 高井: 私のいた大学では最終講義がないと、ライフビジョンの奥井礼喜さんにこぼしたところ、じゃあライフビジョン学会で主催し実施しようとの話になった。

 今日は大変な専門家がいっぱい来ている。私の桜美林の学生も、北海道からも来てもらった。ありがたい。私は学者研究者というよりもジャーナリストとして、各界で活躍している皆さんをつなぐ役割もある。この機会に多士済々の方々と交流してもらえればと思う。

日時:2019.05.25 14:30-17:00 於ハロー貸会議室半蔵門/千代田区平河町 [photo by Pooh]

私のメディア論 第1部体験的新聞論―読売新聞記者時代(1972—99年)

 私は東京外語大学中国語科を卒業した大学紛争世代、中国の文化大革命の影響で、勉強しないほうが良い学生だとの雰囲気の中で、自分の力をしっかり、身に付けないまま大学を卒業した。そういうコンプレックスがある。大学は5年生までいた。運が良かったのは私が卒業した72年に日本と中国が国交正常化を実現、各新聞社は中国語を勉強している学生を採用した。

 実は私は毎日新聞に入りたいと思っていたのだが、毎日は沖縄密約事件で攻撃を受け、社員募集がなかった。やむなく読売を受けたものの、もともと好きじゃない新聞社だった。面接のとき、日中国交正常化をどう思うかといわれ、読売のことだから反対するに違いないと思い、「慎重に運ばなければいけないのでは」と言った。「お前は読売を読んでいないのか」と聞かれ、正直に「読んでいません」と答えたら「読売新聞を受けるのに読売を読んでいないなんてけしからん」と怒嶋られたのになぜか、入りました。(笑い)

 新聞職場には自社の新聞を愛し、読売イノチ、朝日イノチのような人が結構、多かった。最初の赴任地、福島支局に派遣されたのがちょうど長島選手が引退するときで、一緒にいた先輩など涙を流してテレビを見ている。新聞記者ともあろうものがと思っていた。

凄い連載記事との出会い

 ところで、新聞記者が記事を書くのは生易しいものではない。仕事は見よう見まねだった。福島なので事件がない。殺人事件は1年に1,2度あるかないか。毎日毎日、警察の発表どおり交通事故ばかり書いていた。麻薬密売だとかいくつかの事件の捜査情報を、早く聞きつけて書くのが良い仕事だとの教育を受けた。でも大学紛争世代の私には警察は敵だったのに、ノコノコ出かけて御用聞きするというのは耐えられなくて、いつ辞めるかと思う日が続いていた。

 そのとき、朝日新聞地方版に『木村王国の崩壊』(朝日選書)という、凄い連載記事が出た。現役知事が逮捕された。ごく普通の地方の公務員がなぜそういう事件に巻き込まれていったのか。地道な当事者へのインタビユーを積み重ねたもので、その年の新聞協会賞をもらった。凄いなと思いつつ、自分がそんな記事を書けるとも出来るとも思わないし、内心忸怩たる思いだった。

 実は朝日新聞は、疋田圭一郎という記者が何週間か支局に滞在し、若手記者を指導していたという話を聞いた。調べたら疋田さんはその頃は編集委員で天声人語を書いていた。新聞記事以外、本は書かないとの主義で、彼自身が書いた本はない。本田勝-さんが『疋田圭一郎という新聞記者がいた』という本を出している。あるいは当時の福島支局長で、後の社会部長の柴田哲治さんが、疋田記者が書いた記事を転載した本『新聞記者という仕事』を出しているほど有名な記者だった。『木村王国の崩壊』のあとがきに、受賞者の吉田慎一記者が、続きものをどういう流れにするか、書き方をどうするか、疋田さんから指導されたと書いてある。朝日はそれほど記者教育に力を入れていた。

 新聞社は記者教育が大事で、それは読売の元社長があるシンポジウムで、記者は10年で半人前、20年で一人前だといっていた。言い過ぎとも思うが、私の福島支局時代には残念ながら、そのような記者教育はなかった。

やっと見つけた自分のテーマ

 福島に5年勤務して千葉に行った。ちょうど千葉ニュータウン開発途上、ディズニーランドもできていない頃で、治安は荒れていた。一番驚いたのは公衆電話が皆、壊れていた。県の西部、京葉地区では誰も、自分を千葉県民、千葉市民と思っていない、寝るためだけに帰って来る千葉都民だった。

 そこが大きな分岐点だと私は気づき、千葉県民、千葉市民になろうと思っている人たちは誰かいないだろうかと、コミュニティ活動をしている人を探した。発見したのが、少年野球のために子供たちと一緒に荒地をグランドにして、子供の親たちを動員して、野球だけでなくサッカーのグランドも作ろう、お年寄りもいるから花壇や小さな菜園もと、住民を組織していた人がいた。そういうコミュニティ活動を連載記事にした。

