月刊ライフビジョン | 家元登場

折れたラケット

奥井禮喜

折れたラケット

 田舎にいた18歳まで、自分が何を考えていたのか思い出そうとするのだが、すんなりとは出てこない。最大の原因は忘却である。先日、電話があって、「杉山某というのだが、中学が一緒だった。テニス部(当時は軟式庭球と呼んだ)で活動した」。記憶がない。部長先生の名前を出すと、的確な返事がある。どうやら彼は部員であったらしい。だいぶ時間が過ぎて、ひょっとすると先輩だったのではないかと思うようになったが、まだ確信を持てない。部室に捨てられていた折れたラケットを修理して使っていたが、2年生になって母親がラケットを買ってくれた。飽きっぽいから継続するかどうか1年間が考査期間であったろう。お隣の工場のテニスコートを使わせてもらっていた。大人と一緒に競技する市民大会で優勝した。何しろテニス人口が極めて少なかったから、中学生のほうが強いに決まっている。その程度しか思い出せない。記憶のある先生は、たった2人である。

磨かれざる玉

 自分自身についての内省なんて全くない。中学校で読んだ本の記憶がない。『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)を読んだのは小学校5年生だが、中学校を卒業するまでの記憶に残る本はこれ1冊である。そういえば、大衆娯楽雑誌を読んでいたのがバレて、母にかなり厳しく説教された。これが思春期の画期だったかというとそうでもない。お説教のせいではなく、その後は読みたくもなかった。勉強の成績はよろしい。オール5も何度か獲得した。しかし、勉強に気合が入っていたかと言うとそうでもない。試験に対しての要領がよかっただけである。つまりは、勉強よりもテニスにめり込んでいたはずなのだが、如何せん、それにしては記憶が薄すぎる。無理もない。テニスの県大会でNO.2になったのは高校2年生の秋であった。母は孟子の母みたいに、わたしが研鑚努力しやすい環境を作ってくれたのであるが、玉でなく、石であり、玉だとしても磨かなかった次第である。

温室の花

 こんな調子だから、当時、自分の周辺に考えがほとんど及ばない。田舎は、貧しいのは間違いないが、産業らしい産業がないというだけではなく、いわゆるコミュニティとしての動きがほとんどなかった。要するに、皆がチームを作って、何かの目標に向かって活動を進めるという体験が皆無である。たまたま高校時代にちょっぴり花開いたテニス部活動にしても、勉強したり、研究したりするわけでなし。各人の勘とささやかな根性で連日練習しては、下校時、小さな饅頭屋で大判焼きをほおばる。男子校である。高校2年生で1週間ばかりアルバイトの真似事をして、女子高生と友だちになったが、プレ・プラトニックラブ(?)で、後々に語られる恋愛武勇伝すらない。刺激の少ない田舎での、温室栽培みたいなものだ。ようやく恋愛感情で悶々とするようになるのは、社会に出て22歳を越えたころである。思えば、そこまでずっと幼児性を背負っていたとしか思えない。

問題の解

 わたしが組合に関わるようになったのは、すべて偶然である。たまたま1年先輩が、職場の青年部委員になれと指名した。彼に指名する権限はないが、気軽に青年部の会合を覗いて、たまたま理屈好きの同い年の機械工と仲良くなり、2人で学習会を作り、数人の仲間を集めた。学習会といっても粗雑なもので、きちんと記録するでもなし、わいわい放談するわけで、主たる標的は、とかく対経営交渉において日和やすい組合執行部を口撃するための材料を探す。しかしながら、下手な鉄砲も数撃てば当たった。20歳で組合支部役員選挙に当選した。小さな学習会であるが、池に石を放り込んだようなもので、やがてそこから育ったメンバーが支部活動、さらには本部役員として活躍する。人と人、集団と集団が意見交換して、問題の解を求める活動は、社会の基盤である。バカをやる奴もいるが、それは結局、国全体を過疎にする。過疎が恐いのは人同士の関係が希薄化することだ。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人