月刊ライフビジョン | 論 壇

賃金交渉の「定石」

奥井 禮喜
春闘が組合の花形商品

 このままのんべんだらりと賃金交渉に依存した組合活動を続けていると、21世紀に入るころには、「労働組合は倒産する」。わたしたちの情報宣伝チームがこんな生意気な問題提起をしたのは1978年春であった。総合電機メーカーの組合の理論文化誌(季刊・実費販売)に未来小説として創作して発表した。

 1973年が石油ショックで、物価が大高騰した。74春闘は全国平均32.9%・28,981円の超大幅賃上げであった。これは、石油価格がざっと4倍に上昇し、すべての価格が大きな調整を迫られたのであるから、通常の賃上げとは意味が異なる。その後は次第に下がって、78年賃上げは5.9%・9,218円である。当時は6~8%程度で推移していた。

 昨今のみなさんにはとても理解不能だろうが、当時は、年が明ければ「おい、今年はいくら賃上げ要求するんだい?」と、組合員諸氏が執行部に話しかけてくる。春闘の職場集会といえば、80%程度は少なくとも集まる。アンケートをとって希望する賃上げ額を問う。支部の賃金専門委員会で集約して支部としての要求額をまとめる。やがて本部賃上げ原案が提起されると、それに対して支部の見解をぶつける。初めからにぎやかなことであった。

 中央委員会で要求決定して、経営に対して要求を提出する。交渉のたびごとに、本部報告をもとに支部の意見を伝える。いよいよ交渉山場となれば、本部交渉団が腰砕け! にならないように、支部は全員決起集会を開いて「しっかりやろう」と決議する。交渉がもつれてストライキ決行したことも少なくない。すったもんだでようやく交渉妥結に至れば、本部からの経過説明をうけて、「妥結額が低い」「勝手に妥結するな」などなど、支部の職場委員会では、またまたひと騒動巻き起こるという繰り返しである。

賃金闘争だけでは物足りない

 そうではあるのだが、わたしたち30代半ばの面々は、微妙だけれども大幅賃上げ騒動の変化の兆しを読み取っていた。なるほど、賃金は多いほどよろしいのだから、いざ賃上げ交渉となれば盛り上がりを見せるけれども、本気とポーズの隔たりが感じられた。すでに戦後の飢餓賃金時代は昔話になった。「組合=賃上げ」という一本柱だけでは、やがて人心が離反する。賃上げはもちろん大切な雇用関係の柱であるが、それだけで労働生活がバラ色になるわけではない。つまり、当時の花形商品である賃上げが健在な間に、組合としての新商品を提起しようではないか。これが、チームの問題意識であった。

 たまたま『週刊ポスト』が創刊500号記念で未来小説「倒産労働組合」を取り上げたものだから、全国から読みたいのでわけてほしいという電話が組合本部に殺到した。書記局はてんやわんやで、間もなく在庫ゼロになり、支部に売れ残っているのを本部が回収したり、最後はコピーをお分けするという騒動であった。1980年代に入り、ユニオン・アイデンティティに取り組む組合が広がるが、その火付け役を果たしたのが、このささやかな小説である。

ユニオン・アイデンティティの不発

 ユニオン・アイデンティティ活動は、次第に組合離れする組合員の対策として始められた。結論からいうと、にぎやかではあったものの、中身が未熟で10年足らずで影を潜めた。90年代初頭にバブルが崩壊すると、そのような取り組みはまったく見られなくなった。

 失敗の最大原因ははっきりしている。取り組んだ組合(執行部)は、組合員に対して組合活動の存在感をいかに派手に見せるかということばかりに熱を上げた。ユニオン・アイデンティティ活動は「(組合の)存在感」をビジュアルに示そうとしたのであった。単純な話、組合旗の色を赤から鮮やかな他の色に変えたり、組合歌をポップス調にしたり、機関紙の文字を減らしてビジュアルにしたりという調子である。

 わたしは、そうではない、的外れだ。アイデンティティ=「(組合の)存在理由」は何かを立ち止まって問い直す思索が大切なのだと訴えて回ったが、折からのバブル経済にかき消されてしまった。力及ばずであった。

経営功利主義の大宣伝時代

 90年代、大失業時代といわれた雇用不安に入ると、労働組合は全体として、有効な対応策を発揮できず、経営側の成果主義論に押し流されていく。バブルが崩壊して、企業が苦境に陥ったのは事実である。しかし、その原因が終身雇用や年功序列にあったのではない。土地バブルにのぼせ上って経営が緩んだのが最大の原因である。成果主義は、経営責任に頬被りし、「君たち、ぼやぼやしとったら明日はないですよ」とばかり、働く人々の恫喝に大成功を収めたのである。後々、成果主義を真っ先に採用してビジネス新聞・雑誌を常に飾っていた会社の社長が「あれは失敗だった」とインタビューに登場したが、時すでに遅しであった。

 少なくとも、経営側は、押し付けではあったが、新たな会社精神を従業員に植え付けたのである。これを働く側で考えると、働く仲間が協力してチームとしての活動成果を上げるのではなく、頼れる者は己のみというわけで、働く者相互の競争関係が著しく進展した。

 組合の力は、組合員がいかに一致結束できるかに尽きる。雇用契約は会社対個人の間で締結されるが、個人が自分の労働力の価値を押し通せるわけがない。本来、民主主義の市民としての対等関係であるから、法人と個人とは対等の関係において雇用契約を結ぶ理屈であるが、資本主義が支配する社会においては資本を握る市民がそうでない市民に対して圧倒する。