 そのとき気がついたのが、マンションが、団地が、コンクリートの箱形であることだった。それまでの地域社会は長年そこに住む、皆が顔見知りで、一軒家同士のお付き合いだった。これからはそうではない、箱型の建物を壁で仕切られて、お互い隣に誰が住んでいるか分からない。これをどうやって一つのコミュニティにしていくのかという物語を考えて、「箱型コミュニティ――千葉市幸町からの報告」と題して5回の連載をした。

 こうして、記者とは社会の底辺の動きみたいなものを書いていくものではないかと思うに至った。

 福島では年に1回しかなかった殺人事件が、千葉では一晩に3件ある。デスクに怒られた。切った張ったが一晩に3件あるからといって、そこでメシ食っちゃダメなんだ。

 それを追いかけるのも仕事だが、それが何なのか、なぜ起きているのか、大本を少し考えたいと思った。

 少年野球チームの監督が、チームを海外に連れて行きたいという。監督は外資系の第一線ビジネスマン。「狭い公園でキャッチボールをして小さい子供に迷惑をかけるのでなく、子供を中心に大人もそれに関わらせ、野球場は自分で作り、かつ、世界の子供たちと遊べる人間になれと教えたいんだ、どう思う?」。少年野球は軟式でアメリカは月並み。私は中国が良いんじゃないのと提案した。2年後その夢が実現した。1979年、少年野球チームに同行して、改革開放に転じた中国を訪問した。

 中国は1978年から改革開放が始まっていた。当時は野球がオリンピックの種目になるというので、大学生のチームを巨人軍に送り込んで強化してもらうという話があった。我々はそれは野球ではない。アメリカにはリトルリーグがあったが、コチラは軟式草野球。三角ベース、ゴム球から始まった野球の積み重ねの上にプロ野球があるのだから、そういうものを伝えたいとの気持ちで、その話をしに行きました。

社会部で付けた取材力

 千葉でのもう一つの収穫。支局の社会部から来ていた先輩から、「君は外報部に行くけど、いまの外報部の取材は話にならない。君は社会部に行き、取材力を付けろ」といわれた。

 当時の外報部の仕事とは、海外にいても国内にいても、「CNN放送によると」とか「BBCによると」「ニューヨークタイムズによると」、あるいはそれを端折って、さも自分が取材したかのようにごまかして記事を書く、「翻訳」が実情だった。私が外報部に移ったのは、日本がどんどん国際化していく1980年代。日本人はどんどん海外に行く時代に、国際報道がそんなレベルでは、コレはアメリカのテレビでやっていた、イギリスの新聞に出ているじゃないかと、手の内がみんなバレてしまう。そうではなくて自分で取材する、その力を社会部で付けろ。

 私は警察担当が一番嫌いで、また警察担当をしなければならないのかと思ったが、一応納得して渋谷警察担当になった。ジャーナリストの池上彰君とは同じころ、一緒にサツ回りした。彼は5年ぐらい前に桜美林の授業に出講してくれた。電話すると二つ返事で、ただし空いている日は1年に1日しかありません、と言って。びっくりした。

 社会部で警察担当をしていた思い出の一つに、「留学生ビジネス不正」事件がある、試験を受けてもいないのに、あなたは合格しました、これは奨学金が付いているという。読者から投書が来て調べ、記事を書いたのだが印刷寸前でストップがかかった。まだ被害が出ていない。まだ募集していて、私の記事は「不正なビジネスらしい」としか書いていない。会社の中の経理内容も十分把握していない。不正なビジネス、いんちき商法だというだけでは記事にならないし、営業妨害で訴えられるとボツになった。それはそうだとあきらめた。

 ところが3ヵ月後、この人たちが留学先から帰ってくる時に会社が経営破綻してしまい、日本人留学生の帰りのチケットがないと、アメリカの空港で足止めになり、大騒ぎになった。ここからニュースになるのだが、私は事前に取材していたので、他社よりダントツの記事を書いた。しかしこういう被害を事前に防げなかった。もっと突っ込んで取材しなければとの思いが今でもまだある。

 それからもう一つ、自信を持って言えることがある。

 ある日、マンションの屋上から子供が落ちて死亡した。取材に行った。外にもいろいろ事件があり、その記事は載らなかった。他社もベタ記事だった。そのときデスクから、「せっかく取材に行ったのに悪いね」といわれたのだが、私は、いずれ訴訟になる、その時、もっと大きな記事になるから、大丈夫ですと答えた。マンションの屋上は誰が責任持つのか。これからは分譲マンションの時代、アパートに住んでいた住人が分譲マンションの持ち主になっていく時代。管理組合なんて発想がまだなかった時代で、マンションの管理、事故は誰が責任を持つのか。住民たちは関係ない、子供が勝手に入って起きた事故だけど、これからはそうではない。訴訟を待って記事を書こうと私は待っていた。人の不幸や争いごとを待つなんて人間としては最低の仕事ですが。

