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わが国政治と官僚機構

21組合研究会

はじめに

 われわれは民主主義と平和を追求する憲法をもっている。ただし、憲法にせよ、それに基づく数々の法律にせよ、所詮は言葉であるから、現実政治がそれらに基づいておこなわれていなければ、民主主義でございますと胸を張って語る訳にはいかない。

 そしてなお、絶対に失念してならないのは、いかなる政治的状況が現出していようとも、「わたしが1.2億人分の1」の権利・責任・義務を担っていることによって、現在の政治がある、という否定も帳消しもできない事実である。「国民は、その国民に応じた政治しか手にできない」という言葉を、わたしはしばしば思い浮かべる。

ワイマール共和国の教訓

――ナチスの台頭

 ワイマール共和国は1919年から1933年まで存在したワイマール憲法に基づく連邦制共和国であった。1919年8月11日、ワイマールで開催された国民議会でドイツ共和国は、通称ワイマール憲法を成立させた。当時、史上最大の民主的憲法といわれた。

 *マックス・ウェーバー(1864~1920)が「職業としての政治」という、あまりにも有名な講演をしたのが1919年1月28日(日は推定)であった。知識人・学生たちが熱烈な「革命」的心情を抱き、政治家を志そうとしていた。彼はそれが浮ついていると認識し、天職としての政治家の資質をもっているか否か問うべしと鋭く迫った。同時に、10年後には反動の時代の真っただ中にあるだろうと予言した。それは予言以上の酷薄な展開となった。

 第一次世界大戦敗北から瞬く間に軍人勢力が復活、ナチスが台頭した。政府は社会民主党が単独で担ったが、政権に十分なビジョンがない。国民の民主主義意識も未熟である。1920年、左翼の盲動、右翼テロが頻発して国粋主義=反ユダヤが高まった。超インフレ、中産階級没落の中で、下層中産階級・青年層の支持をうけた大衆運動としてのナチスが大膨張していった。

 *軍人はユンカー(領主貴族)が多かった。日本でいえば士族階級である。

 ヒトラー(1889~1945)が一揆を起こすが失敗し投獄される。(1923.11.8)翌24年末には保釈出獄した。ウォール街の株価大暴落発生(1929.10.24)、社会的混乱の中で人民党とナチスが結託。総選挙では獲得議席が社会民主党143、ナチス107、共産党77であった。そしてヒトラーは「資本家+国防軍」を味方につけて親衛隊(SS ナチス暴力支配の中核)を立ち上げた。

――政権中枢連中の《非》民主主義感覚

 1933年1月30日、ヒトラーは、大統領・ヒンデンブルグ(1847~1034)の任命をうけて首相に就任する。社会民主党と民主主義の敗退が決定的になった。以後、ワイマール憲法は完全に骨抜きされて、ナチス政権下のドイツの超暴走が開始したのである。で、次の発言を思い出してほしい。

 僕はそう言うんですよ。いつの時からか騒ぎになった、と私は。騒がれたら中国が騒ぐとならざるを得ない。韓国は騒ぎますよ。だから静かにやろうや、というんで憲法もある日気がついたらドイツのさっき話しましたけれども、ワイマール憲法といういつの間にか変わってて、ナチス憲法に変わってたんですよ。誰も気が付かないで変わったんだ。あの手口学んだらどうかね。(麻生太郎副総理・財務相 2013.7.29)

 ワイマール憲法がナチス憲法に変わった事実はないが…麻生の本音発言(失言ではない)は、自民党中枢連中が民主主義など本気で考えていないことを率直に表明している、と見て忘れないようにしたい。なにしろ低質だ。

 そうかと思えば首相・安倍はイスラエルのホロコースト記念館で「特定の民族を差別し憎悪の対象とすることが、人間をどれほど残酷なものにしてしまうかを学ぶことができた――差別と戦争のない世界・人権が守られる世界の実現に向け働き続けなければなりません」と語った。(2015.1.19)

 *直後、IS(Islamic State )が後藤健二、湯川遙菜両氏の殺害脅迫。72時間以内に2億ドル(236億円)支払えという映像を流した。ホロコースト記念館で献花の際、安倍はユダヤ教徒が頭にかぶるキッパ(Kippa)を着用。ISからすれば、1つのサインと受け止めたかもしれない。