 労働力を売買する売り手(労働者)と買い手(会社)の関係において、売り手は自分が納得できなければ売るのを止めればよいが、労働力を売らない自由というのは、他にいくらでも売る相手が存在しての話であって、普通の人々においては、労働力を売らない自由は、メシが食えない自由と分かちがたく結びついている。だから、徒手空拳の労働者は組合を組織して、会社との団体的関係において、雇用契約を実りあるものにしようとするのである。

賃金は雇用契約の基本

 さて、誤解してほしくないのは、「倒産労働組合」を主張したわたしたちが賃金はどうでもよろしいと規定したのではないのである。すでに人気に陰りが出ている春闘一本鎗ではなく、もっと、働く人の生活に密着した課題をきちんと認識し、さらなる新商品に育てようというのである。賃金交渉は賃金労働が存在する限り永久に継続するのが当たり前である。ひたすら大幅賃上げというカテゴリーだけで考えないようにしようというのである。

 なぜなら、もし賃金交渉を中途半端なものにしてしまうなら、雇用関係の根幹が崩れてしまうからである。前置きが長くなったが、目下の春季賃金交渉の課題について考えよう。

 a 賃金は雇用関係の根幹である。働く人が自分の労働力をいくらで提供するのかについて経営側と明確かつ、納得づく決定するのが当然である。

 b 賃金は、働く人にとっては所得である。この所得は労働力の再生産費を満たさねば生活に支障がでる。

 労働力の再生産費とは、「本人の生活費+家族の生活費+広義の教育費」を意味する。たとえば、仮に賃金がまあまあの状態であるとしても、疲労が蓄積して、たまの休日はひたすら横になって休養を取るだけというような働く条件であれば、それは、働く側の持ち出しが多すぎるのである。

 c 賃金は、企業にとってはコストである。コストが経営能力を超過するようなことになっては経営が成り立たない。

 だから、賃金をいくらにするかというのは、働く人にとっても、企業にとっても根本的に死活問題である。ここに、賃上げしようが、引き下げようが、あるいは前年と同じだろうが、労使がきちんと話し合って双方が了解することが大事である。

 そこで、賃金交渉を客観的に考えると、労働力という商品の売買関係であるから、次の3つの関係が発生する。

 1 売り手同士の間(働く人同士)

 2 買い手同士の間(企業同士)

 3 売り手と買い手の間(働く人と企業)

 商品の取引関係においては、1 売り手同士の間の競争が激しければ商品価格は下がって買い手有利になる。2 買い手同士の間の競争が激しければ売り手有利になる。3 売り手と買い手の間で取引がおこなわれる。

 組合を通じて働く人が経営側に賃金を要求する場合、1であったら間違いなく不利である。たとえば失業率が高く、働き手が買いたたかれても売りたいというような場合には賃金は上げにくい。2であれば、つまり働き手が不足している場合は、賃金を上げやすい。そのいずれかの状態を背景として、3の賃金交渉がおこなわれる。

組合員個々人の要求になっているか

 雇用関係は、理屈上は企業と働く人個人の間で締結されるのであるが、組合を作っていて賃金交渉する場合は、組合が組合員個々人の要求をまとめ上げて一括要求することになる。

 その場合、組合要求は、どんな数字になろうとも、組合員個々人の要求を総和したものである。すなわち、組合要求は、組合員個々人が納得づくで固めたものでなければ意味がない。

 極めて単純な原則的な話を並べたが、昨今の組合の賃上げ要求は、組合員個々人の要求になっているのだろうか? 連合がガイドライン(要求)を決めて、各産別が産別としての要求を作る。各単組は、果たして産別が決めた要求が自分たちにふさわしいか、そうでないとすれば何が違うのか、これをきちんと検討しなければならない。

 単組の要求がいくらになるかはともかくとして、その要求が組合員個々人にとっていくらになるか、十分にわかっているだろうか?

 もし、単組要求はわかっていても、それが自分にとっていくらなのか、組合員個々人が理解していないのであれば、本当の要求にはなりえない。

 とくに中小組合の場合、賃金制度や賃金の算式がきちんとつくられていないケースが少なくないだろう。これでは、賃上げするといっても、組合員個々人にとっては、ただことの顛末を傍観するしかない。

 たまたま某新聞が社説で「春闘労使協議 中小に賃上げの恩恵を広げたい」という見出しを掲げた。この記事を書いた記者が賃金とは何かについて、とんと勉強していないことは一目瞭然である。

 恩恵とは何か。賃金を支払うのは経営側だから、恩恵を施すのは経営者だというわけだ。賃金は恩恵などではない。労使が対等関係において、じっくり話し合って決めるものである。これでは、まるで敗戦までの封建的労使関係である。いわく、「(経営者は)働かせてやる」、「(労働者は)働かせていただく」のだから、賃金は恩恵という次第になる。

 こんな記事を社説に掲載する新聞社の無知蒙昧ぶりは論外である。しかしながら、仮に組合員諸氏が、「誰かがボクの賃金を決めてくださる」と考えていなくても、自分の要求がいくらで、それを全体化したものが賃上げ要求だという手続きなしでいるのであれば、実質は、頓珍漢新聞社の主張と同じである。

 いよいよ春季交渉が本格化するが、大きい組合も小さい組合も、この賃金の原点を再認識して、組合員個々人が、自分の要求であることを認識する活動を真っ先に確実に展開しよう。そこから、性根の入った組合活動が出発するのである。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人