 ただ、人が落ちて死んだ、だけでなく、その事件はどういう意味を持っているのかを考える。それが記者の仕事で、社会部というのはそういうところなのだ。その記事は社会面のトップになった。どういう視点で問題を捉えるのかが、新聞については重要なことなのだ。ただ警察が発表したものを、はいそうですかと書く。それでも記事にはなるが、それでは何のために記者をやっているかわからない。

外報部国際報道へ

 先輩からは3年、社会部で我慢しろといわれたのだが、ちょうど80年に中国の改革開放に伴い北京支局の記者の数が増員されて、私もその枠で外報部、国際報道に行く。半分はそうだが半分は、当時の外報部長が野球の上手い高井を取れと。中国には野球をしに行ったそうだから、ちょうどいいじゃないかといった具合にスカウトされた。

 外報部に移った初日、外報部長から、君は英語は勉強しなくて良いから、野球だけやってくれればいいとも言われた。私の人生の半分は野球人生でもあるのだ。

 ところがそれはだまし討ちで2年後には、「君テヘランに行ってくれ」と来た。ホメイニ革命の最中です。一応前年に終わっていたのだが、アメリカ大使館人質事件があり大混乱。それにイランイラク戦争の真っ只中。とんでもない時で、それも家族を連れて行けと。これは大変だと断り続けたが、外報部の部長やデスクたちは「テヘラン支局なら毎日記事は載るが、あとは君、1か月に1回記事が載るかどうかのジャカルタ支局しかないよ。君の女房はアラビア語出身じゃないか、ちようどいいじゃないか」と説得を受けた。実はイランはアラビア語ではなくペルシア語で、敵性語なのだが、外報部長の知識はそれぐらいでしかないのだ。(笑い)

 しかし行ってみたら非常に親日的で、戦場は国境から700kmも離れている。その当時は戦闘はまだ、国境線のところで続いていた。3ヶ月に一度ぐらい、イランの革命防衛隊が勝利すると視察に連れて行かれた。戦場は危険極まりなく、取材や検証もできず、言われるままに「イランの勝利」という記事を書かされてばかりなのだが、テヘランにいるときは危険なことは何もなかった。

 テヘラン支局のイラン人助手の導きでイラン人社会にどんどん入って行った。イランというと私たちがテレビでよく見る過激派の「アメリカに死を」というデモの図は、アメリカの圧力でイラン情勢が険しくなってきた時のもので、それとは違う日常的なテヘランの生活があった。行くと面白いので何でも原稿にして送っていた。デスクからは「お前の原稿は抽斗にたまっている、一つ使ったら一つ書け」といわれた。

 その一つに、アルメニアの人たちと同じアパートに住んでいた時の話がある。ロンドンには出国ブームが起きていた。僕は喜んで行くのだと思っていたのだが、若いイラン人が「アメリカに行く」と挨拶に来て、「こうして出ていくのは安易すぎると思われるでしょうね」とポツリともらした。これを「後ろ髪引かれる思いの脱出」としてコラムにした。これが女優の岸恵子さんの目に留まり、――読売のコラムに「後ろ髪引かれる思い」の記事を書いている、宗教や結婚などさまざまな事情から、就職さえできない彼らが、その後ろめたさの表情に私はむしろ、救いを感じた。誰も好き好んで国を捨てはしない。――

 彼女は自分を重ね合わせたのかもしれない。この記事を読んでイランに行きたいとなり、私がずっと町の中を案内した。バザールなどは誰も行かない危険な場所とされていたのだが、誰も行かない危険とはどういうところかと、バザールのルポも連載して、当時は私が紙面ジャックしたのではないかと社内で言われたぐらいだった。日本から岸さんのような方がよく来るので、私はバザールを30分コースとか1時間コースとかにして案内した。岸さんは後にこの時のことを、『砂の界(くに)へ (文藝春秋 1986年)』で書いている。当時はアメリカ、ヨーロッパの新聞はイラクに入れないので、日本の記者の独壇場でした。

中国取材

 その後1984年にイランから帰って、86年今度は中国に行った。改革開放路線の展開、胡耀邦、趙紫陽失脚、天安門事件と激動の中国を見た。実は今朝、講演のレジュメをチェックしたのだが、考えてみると天安門事件を何も書いていない。大学編で触れたい。

 実は先週、元読売編集委員の加藤隆則君が特任教授をしているスワトウ大学に行って講演をした。彼に講義録案を送ったら、「こんな敏感な時に事件について書かないで」といわれた。以来、頭がしびれてしまって、すっかり天安門事件のことを忘れてしまった。