 安倍の足元でヘイトスピーチがお盛んなことなど知らんぷりである。

 麻生と安倍のいい加減さは特筆大書だ。もっとも大方は無神論(正しくは無神経・いい加減)で、神道・仏教・キリスト教を平然と使い分ける日本人であるから、それを代表しているといえなくもないが…「文明の衝突」などを読んで訳知り顔する一方で、国際的問題状況において、政治家が軽々しく発言し行動するのを見ていると、まことに肌寒い。

無関心の様相

 政治的――という言葉には好ましくない語感がある。本来、人々のための政治を前提とすれば、政治的たることは上等であるにもかかわらず。いわく、かけひきに巧みだという印象である。然り、政治は「かけひき=交渉」ごとである。なぜ交渉が必要か。「問題」が発生すると「解決」しなければならないからだ。「問題」→「解決」の間に「交渉」過程が発生するのである。

 問題を解決に導くのだから、①交渉は必要であるし、②解決すれば人々に歓迎されて当然であるし、③交渉に卓抜した人が評価されるはずである。逆に、交渉が否定的印象をもつのは解決の妥当性に疑惑・不信感が発生するためである。Aという主張があり、Bという主張があるとして、A(B)を主張する人はA(B)の結論がほしい。しかし、A、Bの双方を満たすC>A、Bという解が求められない限り、双方に不満が残る。かくして交渉者は人々に歓迎されないし、評価されないのである。

 至極当然であるが、AもBも自分の主張を獲得したい。そこで勝敗感覚が支配する。理屈ではCを求める交渉がおこなわれるべきであるが、その作業は従来の自己主張とは質が異なる。Win・Win、互恵・互助という言葉が飛び交うけれども、現実の人間は一皮むけば自己中心主義である。かくして、政治家には哲学的思考・行動が求められるし、これを以て「品位」というのであるが、経験からすれば、そのような人物が政治家になっているわけではない。

 政治によって解決しなければならない問題は、さまざまな異論があり、容易に結論を見出しにくいものが多い。逆にいえば速やかに決められないから、国費と時間を費やして慎重審議するのであるが、どうも、そのような真剣真摯な政治家的精神にお目にかからないのが遺憾である。

 さらに始末が悪いことに、民主主義といえば「多数決」であると勘違いしている一知半解の連中が多数派である。多数決を前提にするならば、いかに長時間論議したとしても、所詮時間潰しに過ぎない。論議する過程を通して、それぞれが事前にもっていた考え方に変化が発生しなければ論議の意味はない。だから、議会が本当に議会としての存在感を発揮するためには、党派性を超越して論議に集中するという「職業人」としての精神と技術が不可欠なのである。

 *一時期、メディアが盛んに「決める政治」を叫んだが、これなど典型的に非民主主義思想が顔を出しているのであって、わが国政治が相変わらず未熟な段階を徘徊している責任のかなりの部分がメディアにあることを指摘しておく。イデオロギー以前の問題である。

――執行権の拡大と官僚機構

 議会がこのような体たらくにあることに加え、現代政治においては、執行権の強化が著しいという大きな問題がある。民主主義は三権分立を掲げているが、執行権が野放図に拡大するのは民主主義ではない。逆にいえば議会が停滞しているから執行権が大きな顔をするのでもある。

 執行権を維持しているのは官僚機構である。敗戦後民主主義体制になっても、明治以来、一貫して変わらない体制を維持しているのが官僚機構である。明治維新で官僚は、天皇の官僚として出発した。官僚は政党政治を極端に嫌って、その排除に努めた。なんとか政党政治が開始したのは原敬(1856~1921)が内閣を組織したときである。

 *大正デモクラシーの波が巻き起こっていた。1918年8月3日、富山県の主婦たちの行動が全国的米騒動に発展した。寺内正毅内閣が倒れ、原敬が9月28日に初めての政党内閣を組織した。絶対的権力者であった元老・山形有朋(1838~1922)は、執行権=官僚政治論者であるから一貫して政党排除の姿勢であったが、このころになると立憲君主制・儒教的王道論を柱として民本主義を取り入れるという考えを述べるようになっていた。

