月刊ライフビジョン | 家元登場

自由の保証

奥井禮喜

■ 自由の保証

 わたしは魯迅さん(1881~1936)が大好きだ。63年先輩で、81年前に亡くなった。しかも中国人である。魯迅さんが日本語で書かれたもの以外は翻訳に頼るしかないが、竹内好さん、増田渉さん、松枝茂夫さんの翻訳は生身の魯迅さんに接する心地になる。「文は人なり」、魯迅さんの文章を読むたびに人柄に触れて、ますます尊敬の念が深まる。昨今わが国では、政治権力が言論の自由を圧迫するという嘆き節が聞こえるが、魯迅さんの時代は、少し油断すればいつでもどこでもチュンと俗界から消されてしまった。言論の自由にせよ、他の諸々自由にせよ、それが完璧に保証されるわけがない。権力とはそういうものだ。表現の自由、自分が主張したいことを最大限突き詰めて書き残す。なによりも、その静かな不屈の闘志に学ばなければならない。そして、暗黒時代にもかかわらず、痛烈なユーモアで語りかけてくる。サービスしてまっせと決して言わないがサービス精神旺盛なのである。

■ 風雲と風月

 満州事変と日中戦争勃発の間の1934年、蒋介石国民党は作家に対して、風雲を談ずるのでなく風月を談ぜよと強制した。魯迅さんは、よろしい風月を談じましょうと受け止めて、しかし風月といってもその言葉だけで制限できないよ。なんとなれば、と『淮南子』を引用してみせる。周の賢人・柳下恵は魯の裁判官として孔子さまにもほめられた。彼の弟である盗跖は9千人を率いていた大泥棒であった。柳下恵が「飴で年寄りを養えるか」と応じたが、片や「門の錠前を外すことができる」と語った。たかが飴を見てもこんなに反応が異なる。風月といっても容易に一枚岩にはなりませんぞというのである。主観が客観に従うのではなく、客観が主観に従うのである。カントの「コペルニクス的転回」を巧みに引っ張り出し、主観=自我(魯迅)を蒋介石一派ごときに統制されるものか。力で精神の自由を奪われることはない。と、うっちゃりを食らわせるのであった。

■ 莫談と放弾

 「莫談国事」という四文字の貼り紙が菜館(料理店)などに掲げてあった。国事を談ずるなかれと理解しているが、それは誤解だよと魯迅さんは意表を突く。なんとなれば、国事について漫談するのはどうってことはないのだ。漫談はよろしいが、間違って打ち出した矢玉が、どなたかの鼻っ柱に命中してはいけない。――なんとなれば、その鼻こそが彼の武器であり、看板だからである、と。これなど現代日本の国事においてもぴったしかんかんである。いわく「国民に寄り添って」とどなたかが語るが、抑え込んでもどついても不屈の粘りを続ける沖縄県民には、絶対に寄り添わない。まさに鼻っ柱に命中しているからである。ヘイトスピーチというクライムが、どう見てもお目こぼしされている。それは連中の主張が、どなたかの鼻っ柱に阿るものだからである。ヘイトクライムは国事を談じているけれども、魯迅さんが指摘するところの漫談であるからだ。

■ ペンの闘志

 1933年6月から11月にかけて、魯迅さんが書き残した「風月」談ならぬ社会短評は64篇に及ぶ。蒋介石の文化弾圧は熾烈なもので署名「魯迅」とすれば絶対に公表できなかった。徹底的に目をつけられていたからだ。そこで魯迅さんは検閲の目をごまかすために50近くの筆名を使い、文章の雰囲気を変える作戦を図った。それでも検閲官だけではなく、(権力に)「寄り添って」いる連中が鵜の目鷹の目で筆名の魯迅を探り、おおいに密告に励んだそうだ。そのころ、ヒトラーのドイツでは名曲『蚤の歌』が禁止されたことを魯迅さんは書いている。――蚤が大臣になり上がり、家来引き連れのしまわる。后も女官もこわがって、誰も手出しができませぬ。食われて痒くなったとて、押し潰すこともなりませぬ。アッハッハ、アッハッハ、ハハ、アッハッハ! ――月並みだが、「ペンは剣よりも強し」を生涯貫いた魯迅さんの生き方にいつも励まされる心地になる。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 
経営労働評論家、
OnLineJournalライフビジョン発行人