 86年、上海支局開設に行くと、上海の外事弁公室の副主任から、「あなたはイランの次は中国ですか、よほど会社の評価が低いのですね」と言われた。「あなた自身、自分の国がどういう国か良く知っているのね」と言ってやりたいくらいだった。実際のところ、イランや中国は私たちが取材しなければ記事にならない、記者冥利に尽きる国なのだ。

 危険が多い、情報も少ないなどいろいろあるが、自分が見なければ記事にならない。例えば人民日報ではとか、新華社によると、という記事も書くが、中国、イラン国営通信にはそう書いてあるが、しかし、こうだ、というのが無いと記事にならない。その意味で、英語ができないので、ニューヨークやワシントン支局は断りましたけど、実は、ニューヨークやワシントンに行っても現地の新聞、テレビ局には勝てないわけなのだ。結局、現地メディアのセカンドハンド、セコハン記事を書くことになってしまう。それに頼れないイランとか中国などは自分の目で見られてむしろ面白いと、私は見ている。

 そういう面で、中国報道の場合、権力闘争や党内の問題を考えるとなかなか難しいが、私の取材は社会の底流を見るという切り口で他の新聞、外国の新聞社も絶対にフォローしない問題を書いた。

 例えば、上海の郊外で、豊かになりつつある農民が町を自分たちで作るという記事。中国では都市の住民と農民の戸籍がはっきり分かれている。農民は都市に住めないし、農民は農地を与えられる代わりに、食糧は自給しなければならない。住宅も自分たちで賄う。都市住民は農地はないが、食糧、住宅は配給される。

 それが、農村がだんだん豊かになっていき、町を自分たちで作る。土地は返し、自分たちで工場を作り、商店を始めます。こういう動きが出てきた。これが改革・開放の原点、経済発展のエネルギーになる。

 それから、「みかんの故郷・温州」という連載は、23時間船に乗って上海から取材に行った。新幹線もなければ飛行機もない。そのとき言われたのは、「天高く皇帝遠し」。北京から遠いので、党の統制がゆるく大胆な市場経済の取り組みがあった。そういうのを見に行く。

 そういう取材をしたことが、鄧小平死去の号外で生きる。写真に添えた「大きな変動ない見通し」、この小見出しを入れるために編集局長や外報部長と大喧嘩をした。中国は最高指導者が死んだら混乱し、権力闘争が起きる国なんだ。――これもステレオタイプです。でも私はずっと改革開放の現場を見てきた。地方の指導者や起業家、農民たちが、改革開放を待ち望んでいる現場をずっと見てきた。そういう国がどうして、上が死んだからといって変わるものか。上層部も権力の委譲を進め、鄧小平は完全に引退して、彼の死に備えていた。新聞社では現場取材をした記者にこそ発言力がある。その意味で、現在の読売はボスの意向を忖度して、記者たちの自己規制が過ぎる。

 もう一つ、私が外報部デスクにいるうちに天皇訪中が実現した。このとき宮沢官房長官が新聞社の議論を潰し、半年間、議論しないでほしいと言った。

 日中国交回復20周年の天皇訪中にはものすごい反対がありました。宮沢官房長官が一時、半年間、新聞に報道しないでくれと言いにきたとき、外報部の次長だった私は宮沢さんを玄関に迎えて、論説委員会にご案内しました。

 私は論説委員長に、――私はエリザベス女王が上海にいるときに目撃して、中国人がいかに、女王や天皇にあこがれているかを良く知っている。天皇が訪中しても、石を投げたり卵を投げたりすることはありません。中国が大丈夫だと保障している――、と言って、読売の論調を変えるように進言しました。結果、読売の論調も変わり、天皇訪中は実現しました。

(2017/5/20 高井講演 http://www.lifev.com/archives/1965 より)

 右翼の人からは戦犯だといわれるかもしれないが、天皇訪中はあの時実現しなければもう、できなかった。

 平成の明仁天皇の動向を見ていると、あの時中国に行きたかった、行って良かったと考えていると思う。宮沢官房長官が読売新聞に来たとき、私は外報部のデスクなのに出迎えに出た。この人は絶対、首相になる人だと思った。

 世論が転換するときに、読売新聞がどちらに行くかで世論のバランスがガラッと変わってしまう、それが面白い。小泉政権下で日中関係が悪化したとき、読売新聞が歴史を再考する連載をし、転換した。新聞社の影響力の大きさをひしひしと感じた。その中で、記者たちがきちんと取材をして書くという姿勢を持っていれば、独裁体制の読売新聞だって職場として悪くないと思った。(拍手)


《高井潔司》 1948年神戸市生まれ。東京外国語大学卒業。

 読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て、桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授を2019年3月定年退職。公益財団法人新聞通信調査会『メディア展望』に「大正デモクラシー中国論の命運」、月刊ライフビジョンwww.lifev.com「メディア批評」連載中