月刊ライフビジョン | ビジネスフロント

長時間労働と夏休みの宿題

おかぼん

 小中高生の夏休みが始まった。夏休みというと山や海へ出かけた記憶と共に宿題に追われたことを思い出す。これは今も昔も変わらない。

 先日、東京ビッグサイトで開催された「総務・人事・経理ワールド」を見てきたが、その一つに「働き方改革EXPO」がある。働き方改革とは日本の企業文化、日本人のライフスタイル、日本の働くということに対する考え方そのものに着手する改革と言われるが、今の私の「働く」観は、この小中高校時代の宿題によってすり込まれたものと信じて疑わない。

 学校の勉強は学校内で完結すべきであり、それを本来自由であるべき時間を宿題で拘束するのは明らかにおかしい。何も勉強をするな、ということではない。勉強は各々が好きなように、自由意志で行えばいいことで、それを宿題で強制するのはいかがなものか、と問いたいのである。

 仮に宿題を肯定するとしても、本来宿題の目的は学習の成果を定着させるものである。従って、例えば漢字であれば覚えればよく、計算であれば理解して間違わずにできればよいのであり、もうすっかり覚えた漢字を何十回も書いたり、理解した計算を何十問も解いたりするのは、忍耐力の養成以外に一体何の効果があるのか、はなはだ疑問である。

 これまさに、今の働き方に酷似している。

 本来仕事は定時で終わらせるべきものを、宿題のように残業が日常化しているが、その残業時間たるや特に間接部門において、何十回も書く漢字書き取りのような無駄な資料づくりに投入されていたりしないだろうか。

 さらにまた、その無意味な宿題のように、組織は無駄な残業でもきちんとやる者を勤勉として評価する。漢字はもう覚えたからと書き取り練習をしない者同様、そんな資料は無駄、とさっさと定時で帰る者は評価されないのである。

 オウム真理教事件では優秀な若者たちがいとも簡単に、「マインドコントロール」に身を投じた。現代サラリーマンもマインド(自分自身)を持て余し、他者の介入を待っている、とは言いすぎか。

 働き方改革には、少し時間はかかっても、小中高生の宿題の見直しから進めてみてはいかがであろうか。因みに労働時間の少ない北欧は、夏休みの宿題もないのが普通という。