 敗戦までの体制については「軍国主義=軍部」責任説が一般的であるが、それも含めて、本質は官僚機構が政治を牛耳り差配していたのである。敗戦直後は、シャッポが天皇からGHQに変わったが、それは間接統治であり、官僚機構はそのまま維持されて残った。

 *1960年代までは、しばしば日本の官僚は優秀だという神話が流れた。しかし、官僚機構の内部は部外者にはわからない。政治家は一応選挙で国民の批判を受けるが官僚はどこ吹く風である。官僚中枢がイデオロギーとして天皇制回帰を狙っているかどうかはともかくも、少なくとも執行権を官僚の恣意によっておこなおうとすれば、複雑多様な国民の意見を無視したほうが執行しやすいのは自明の理である。

 官尊民卑の気風が払拭されただろうか。単に官僚が威張るというようなことではない。いま官僚において「全体の奉仕者」としての仕事観が確立されているであろうか。明治の初期官員は士族が中央81%・地方74%である。また、位階勲等をみれば、いまも官員優位に進められているのが一目瞭然である。

 官僚の特質は、①集団全体の利害に対する絶対的忠誠、②それは一種の官僚ギルドである、③事実上議会を支配している、④世間には官僚が中立だという神話があるなどなど。巨大な出先機関があり、地方政治に官僚の進出が著しい。上級官僚と政治家、あるいは財界などとの癒着も十分に想像できる。おそらく、国家を担っているのは官僚とその機構だという自負をもつ上級官僚が多数派であろう。

 「官僚機構は官僚主義によって運営されている。その下で先頭に立ちうる者は自己存在を放擲した者である」(カール・ヤスパース 1883~1969 独)の言葉は決して大げさでもなんでもない。上級官僚を統御するためには、公務員労働者による組合がしっかり活動しなければならない。しかし、公務員労働組合の力の低下は傍目にも十分過ぎるくらいわかる。

 *連合の民間労組には、官民統一が連合運動の失敗だったという説があると仄聞するが、もし、本当であれば、全然的外れな見解だというしかない。官に対する批判を下級公務員にぶつけるのはお門違いであるし、「力と政策」で政治的影響力を強めたいのであれば、官公労働組合を強化しなければならない。「力と政策」が労働戦線統一の目的だったはずだ。

 ついでながら、民主党政権(2009-2012)の失敗の背後には、民主党が官僚(機構)との全面的対決を掲げたことがあると思われる。戦略・戦術が稚拙であったことは疑いないが、その着眼点は外れてはいない。安倍内閣が官僚の支持を獲得しているのは、大きくいえば、①執行権の拡大について政官の思惑が一致している、②上級官僚には戦前体制への憧憬がある、③とりわけ議会政治の軽視で両者のフィーリングが合致している、④ややこしい問題は先送りして官僚体制にしわ寄せしない――などであろう。

 *これは決してウガチではない。戦後政治を担ってきたのはほとんど自民党であるが、にもかかわらず自民党・内閣が「行政改革」を正面から打ち出すのは常に慎重であった。官僚を敵に回さないというのが自民党的計算である。つまり権力のうまみを分配している。

 また、たとえば外務省には、ロシアや中国、北朝鮮との関係改善をしないほうが好都合だという読みもある。なぜなら恒常的敵対関係を維持することによって、国論一致を作ることに貢献するというのである。まさに明治以来の体質が変わっていないわけだ。

――国家権力をどう考えるか

 憲法はすべての政治的行為の基盤となる規範・規則であり、権力者と非権力者(被権力者)の関係においては、権力者(の権力行使)を縛るものである。権力者はともすれば過剰に権力を行使する危険性があるから、権力者を縛るという意義はどなたさまも拳々服膺しておかねばならない。また、民主主義における人間の平等は「市民」(という約束)においてであり、人間性一般の平等ではない。市民が育たなけれは民主主義は存在しない。

 わが国の民主主義を再建するためには、どうするか。焦っても仕方がないが、これだけはきっちり認識しておいてほしい。すなわち、組合の主たる行動様式が労働条件のみに集中している間は、労働者大衆は直接の政治プロセスに顔を出さないということである。非権力者が権力者に対抗するには社会的影響力をもつように一念発起するしかないのである。政治の勉強会を組織するなど単組でも工夫してほしい。

2016/01/13  21組合研究会発表 民主主義の原理—権力と非権力 より抜粋


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人、21組合研究会主宰